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第34話 腐った祝福の鐘

 王都大神殿の鐘は、鳴り止まなかった。


 一度。

 二度。

 三度。


 重く、長く、街全体の空気を震わせるような鐘の音。


 それは本来、祝福の儀や大祈祷の始まりを告げる神聖な音だった。


 だが今、鐘の響きに混じっているのは清らかな聖香ではない。


 焦げた花。

 腐った蜜。

 湿った灰。

 そして、底の見えない黒い根の臭い。


 リリアはエルム家の門前で、王都大神殿の方角を見つめていた。


 空には黒い蝶の羽に似た雲が広がっている。

 その下から、甘く濁った聖香が街へ流れ出していた。


「地下聖香炉が開いたのなら、時間がない」


 エルヴィンが青ざめた顔で言った。


「王都の石を起こす儀式が始まっているはずだ」


「起こす、というより」


 リリアは胸元の香炉石を握った。


「封じ石の眠りを壊そうとしているのだと思います」


 その瞬間、母の木箱から持ち出した包みが淡く震えた。


 清水の瓶。

 小さな白い香炉。

 三つ目の石片。

 母の帳面。


 どれも王都の石に反応している。


 呼び合っているのではない。

 警告している。


 リリアには、そう感じられた。


 ノアが短く命じた。


「大神殿へ向かう。だが、正面から突入すれば民を巻き込む」


 王都の通りには、すでに異変に気づいた人々が出始めていた。


 商人。

 貴族の従者。

 祈祷帰りの婦人。

 子どもを抱いた母親。


 彼らは鐘の音を聞き、不安げに神殿区を見ている。


 中には、甘い聖香を吸い込んでふらつく者もいた。


「聖香が街へ流れています」


 リリアは言った。


「このままだと、願いや不安が黒蝶の餌になります」


 セシリアが唇を震わせる。


「王都の人たちは、祝福だと思って吸ってしまいますわ……」


 その声には、かつて聖香師見習いとして称賛を求めていた少女の響きはなかった。


 自分もまた、その甘い香りを聖なるものだと信じていたのだ。


 リリアは白露草を取り出した。


「先に、街へ流れる聖香を薄めます」


 ノアがすぐに振り返る。


「大神殿へ急がなくていいのか」


「急ぎます。でも、このまま人々を通り過ぎたら、黒蝶が増えます」


 リリアは鐘の音の向こうに漂う香りを読んだ。


 大神殿の地下から溢れる濁った聖香は、人々の願いに触れるたび強くなっている。


 病を治したい。

 商売を成功させたい。

 家族を守りたい。

 選ばれたい。

 許されたい。


 それ自体は、悪い願いではない。


 けれど、腐った聖香がそれを吸い上げようとしている。


「願いを奪わせない道を作ります」


 リリアは言った。


「大神殿へ向かう通りに、白露草と清水の香りを細く流します。全部を浄化するのは無理です。でも、通り道だけでも整えれば、黒蝶の餌が減ります」


 ノアは一瞬だけ考えた。


 そして頷いた。


「分かった。移動しながらやる。止まるな」


「はい」


 ルゥがリリアの足元で短く鳴いた。


 まだ疲れているはずなのに、額の月の紋が淡く光っている。


「少しだけお願い」


 リリアが言うと、ルゥは胸を張った。


 セシリアが小さく手を上げる。


「私も、手伝えますか」


 リリアは彼女を見る。


「聖香を吸いすぎると、また黒蝶に引かれます」


「分かっていますわ。でも……王都の聖香がこうなったのに、何もしないで見ているのは嫌です」


 セシリアは震えながらも続けた。


「私は、聖香師見習いとして称賛されることばかり考えていました。だから今度は、せめて人を苦しめないために使いたいです」


 リリアは少しだけ迷い、それから白露草を一枚渡した。


「では、これを持っていてください。自分の願いは自分の中に。香りだけを、薄く」


 セシリアは両手で受け取った。


「はい」


 エルヴィンが神殿騎士たちに指示を出す。


 マルドの黒香炉を見て動揺した数名の騎士は、そのままリリアたちに協力することを選んだ。


 全員を信用できるわけではない。


 しかし今、彼らは黒蝶を見た。

 マルドの袖の奥に隠された黒香炉も見た。


 見なかったことにはできない。


「民を神殿区から離せ! 聖香を吸わせるな!」


 エルヴィンの声が通りに響く。


 神殿騎士たちが散り、人々を誘導し始めた。


 ノアはリリアの前を歩く。


 リリアはその後ろで、白露草に母の清水を一滴含ませた。


 ほんの一滴。


 それだけで、香りが変わる。


 清らかな水が、白露草の青さを運び、王都の石畳の上を細く流れていく。


 強い香りではない。


 大きく広がるものでもない。


 ただ、人々の足元にそっと道を作るような香り。


「これは、あなたの願いを奪う香りではありません」


 リリアは小さく呟いた。


「願いを、自分の胸へ戻す香りです」


 通りの端で泣いていた子どもが、ふと顔を上げた。


 甘い聖香に酔ったようにふらついていた婦人が、胸を押さえて息を吐く。


「……あら?」


「今、何か……涼しい香りが」


「神殿の香りではないわ」


 人々のざわめきが変わる。


 不安は消えない。


 だが、黒蝶に吸われる前の、本人の中にある不安へ戻っていく。


 リリアはその変化を感じながら歩いた。


 怖い。


 それでも、今していることが間違っていないと分かる。


 王都大神殿に近づくにつれ、聖香の濁りは濃くなった。


 白い石畳の上に、うっすら黒い筋が走っている。


 大神殿へ向かう坂道の両脇には、いつもなら祈りを捧げる人々が並ぶ。

 今日は、そこに黒い羽が落ちていた。


 セシリアがそれを見て、顔を歪める。


「ここで……私は、祝福式の前に何度も香りの練習をしました」


 リリアは何も言わなかった。


 セシリアは自分の手の中の白露草を見つめる。


「あの時、甘くて強い香りが出るたび、神官長様は褒めてくださいましたわ。でも、本当はもう腐り始めていたのですね」


「たぶん」


 リリアは静かに答えた。


「でも、今はそれを見ています」


 セシリアは目を伏せ、頷いた。


「はい」


 坂の上に、王都大神殿が見えてきた。


 白い大理石の柱。

 金に輝く聖香炉の紋章。

 広い階段。


 リリアにとって、そこは長く恐怖の場所だった。


 祝福式の日、婚約破棄を告げられた広間。

 誰にも信じてもらえなかった場所。

 役立たずだと断じられ、追い出された場所。


 その大神殿の入口から、今は黒い煙が細く漏れている。


 白い柱の根元には、黒い根が絡みつき始めていた。


 神殿前の広場には、多くの神官や騎士が集まっている。


 だが、彼らの様子はおかしかった。


 ある者は祈りの姿勢のまま動けず、ある者は甘い聖香を吸い込んでぼんやりしている。

 数人の神官は、黒い羽を払いながら必死に香炉へ白い香粉を足していた。


 そのたびに、香りはさらに濁る。


「足してはいけません!」


 リリアは思わず叫んだ。


 神官たちがこちらを見る。


 その中の一人が顔を歪めた。


「リリア……?」


 かつて薬草園でリリアを見下していた若い神官だった。


 彼は驚きと苛立ちを浮かべる。


「なぜ君がここにいる。神官長様が拘束命令を――」


「その香炉に白い香粉を足さないでください」


 リリアは彼の言葉を遮った。


 昔ならできなかった。


 でも今は、優先すべきことが分かる。


「その香粉は聖香ではありません。黒い根に餌を与えています」


「何を馬鹿な……これは大神殿の聖香だぞ」


「焦げています」


 リリアはまっすぐ言った。


「白く見えているだけで、奥が焦げています。甘さで隠しているだけです」


 若い神官の顔が赤くなる。


「相変わらず根拠のない――」


 その瞬間、香炉から黒い蝶が一匹、飛び出した。


 神官の頬をかすめる。


 彼は悲鳴を上げて後ずさった。


 黒蝶は白い香粉を吸い、ふくらむように大きくなる。


 リリアは白露草を投げた。


 ルゥが吠える。


 月光に触れた黒蝶は、灰になって消えた。


 広場にいた神官たちが静まり返る。


 リリアは息を吸った。


「今、見ましたね」


 声が震える。


 でも、届いた。


「聖香から黒蝶が出ました。これは辺境の呪いではありません。大神殿の聖香が腐っているんです」


 広場がざわめいた。


 神官たちは互いに顔を見合わせる。


 認めたくない。

 信じたくない。

 けれど、目の前で見てしまった。


 その動揺を、大神殿の奥から流れてくる甘い聖香が吸おうとしている。


「胸に戻して!」


 リリアは叫んだ。


「動揺も、恐れも、自分の中に置いてください! 香炉に渡さないで!」


 ノアが剣を構えたまま、神官たちへ言う。


「広場の香炉を止めろ。民を下げろ。地下聖香炉への入口はどこだ」


 誰も答えない。


 その時、エルヴィンが前へ出た。


「私が案内する。地下聖香炉は大聖堂の奥、聖香庫の下だ」


 若い神官が叫ぶ。


「エルヴィン様、あなたは権限停止中では――」


「その権限停止を出した神官長が、黒香炉を持っていた」


 エルヴィンの声は鋭かった。


「私は神官騎士としてではなく、目撃者として動く。邪魔をするなら、君も黒蝶が出る香炉を守る側に立つことになる」


 若い神官は言葉を失った。


 セシリアが一歩前に出る。


 かつてこの場所で、聖香師見習いとして称えられていた少女。


 その彼女が、震えながらも言った。


「私も証言します。神官長様から渡された香り袋から黒蝶が出ました。聖香箱から黒い種が出ました。私は……知らずに、その香りを聖香だと思っていました」


 神官たちの視線がセシリアへ集まる。


 彼女は泣きそうに顔を歪めた。


 だが、逃げなかった。


「だから、もう足さないでくださいませ。その香りは、祝福ではありません」


 広場の空気が揺れる。


 少しずつ、神官たちの手が香粉壺から離れていく。


 それだけで、黒い煙の勢いがわずかに弱まった。


 リリアは息を吐く。


 まだ地下聖香炉は開いている。


 王都の石は起こされようとしている。


 だが、広場の香炉を止めたことで、少しだけ黒蝶の餌を減らせた。


 大神殿の奥から、再び鐘が鳴る。


 今度は一度だけ。


 低く、深く、底から響く音。


 エルヴィンの顔が青ざめた。


「地下聖香炉の封印扉が開いた音だ」


 リリアの香炉石が熱を持つ。


 母の包みの中で、三つ目の石片も震えている。


 ルゥが大神殿の奥へ向かって低く唸った。


 ノアがリリアを見た。


「行けるか」


 リリアは大神殿の白い階段を見上げた。


 かつて追い出された場所へ、今度は自分の足で入る。


 怖い。


 でも。


「行けます」


 リリアは言った。


「ただし、私は奪いに行くのではありません」


 母の言葉を思い出す。


 土地、水、香り、人の願いを、それぞれの場所へ戻すこと。


「王都の石を、眠らせ直しに行きます」


 ノアは頷いた。


「なら、進む」


 リリアは母の包みを抱え、白い階段を上った。


 大神殿の扉が、黒い根に軋みながら開いている。


 その奥から、腐った祝福の香りが流れ出していた。


 そして地下の深くで、何か巨大なものが目を覚まそうとしていた。

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