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第36話 眠りを返す香り

 王都の石に、亀裂が入った。


 ぴしり。


 その小さな音は、地下聖香炉の広間全体に響いた。


 白い石柱が震える。

 天井から細かな砂が落ちる。

 香炉の中で浮かぶ白い石――封じ石の表面に、黒い根が脈打つように絡みついていた。


 眠りを破られた石。


 祝福の源などではない。

 黒い根を封じるため、ずっと眠り続けていた蓋。


 その石が、今、人々の願いと腐った聖香によって無理やり起こされようとしている。


 リリアは胸元の香炉石を握りしめた。


 熱い。


 痛いほどに熱い。


 母の木箱から持ち出した三つ目の石片も、布の中で震えている。

 薬草帳に隠されていた薄片も、淡い白銀の光を放っていた。


 三つの石が、王都の封じ石に反応している。


 けれど、それは呼び寄せ合う光ではなかった。


 まるで、眠れない子を前に、静かに泣いているような震えだった。


「詠唱を止めろ!」


 ノアの声が地下広間に響いた。


 しかし、高位神官たちは止まらない。


 彼らは封じ石を囲み、目を閉じたまま低く詠唱を続けている。


「願いを集めよ。香りを高めよ。祝福を満たせ――」


 その言葉のたびに、封じ石へ黒い煙が吸い込まれていく。


 ローデンは両手を広げ、陶酔したように笑っていた。


「止める必要などありません。これこそ大神殿の悲願。王都のすべての祈りを束ね、永遠の聖香を得るのです」


「違います」


 リリアの声が震えながらも響いた。


「それは聖香ではありません。願いを奪って腐らせているだけです」


 ローデンの目が細くなる。


「香り係だった娘が、随分と偉そうに」


 その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。


 香り係。


 役立たず。


 何度も投げつけられた言葉。


 けれど今、その痛みはリリアを止めなかった。


「私は香り係でした」


 リリアは答えた。


「だから、分かります。香りは強ければいいわけではありません。人から奪って集めれば、必ず濁ります」


 封じ石から、また音がした。


 ぴしり。


 亀裂が広がる。


 石の奥から、黒いものが覗いた。


 根ではない。


 もっと深い闇。


 地下香炉の黒い扉の奥で聞いた声と同じものが、そこにいる。


 ルゥが激しく唸った。


 額の月の紋が強く光る。

 だが、その身体は小さく震えていた。


 古城で聖月草を守り、エルム家で木箱を守り、ここまで来た。

 いくら守護獣でも、限界が近い。


「ルゥ、前に出すぎないで」


 リリアが言うと、ルゥは振り返らずに鳴いた。


 それでも、少しだけ位置を下げる。


 ノアが剣を構えたまま、リリアへ短く問う。


「どうする」


 どうする。


 封じ石を止めるには、詠唱を止めなければならない。

 黒い根を押し返さなければならない。

 人々の願いを、石から切り離さなければならない。


 けれど、強い浄化をぶつければ、石がさらに割れる。


 切っても駄目。

 焼いても駄目。

 奪っても駄目。


 母の言葉が蘇る。


 ――起こすのではなく、眠らせ直しなさい。

 ――香炉を満たすとは、石を得ることではありません。

 ――土地、水、香り、人の願いを、それぞれの場所へ戻すこと。


「眠らせます」


 リリアは言った。


 ノアの目がわずかに動く。


「できるか」


「一人では無理です」


 今なら、そう言える。


 リリアは振り返った。


「エルヴィン様。詠唱している神官たちの香符を確認してください。たぶん、胸元か袖にあります」


 エルヴィンは即座に頷く。


「分かった」


「セシリア。神官たちが吸っている聖香を薄めたいです。白露草を持って、息を整えてください。自分の願いは渡さず、香りだけを薄く」


 セシリアは青ざめながらも、白露草を握りしめた。


「はい……怖いですけれど、やりますわ」


「ノア様。黒い根は切らずに、香りの膜へ押してください。ルゥは月光を細く、石ではなく私の香りに重ねて」


 ルゥが短く鳴いた。


 ノアは頷く。


「分かった」


 リリアは母の清水の瓶を取り出した。


 瓶の中の水は、白銀に光っている。


 ただし量は少ない。


 ここで全部使えば、もう戻れないかもしれない。


 でも、使うべき場所はここだ。


 王都の石を眠らせ直すために、母はこの水を残したのだから。


 リリアは小さな白い香炉も取り出した。


 母の木箱に入っていた香炉。

 掌に収まるほどの大きさで、表面には月と清水と白露草の紋様が刻まれている。


 香炉を手にした瞬間、母の薬草茶の香りがふわりと広がった。


 泣きそうになる。


 でも、今は泣かない。


 リリアは白い香炉を床に置き、白露草、銀葉ミント、浄化した白い灰をほんの少し入れた。


 最後に、清水を一滴。


 じゅ、という音はしなかった。


 代わりに、静かな水音がした。


 ぽたり。


 香炉の中に落ちた一滴が、白銀の霧となって立ち上る。


 強い香りではない。


 大神殿の聖香のように、広間を支配する香りでもない。


 小さく、静かで、透明な香り。


 眠る前に飲む薬草茶。

 夜明け前の清水。

 母の手の温度。


 その香りが、黒く濁った地下聖香炉の中へ、細い道を作り始めた。


 ローデンの顔色が変わる。


「何をしている!」


「眠るための香りです」


 リリアは静かに言った。


「願いを集める香りではありません。戻す香りです」


「止めろ!」


 ローデンが手を振る。


 黒い根が床を這い、リリアの白い香炉へ向かって伸びた。


 ノアが動く。


 剣圧で根の進路を変え、白露草の膜へ押し込む。


 ルゥの月光が細く重なり、根の動きが鈍った。


 同時にエルヴィンが高位神官たちへ駆ける。


「胸元を確認しろ!」


 同行していた神殿騎士たちも加わり、詠唱する神官の外套を押さえる。


 そこには、やはり小さな黒い香符があった。


 守り符の形をしている。


 だが、内側から黒い羽音がした。


「これか!」


 エルヴィンが香符を弾き落とす。


 セシリアが白露草の布を差し出した。


「こちらへ!」


 香符が布に落ちると、黒い煙が漏れる。


 セシリアは震えながらも、目を逸らさない。


「怖い……でも、渡しませんわ」


 彼女の香りが、白露草に薄く重なる。


 黒い煙が一瞬揺らぎ、ルゥの月光に触れて灰になる。


 一人目の神官が詠唱を止め、膝をついた。


「私は……何を唱えて……」


「次!」


 エルヴィンが叫ぶ。


 詠唱が少しずつ乱れ始める。


 しかし、ローデンは諦めない。


 彼は自ら聖香炉の前へ進み、両手を封じ石へ向けた。


「願いを捧げよ! 祝福を求めよ! 王都よ、永遠の聖香を――」


 その声が、地下広間を越えて地上へ響く。


 大聖堂。

 広場。

 王都の街。


 人々の不安と願いが、黒い香りに引かれて封じ石へ流れ込もうとする。


 リリアの胸が苦しくなった。


 多すぎる。


 王都中の願い。


 一人で戻せる量ではない。


 白い香炉の香りが、押し潰されそうになる。


「リリア!」


 ノアの声。


 リリアは膝をつきかけた。


 その瞬間、足元でルゥが吠えた。


 月光がリリアの白い香炉を包む。


 さらに、遠くから別の香りが届いた。


 白露草。

 薬草パン。

 朝の厨房。

 騎士たちの香草茶。


 レーヴェン古城の香り。


 リリアは目を見開いた。


 古城に残した聖月草の芽が、遠くから香りを返している。


 薬草園の白銀の膜が、王都まで細い糸を伸ばしているのだ。


 ガレスが守っている。

 アリアが記録を整えている。

 カイルが騎士たちと聖月草を守っている。


 ここにいない人たちの香りも、リリアを支えている。


 一人ではない。


 本当に、一人ではない。


「……ありがとうございます」


 リリアは小さく呟き、立て直した。


 白い香炉の香りが、再び澄む。


 今度は王都中の願いをすべて受け止めようとしない。


 受け止めるのではなく、道を作る。


 人々の願いが、封じ石へ吸われる前に、それぞれの胸へ戻る道を。


「願いは、石に捧げるものではありません」


 リリアの声が、香りとともに広がった。


「病を治したい願いは、病の人と、その人を思う人のもの。商いを成功させたい願いは、働く人のもの。家族を守りたい願いは、その家族のもの」


 白い香りが、黒い流れを一筋ずつほどいていく。


「神殿が集めて、誰かが支配するものではありません」


 地上から流れ込んでいた願いの香りが、少しずつ向きを変えた。


 封じ石へではなく、地上へ。


 人々自身へ。


 ローデンが叫ぶ。


「馬鹿な! 民は導かれねばならない! 願いは神殿が受け止めねば、散るだけだ!」


「散るのではありません」


 リリアは彼を見た。


「それぞれの場所へ戻るんです」


 その瞬間、最後の香符が落とされた。


 高位神官たちの詠唱が止まる。


 地下聖香炉に、初めて静寂が訪れた。


 封じ石の周囲で暴れていた黒い根が、行き場を失ったように蠢く。


 ローデンだけが、まだ黒い香りを放っていた。


 彼の胸元には、他の香符より大きな黒い札がある。


 そこに、マルドの香りが濃く染みついていた。


「ローデン様、その札を外してください!」


 リリアが叫ぶ。


 ローデンは笑った。


「これは神官長様から授かった導きの札。外すものか」


「それがあなたの願いを食べています!」


「願い?」


 ローデンの目が濁る。


「私の願いは、大神殿の永遠だ。王都の信仰だ。マルド様の――」


 言葉が途切れた。


 彼自身の香りが、札に吸われている。


 忠誠。

 羨望。

 上に立ちたい願い。

 選ばれたい焦り。


 ローデンもまた、マルドに使われていた。


 だが、彼はそれを認めようとしない。


「私は選ばれたのだ!」


 ローデンが叫ぶ。


 黒い札が弾け、巨大な黒蝶となった。


 高位神官たちが悲鳴を上げて逃げる。


 黒蝶はローデンの背後で羽を広げ、封じ石へ突進した。


 石の亀裂へ入り込むつもりだ。


「止めます!」


 リリアは白い香炉を両手で支えた。


 だが、距離が遠い。


 ノアがすぐに動いた。


「道を開ける!」


 黒い根を弾き、封じ石までの道を作る。


 エルヴィンがローデンを押さえようとする。

 セシリアが白露草の布で散った黒い羽を受け止める。

 ルゥが最後の力を振り絞り、月光を一直線に伸ばす。


 リリアはその月光に、白い香炉の香りを重ねた。


 清水。

 白露草。

 銀葉ミント。

 白い灰。

 聖月草。

 母の祈り。


「眠って」


 リリアは封じ石へ向けて言った。


「あなたは、祝福を生むために苦しまなくていい」


 黒蝶が亀裂へ触れる直前、白い香りが追いついた。


 蝶の羽が止まる。


 中から、ローデンの声がした。


 ――選ばれたかった。


 リリアは息を呑む。


 その声は、セシリアの願いにも似ていた。


 けれど、もっと長く、もっと深く腐っている。


「その願いは、あなたのものです」


 リリアは言った。


「石に入れるものではありません。マルド様に渡すものでもありません」


 黒蝶が震えた。


 エルヴィンがローデンの胸ぐらを掴み、叫ぶ。


「聞け、ローデン! お前の願いなら、お前が持て! 神官長の札に渡すな!」


 ローデンの目が大きく開いた。


「私の……願い……?」


 黒蝶の羽が崩れる。


 灰ではなく、黒い膜が剥がれるように。


 その中から、薄い白い光がこぼれた。


 封じ石の亀裂が、そこで止まる。


 完全には閉じていない。


 けれど、広がるのは止まった。


 リリアはその隙に、三つの石を取り出した。


 胸元の香炉石。

 薬草帳の薄片。

 母の木箱の石片。


 三つを白い香炉の周囲に並べる。


 すると、古い円環の紋様が床に浮かび上がった。


 王都の封じ石と、レーヴェンの地下香炉と、清水の水路。


 三つを繋ぐ香りの道。


 リリアには分かった。


 今なら、少しだけ眠りを返せる。


 完全ではない。


 マルドはまだいる。

 黒い根の本体も残っている。


 でも、今この瞬間、封じ石が砕けるのは止められる。


「王都の石」


 リリアは震える声で呼びかけた。


「あなたの役目を、奪わせません」


 白い香炉の香りが、封じ石の亀裂へ流れ込む。


 強く塞ぐのではなく、柔らかく包む。


 眠る子に毛布をかけるように。


 封じ石の黒い根が、少しずつ動きを止めた。


 地下聖香炉に溢れていた腐った甘さが、薄れていく。


 ぴしり、と入った亀裂の奥から、白い光が漏れた。


 その光は、リリアの香炉石へ触れる。


 そして、母の声が聞こえた。


 ――よく、怖いと言えたわね。


 リリアの目に涙が浮かんだ。


 けれど、香りは乱れなかった。


 封じ石は、静かに震えながら、再び眠りへ沈み始めた。


 その時。


 広間の最奥にある黒い扉が、音もなく開いた。


 地下聖香炉のさらに奥。


 大神殿が長く隠していた封印扉。


 その向こうから、マルドの声が響いた。


「一時の眠りで満足ですか、リリア」


 リリアは顔を上げた。


 黒い扉の奥に、神官長マルドが立っていた。


 その背後には、巨大な黒い根の塊。


 人の願いを何十年も吸い続けた、黒根の本体。


 マルドは微笑んだ。


「では次は、あなた自身の願いをいただきましょう」


 封じ石は眠り始めた。


 だが、黒い根の本体が目を開けた。

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