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第33話 黒蝶をほどく清水

 黒蝶の群れが、門前の空を覆った。


 ぱたぱた、ぱたぱた、ぱたぱた。


 小さな羽音が重なり、耳ではなく胸の内側を叩いてくる。


 甘く焦げた聖香。

 腐った蜜。

 湿った灰。

 そして、人の願いを吸い上げるような、べたつく匂い。


 マルドの手の中にある黒い香炉から、次々と蝶が生まれていた。


 神殿騎士たちは後ずさる。


 彼らの顔には、恐怖と混乱が浮かんでいた。


 神官長が聖なる香を焚いているはずなのに、そこから黒蝶が出ている。

 その事実を、どう受け止めていいのか分からないのだろう。


 マルドだけが、穏やかさを捨てた顔で笑っていた。


「香律師の血は厄介です。セレナも、あなたも」


 リリアは母の木箱から取り出した包みを胸に抱いた。


 清水の瓶。

 母の帳面。

 小さな白い香炉。

 三つ目の石片。


 どれも渡せない。


 けれど、黒蝶が迫るにつれ、足が震える。


 怖い。


 怖い、怖い、怖い。


 でも。


「怖いです」


 リリアは声に出した。


 ノアが前に立つ。


「ああ」


「でも、香りは読めます」


「なら、指示を」


 その一言で、リリアの胸の震えが少し整った。


 戦うのはノアたち。

 香りを読むのはリリア。


 一人で全部背負わない。


「蝶を斬らないでください! 裂くと匂いが散ります。剣圧で流れを変えて、白露草の香りへ押してください!」


「聞いたな!」


 ノアの声が響く。


 騎士たちが一斉に構えを変えた。


 白い神殿騎士たちはまだ迷っていたが、エルヴィンが叫んだ。


「従え! 黒蝶を直に斬るな! 呪香が広がる!」


 その声に、数人が反応した。


 神官長ではなく、現場で黒蝶を見たエルヴィンの声に。


 マルドの目が冷たく細まる。


「まだ騎士のつもりですか、エルヴィン」


「騎士であるつもりです」


 エルヴィンは剣を構えた。


「だから、今ここで人を守る」


 黒蝶の群れが一斉に降ってきた。


 ノアの剣が走る。


 刃で斬るのではない。

 鋭い剣圧が黒蝶の流れを逸らし、白露草の布を敷いた地面へ押し込む。


 蝶は白露草の香りに触れ、羽音を乱した。


 ルゥが吠える。


 月光が弾け、数十匹の蝶が灰になる。


 けれど、多い。


 黒香炉から生まれる蝶は尽きない。


 リリアは香りを読んだ。


 この蝶は、ただ襲ってくるだけではない。


 願いを探している。


 父の後悔。

 セシリアの恐怖。

 エルヴィンの贖罪。

 神殿騎士たちの忠誠と迷い。


 それらを餌にして増えようとしている。


「皆さん、自分の願いを黒蝶に渡さないでください!」


 リリアは叫んだ。


「後悔も、恐怖も、忠誠も、自分の中に置いてください! 蝶に差し出さないで!」


 神殿騎士たちが戸惑う。


 マルドが笑った。


「抽象的なことを。騎士たちがそのような言葉で動くとでも?」


「動きますわ!」


 セシリアの声だった。


 彼女は玄関の柱に手をつき、顔を青ざめさせながらも立っていた。


「私は、それで黒蝶から離れました!」


 その声は震えていた。


 それでも、彼女は続ける。


「怖いなら怖いと言えばいいのです! 認められたいなら、そう思っていると自分で知ればいい! 神官長様に預けてはいけません!」


 マルドの顔が歪む。


「セシリア、黙りなさい」


 以前なら、それだけで彼女は黙っただろう。


 だが、セシリアは涙目で首を横に振った。


「嫌ですわ。もう、あなたの“特別”はいりません」


 その瞬間、彼女へ向かって黒蝶が殺到した。


「セシリア!」


 エルヴィンが駆ける。


 リリアは即座に白露草を投げた。


「エルヴィン様、右へ流してください!」


「分かった!」


 エルヴィンの剣圧が蝶の群れを逸らす。


 白露草の香りが受け止め、ルゥの月光が焼き払う。


 セシリアは膝をつきながらも、胸元を押さえていた。


「怖い……でも、渡しませんわ……!」


 その香りは不安定だ。


 でも、焦げていない。


 リリアは小さく息を吐いた。


 その時、黒蝶の一群が父の方へ向かった。


 父の後悔は濃い。

 黒蝶にとって、格好の餌だ。


 父は左腕を押さえ、歯を食いしばっている。


「オルド殿、下がれ!」


 ノアが叫ぶ。


 しかし父は下がらなかった。


 彼はリリアを見た。


「リリア」


 その声は、弱く、苦い。


「私は、お前の母を守れなかった。お前も守れなかった」


 黒蝶が父の周囲に群がる。


 後悔の香りを吸おうとしている。


 リリアの胸が痛んだ。


 今すぐ助けたい。


 でも、父の後悔をリリアが抱えることはできない。


 抱えてはいけない。


「父上!」


 リリアは叫んだ。


「その後悔は、私に渡さないでください! 黒蝶にも渡さないでください!」


 父が目を見開く。


「それは父上のものです。父上が持って、これからどうするか決めてください!」


 厳しい言葉だった。


 でも、必要な言葉だった。


 父の香りが揺れる。


 黒蝶がさらに羽音を強める。


 父は震える息を吐き、包帯の巻かれた腕を押さえた。


「……ああ」


 低い声だった。


「これは、私の罪だ。私が持つ」


 その瞬間、父の周囲の後悔の香りが、少しだけ形を変えた。


 黒蝶に吸われる霧ではなく、胸の内に沈む重い石のような香りへ。


 蝶の動きが鈍る。


 リリアは母の清水の瓶を取り出した。


 ほんの一滴。


 白露草へ落とす。


 清水の香りが広がった。


 母の箱に守られていた、濃い清水。


 その香りが門前の黒蝶の群れに触れると、羽音が乱れた。


 マルドの顔が変わる。


「それを使うな」


 初めて、声に明確な焦りが混じった。


 リリアは気づいた。


 黒蝶は清水を嫌う。


 でも、それは単に浄化されるからではない。


 清水は、願いを本来の場所へ戻す。


 人から切り離され、呪香の餌にされた願いを、その人自身へ返してしまう。


 だからマルドは恐れている。


 人の願いを集め、黒い根に注ぐことができなくなるから。


「これは奪う香りではありません」


 リリアは言った。


「戻す香りです」


 マルドの黒香炉が大きく脈打つ。


 黒蝶の群れが、今度はリリアだけを狙って集まった。


 ノアが剣を構える。


 ルゥが前に出ようとする。


 しかしリリアは、ルゥの背をそっと押さえた。


「ルゥ、少しだけでいいの。無理しないで」


 ルゥは不満そうに唸った。


 それでも、月光を細く絞るように放つ。


 リリアは清水を含んだ白露草を掲げた。


 母の言葉を思い出す。


 汚れは、流れる場所を作ってあげるの。


 黒蝶を潰すのではない。


 蝶になってしまった願いを、元の場所へ戻す。


 リリアは香りを広げた。


「帰って」


 白露草の膜が、清水の香りを帯びて空へ上がる。


 黒蝶の群れとぶつかった瞬間、激しい羽音が響いた。


 ぱたぱたぱたぱたぱた。


 頭の中へ、いくつもの声が流れ込む。


 認められたい。

 失敗したくない。

 選ばれたい。

 守りたい。

 隠したい。

 支配したい。

 許されたい。


 多すぎる。


 リリアはよろめいた。


「リリア!」


 ノアの手が背を支える。


 その温かさで、リリアは崩れずに済んだ。


「一人で聞きすぎるな」


「はい……!」


 そうだ。


 全部を受け止めてはいけない。


 戻すだけ。


 リリアは香炉石を握った。


 胸元の石。

 薬草帳の薄片。

 木箱にあった三つ目の石片。


 三つの石が、リリアの胸の近くで淡く響く。


 清水の香りが道を作る。


 黒蝶の中の願いが、一本ずつほどける。


 神殿騎士の忠誠は、神殿騎士自身へ。

 セシリアの恐怖は、セシリア自身へ。

 父の後悔は、父自身へ。

 エルヴィンの贖罪は、エルヴィン自身へ。


 そして、マルドの支配欲だけが、黒香炉へ残った。


 黒蝶の数が減っていく。


 灰になるのではない。


 白い光の粒となり、それぞれの人の胸元へ戻っていく。


 神殿騎士たちが次々と膝をついた。


「今のは……」


「俺は、何を……」


「神官長の香りが、ずっと……」


 迷いの香りが広がる。


 だが、それは黒蝶の餌ではなくなっていた。


 自分で抱えた迷いだった。


 マルドの黒香炉から、ぎしりと嫌な音がした。


「余計なことを」


 彼の声はもう、慈悲深くなかった。


 黒香炉の表面に、細い亀裂が入る。


 中から黒い根が溢れ出した。


「人は導かれたがる。権威を欲し、祝福を欲し、選ばれることを欲する。その願いを集めて何が悪い」


「集めることが悪いのではありません」


 リリアは息を切らしながら言った。


「奪って、腐らせて、支配に使うことが間違っています」


 マルドの目がリリアを射抜く。


「セレナもそう言った」


 リリアの心臓が跳ねた。


「母に、何をしたのですか」


 マルドは笑った。


 黒い根が彼の足元で蠢く。


「私は何も。彼女が勝手に王都の石へ触れ、香りを削られただけです。愚かな女でしたよ。封じ石を眠らせ直すなどと」


 リリアの中で、何かが静かに熱を持った。


 怒り。


 けれど、それは爆発する炎ではなかった。


 清水の底に沈む、白い石のような怒りだった。


「母を侮辱しないでください」


 リリアは言った。


 声は驚くほど低く、はっきりしていた。


「母は、あなたが腐らせた香りを正そうとしたのですね」


「正す? 違う。大神殿の聖香は王都を支えてきた。人々は祝福を求める。ならば、より強い香りを与えるべきだ」


「強い香りではなく、濁った香りです」


「民には分からない」


「分からないから、何を吸わせてもいいのですか」


 マルドは答えなかった。


 代わりに、黒香炉を高く掲げた。


 その瞬間、遠く王都大神殿の方角から鐘が鳴った。


 一度。

 二度。

 三度。


 街全体に響くような重い鐘。


 エルヴィンの顔色が変わる。


「あれは、大神殿の地下聖香炉を開く鐘だ」


 リリアの香炉石が、焼けるように熱くなる。


 マルドは笑った。


「ここで足止めは十分です。王都の石は、すでに起こされる」


「あなたがここにいるのに?」


 ノアが低く問う。


「私一人で動いているとでも?」


 マルドの背後で、黒い根が地面へ沈んでいく。


 彼の身体もまた、黒い煙に包まれ始めた。


「リリア・エルム。いや、セレナの娘。あなたが木箱を開いたことで、石は響いた。感謝しますよ」


 リリアは息を呑む。


 木箱を開いたことも、三つ目の石を得たことも。


 マルドは利用した。


 王都の石を起こす合図として。


「待ちなさい!」


 リリアが叫ぶ。


 だが、マルドの姿は黒い蝶へほどけていく。


 最後に残った声が、甘く焦げた空気に響いた。


「王都大神殿で待っています。母と同じように、あなたの香りも削って差し上げましょう」


 黒蝶が弾けた。


 マルドの姿は消え、門前にはひび割れた黒香炉だけが残る。


 しかし、それもすぐに灰となって崩れた。


 リリアは王都大神殿の方角を見た。


 空の上に、黒い蝶の羽のような雲が広がっている。


 鐘はまだ鳴っていた。


 地下聖香炉が開く。


 王都の石が起こされる。


 母が命を削って眠らせようとした封じ石が。


 ノアが静かに言った。


「行くしかないな」


 リリアは母の包みを抱きしめた。


 怖い。


 でも、今度は足が止まらなかった。


「はい」


 リリアは王都大神殿を見据えた。


「王都の石を、眠らせ直します」

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