第35話 地下聖香炉への階段
王都大神殿の扉をくぐった瞬間、リリアは息を止めた。
白い大理石の大広間。
高い天井。
金の聖香炉紋章。
壁一面に刻まれた祝福の詩。
かつて、ここで婚約破棄を告げられた。
セシリアが泣き、エルヴィンがリリアを責め、神官たちが冷たい目を向けた場所。
あの日、リリアはこの広間から追い出された。
役立たずの香り係として。
けれど今、大広間の香りはあの日よりずっとひどかった。
焦げた花。
腐った蜜。
湿った灰。
甘すぎる聖香が、柱の陰や床の隙間から滲み出ている。
白く清らかなはずの大広間は、香りだけを見ればもうほとんど黒かった。
「……ここまで」
リリアは呟いた。
足元のルゥが低く唸る。
ノアは剣を抜いたまま、周囲を警戒している。
エルヴィンは大広間の中央を見て、顔を強張らせていた。
「祝福式の時より悪いのか」
ノアが問う。
「はい。あの時は、まだ聖香の表面だけが焦げているような感じでした。でも今は、床の下から腐っています」
その言葉に、セシリアが肩を震わせた。
「私……ここで、何度も練習しましたわ。神官長様は、香りが強くなったと褒めてくださって……」
「強くなったのではなく、濁りが濃くなっていたのだと思います」
リリアは静かに言った。
責めるためではない。
事実として。
セシリアは唇を噛み、白露草を握りしめた。
「……はい」
大広間の奥には、祝福式で使われる大香炉が置かれていた。
白い石で作られた大きな香炉。
本来なら澄んだ聖香が薄く立ち上るはずの場所。
だが今、その香炉の内側には黒い膜が張りついていた。
数人の神官が、まだその周りに立っている。
彼らはリリアたちを見て、怯えと怒りの混じった目を向けた。
「リリア……君が戻ったせいで、神殿がこんなことに……」
その一言に、リリアの胸が小さく痛んだ。
まただ。
何かが起きると、リリアのせいになる。
香りを読んだ者が、香りを腐らせた者にされる。
けれど、もう黙らない。
「私が戻る前から、香炉は腐っていました」
リリアは言った。
「私はそれを指摘しただけです」
神官は言い返そうとしたが、その瞬間、大香炉の黒い膜から小さな黒蝶が生まれた。
ぱた、と羽を鳴らし、彼の肩へ止まろうとする。
神官の顔が青ざめた。
エルヴィンがすぐに剣圧で黒蝶を白露草の布へ流す。
ルゥの月光が重なり、蝶は白い灰になって消えた。
神官はその場に崩れ落ちる。
「今、見ましたね」
リリアは彼を見た。
「香炉から出ました。私からではありません」
神官は震えながら大香炉を見た。
その香りに、初めて気づいたように。
「では……我々は、何を焚いていたんだ……?」
リリアは答えなかった。
今、その答えを最後まで説明している時間はない。
地下聖香炉が開いている。
王都の石が起こされようとしている。
「地下への入口はどこですか」
エルヴィンは大広間の奥を指した。
「聖香庫の裏だ。高位神官しか使えない階段がある」
「案内して」
「分かった」
彼が歩き出そうとした瞬間、大広間の右側から神殿騎士が数人現れた。
全員、白い外套をまとっている。
しかし、その目には焦点が合っていなかった。
甘い聖香に酔っている。
いや、操られている。
「聖遺物を返還せよ」
先頭の騎士が低く言った。
「神官長様の命である。リリア・エルムを拘束する」
ノアが前へ出る。
「退け」
「辺境騎士が大神殿の命に逆らうか」
「呪香に操られた命令に従う義務はない」
騎士たちが剣を抜いた。
空気が張り詰める。
リリアは香りを読んだ。
彼らの恐怖と忠誠が、黒い根に絡め取られている。
完全に敵ではない。
けれど、このまま戦えば傷つく。
「斬らないでください」
リリアはすぐに言った。
「彼らは呪香に引かれています。胸元……外套の内側に、小さな香符があります」
ノアが一瞬で理解する。
「香符を落とせばいいか」
「はい。白露草で包めば、少し正気に戻るはずです」
「分かった」
ノアの剣が走った。
刃は肉を切らない。
白い外套の留め具だけを弾き飛ばす。
騎士の胸元から、小さな金色の香符が落ちた。
床に落ちた瞬間、そこから黒い煙が漏れる。
リリアが白露草を投げる。
「エルヴィン様、踏まないで押さえて!」
「了解!」
エルヴィンが剣の鞘で香符を押さえた。
ルゥが月光を当てる。
香符は黒く焦げ、小さな灰になった。
先頭の騎士が膝をつく。
「……俺は、何を」
続く騎士たちも、ノアとエルヴィン、同行騎士たちによって香符を落とされていく。
セシリアは震えながらも、白露草の布を広げた。
「こちらへ! 落ちた香符を、この布へ!」
かつて聖香師見習いとして称賛される側にいた彼女が、今は神殿騎士の呪香を受け止めている。
その姿を見て、リリアは少しだけ胸が痛み、少しだけ息を吐いた。
人は変われる。
すべてがすぐ許されるわけではない。
でも、変わることはできる。
最後の香符が灰になると、神殿騎士たちは次々と正気を取り戻した。
「神官長様が……我々に守り符だと……」
「黒蝶を見たのか? 俺たちは……」
「地下聖香炉は?」
エルヴィンが鋭く問うと、一人の騎士が顔色を変えた。
「高位神官たちが下りています。神官長代理のローデン様が、封印解除の儀を進めていると」
「ローデン……」
エルヴィンが唇を噛む。
「マルドの側近だ」
ノアが短く言った。
「急ぐ」
聖香庫へ向かう廊下は、リリアにとって見慣れた場所だった。
何度も薬草を運ばされた。
重い壺を抱え、誰にも礼を言われず、ただ裏口から出入りした廊下。
壁には白い布が掛けられている。
けれどその布の下には、黒い染みが広がっていた。
聖香庫の扉の前で、リリアは足を止めた。
香りが濃い。
中に、割れた瓶がいくつもある。
白露草の腐った匂い。
月桂花の焦げた匂い。
蜜根の甘すぎる匂い。
そして、リリアがかつて書き残した記録と同じ異変。
「ここは……」
セシリアが小さく呟く。
「私が、聖香を調合していた場所ですわ」
リリアは扉を見つめた。
「開けます。ただし、中の香りは吸いすぎないでください」
ノアが扉を開ける。
聖香庫の中は、ひどい有様だった。
棚に並んでいたはずの聖香瓶は、いくつも割れている。
床には白い香粉が散らばり、その上を黒い根が細く這っていた。
壁際には、リリアの古い作業台があった。
小さく、目立たず、窓もない場所。
かつてリリアが、一人で聖香の異変を記録していた場所。
その上に、破られた紙片が散らばっている。
リリアは息を呑んだ。
「私の記録……」
神殿に残してきた写しだ。
聖香庫の湿度。
瓶の濁り。
白露草の黒ずみ。
香炉の膜。
すべて、リリアが何度も訴えた異変。
その記録が破られ、捨てられている。
セシリアが震える声で言った。
「私……見たことがあります。この紙。神官長様が、不要な下働きの落書きだと……」
リリアはしゃがみ込み、紙片を拾いそうになった。
だが、手を止める。
直接触らない。
白露草の布で包む。
「これも証拠です」
リリアは言った。
「私が、以前から異変を記録していた証拠です」
アリアがいればきっと喜んで書類で殴る準備をしただろう。
そう思うと、こんな状況なのに少しだけ力が湧いた。
ノアは同行騎士へ指示を出す。
「紙片を回収。白露草布で包め。香粉には触れるな」
「はい!」
聖香庫の奥に、地下へ続く扉があった。
重い白石の扉。
その中央には、金の聖香炉紋章。
だが今、紋章の隙間から黒い根が滲み出ている。
扉はすでに開いていた。
下から、強烈な香りが上がってくる。
王都の石の香り。
いや、封じ石の香り。
眠りを破られ、苦しんでいる香り。
リリアは胸を押さえた。
「泣いています」
ノアが振り返る。
「石がか」
「はい。怒っているのではなく……苦しんでいます。たくさんの願いを押し込まれて、眠れなくなっている」
ルゥが階段の下へ向かって低く鳴いた。
その声は、いつもの子狼のものではなかった。
もっと古く、深い響き。
守護獣としての声。
地下から、それに応えるように低い振動が返ってきた。
エルヴィンが剣を握る手に力を込める。
「下りよう」
階段は暗かった。
壁には聖香炉の灯りが並んでいる。
だが、その炎は白ではなく、黒みを帯びた金色だった。
一段下りるごとに、リリアの手首が痛む。
胸元の香炉石が熱い。
母の木箱から持ち出した三つ目の石片も、布越しに震えている。
セシリアが息を荒くする。
「ここ……息がしづらいですわ」
「白露草を口元へ」
リリアが言うと、セシリアは素直に従った。
エルヴィンも神殿騎士たちへ同じように指示を出す。
階段の途中、壁に古い文字が刻まれていた。
大神殿では、祝福の詩だと教えられていたもの。
けれど、清水の香りを通して見ると、別の文字が浮かび上がる。
リリアは足を止めた。
「これは……隠されています」
ノアが問う。
「読めるか」
リリアは白露草に清水を少し含ませ、壁に近づけた。
白銀の文字が浮かぶ。
――ここより下、祝福の源にあらず。
――黒根を封じる眠りの石なり。
――欲を捧ぐべからず。祈りを集めるべからず。
――香を強めるほど、封は濁る。
リリアは読み上げながら、声が震えた。
神殿は知っていた。
少なくとも、昔の神殿は知っていた。
この地下にある石が祝福の源ではなく、黒い根を封じる眠りの石だと。
それなのに、いつからか言葉は隠され、祝福の詩に変えられた。
エルヴィンが拳を握る。
「我々は……偽りを守っていたのか」
リリアは彼を見る。
「偽りを知らずに守っていた人もいると思います」
エルヴィンの目が揺れる。
「でも、知っていて変えた人がいます」
その名を、全員が知っていた。
マルド。
そして、おそらく彼だけではない。
階段の下から、詠唱が聞こえてきた。
複数の神官の声。
低く、一定で、甘い聖香を揺らす詠唱。
リリアは顔を上げた。
「止めないと」
ノアが頷く。
「急ぐ」
階段を下り切ると、そこには巨大な地下空間が広がっていた。
王都大神殿の地下聖香炉。
白い石柱が円形に並び、その中央に巨大な聖香炉がある。
炉の中には、白い石が浮かんでいた。
王都の石。
封じ石。
しかし、その表面には黒い根が幾重にも絡み、金色の聖香が濁った煙となって立ち上っていた。
石の周囲には、高位神官たちが並んでいる。
彼らは目を閉じ、詠唱を続けていた。
その中心に立つ男が、ゆっくり振り返る。
マルドではない。
痩せた顔。
鋭い目。
黒縁の白い法衣。
エルヴィンが低く呟いた。
「ローデン……」
神官長代理ローデンは、リリアを見て薄く笑った。
「遅かったですね、香律師」
リリアの腕の中で、母の清水が激しく震えた。
封じ石の黒い根が、一本、また一本とほどけるのではなく、膨れ上がっていく。
ローデンは両手を広げた。
「まもなく、王都は真の祝福を得る。人々の願いをすべて集め、大神殿の香りは永遠になる」
リリアは封じ石の香りを読んだ。
違う。
これは祝福ではない。
石が、泣いている。
眠りたいと叫んでいる。
リリアは白露草を握りしめた。
「その石は、祝福の源ではありません」
声は地下空間に響いた。
「黒い根を封じるために眠っていた石です」
ローデンの笑みが深くなる。
「マルド様の言った通りだ。セレナの娘は、余計な真実を嗅ぎつける」
高位神官たちの詠唱が強くなる。
封じ石の表面に、亀裂が入った。
ぴしり。
リリアの胸が凍る。
ノアが剣を構えた。
ルゥが吠えた。
母の清水が、瓶の中で白銀に輝く。
王都の石は、目を覚まそうとしていた。




