表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/50

第37話 願いを渡さない

 黒い扉の奥で、巨大な根の塊が脈打っていた。


 それは、木の根というにはあまりにも生々しかった。


 無数の黒い蔓が絡み合い、鼓動のように膨らんでは縮む。

 根の隙間には、黒い蝶の羽が幾重にも挟まっている。

 ところどころに白い香粉のようなものがこびりつき、腐った蜜の匂いを放っていた。


 人の願いを吸い続けたもの。


 祈りを集め、欲を混ぜ、祝福の名で腐らせたもの。


 それが、大神殿の地下にあった。


 王都の人々が何十年も清らかな場所だと信じてきた神殿の、さらに奥に。


 リリアは白い香炉の前で息を呑んだ。


 王都の封じ石は、かろうじて眠りへ戻り始めている。

 けれど、その奥の黒い根の本体は、今まさに目を覚ました。


 マルドは黒い扉の前に立ち、静かに微笑んでいた。


 白い神官衣の裾は、もう半分ほど黒く染まっている。

 だが彼は、それを汚れとは思っていないようだった。


「見事でした、リリア。いや、セレナの娘」


 その声は穏やかだった。


 だが、リリアには分かる。


 穏やかな香りの奥に、黒い根が絡んでいる。


「王都の石を一時的に眠らせるとは。セレナよりも、あなたの方が柔らかく香りを扱う」


 リリアの胸が強く鳴った。


 母よりも。


 その言葉は褒め言葉の形をしていたが、リリアの心を揺らすための刃だった。


 母に近づきたい。

 母のことを知りたい。

 母に認められたい。


 その願いを、マルドは嗅ぎつけている。


 黒い根が、ずるりと動いた。


 リリアの方へ。


 ノアが即座に前へ出る。


「近づくな」


 剣を構えたノアの声は低い。


 マルドは薄く笑った。


「剣では止まりませんよ、レーヴェン卿。これは人の願いを通って伸びる根です。斬れば香りが散るだけ」


 ノアの剣先は揺れない。


「なら、近づく願いごと押し返す」


「勇ましい」


 マルドの視線がノアからリリアへ戻る。


「ですが、彼女自身の願いなら?」


 その瞬間、黒い根の先から白い煙が立った。


 黒いはずの根から、白い香り。


 リリアははっとした。


 母の薬草茶の香りだ。


 白露草。

 月桂花。

 清水。

 幼い頃、熱を出した夜に母が飲ませてくれた、優しい香り。


 その煙の中に、女性の姿が浮かぶ。


 淡い髪。

 柔らかな手。

 懐かしい横顔。


「……お母さま」


 リリアの声がこぼれた。


 ノアが振り返る。


「リリア」


 分かっている。


 これは本物ではない。


 香りで作られた幻だ。


 黒い根が、リリアの中に残る母への願いを形にしているだけ。


 それでも。


 それでも、見たかった。


 もう一度だけ、母の顔を。


 もう一度だけ、名前を呼んでほしかった。


 煙の中の母が、リリアへ手を伸ばす。


 ――リリア。


 声まで、同じだった。


 胸の奥が引き裂かれるように痛む。


 会いたい。


 ずっと会いたかった。


 どうして置いていったのか、聞きたかった。

 なぜ一人で抱えたのか、聞きたかった。

 どうすれば母のようになれるのか、教えてほしかった。


 黒い根が、リリアの足元へ近づく。


 ルゥが激しく吠えた。


 月光が幻へぶつかる。


 しかし幻は消えない。


 マルドが静かに言った。


「会いたいでしょう」


 リリアの身体が震えた。


「母に。あなたを理解してくれる唯一の人に」


「違います」


 声は出た。


 でも、弱い。


 マルドは笑みを深くする。


「違わない。大神殿で否定され、家で孤独だったあなたにとって、セレナの記憶だけが支えだった。母に認められたい。母に抱きしめられたい。母に、自分は間違っていなかったと言ってほしい」


 黒い根の匂いが濃くなる。


 リリアの胸の奥にある願いが、引っ張られる。


 母に会いたい。


 その願いは本物だった。


 否定できない。


 捨てられない。


 けれど、黒い根に渡してはいけない。


「リリア」


 ノアの声がした。


 命令ではなかった。


 止める声でもなかった。


 ただ、そこにいると知らせる声だった。


 リリアは大きく息を吸った。


「怖いです」


 声が震える。


「母に会いたいです。今でも、ずっと」


 煙の中の母が微笑む。


 黒い根がさらに近づく。


 リリアは涙をこぼした。


「でも、この願いは私のものです」


 根の動きが止まった。


 リリアは胸元の香炉石を握る。


「誰かに奪わせるものではありません。香炉に入れるものでも、黒い根の餌にするものでもありません」


 白い香炉から、清水の香りが細く立ち上る。


 リリアは涙を拭わずに、幻の母を見た。


「会いたいまま、持っていきます」


 その言葉と同時に、幻の母の姿が揺らいだ。


 黒い根の作った偽物の香りが、白露草の香りに触れてほどけていく。


 だが、完全に消える直前。


 幻の奥から、ほんの一筋だけ違う香りがした。


 清水。


 母の本当の香り。


 煙の母が、微かに唇を動かす。


 ――それでいいの。


 リリアの涙が、頬を伝った。


 幻は白い光となって消えた。


 黒い根が、怒ったように蠢く。


 マルドの目が細くなった。


「……ほどいたか」


 リリアは息を荒げながら立っていた。


 胸が痛い。


 でも、香りは奪われていない。


 母に会いたい願いは、まだリリアの中にある。


 黒く腐らず、白く消えもせず、ただ胸の奥で温かく痛んでいる。


 それでいい。


「次は」


 マルドが低く言った。


「あなたが最も欲しかったものをあげましょう」


 黒い根が再び煙を吐く。


 今度の香りは、神殿の聖香だった。


 祝福式の大広間。


 白い光。

 拍手。

 称賛の声。


 煙の中で、リリアは見た。


 神官たちが自分に頭を下げている。

 セシリアではなく、リリアこそが真の聖香師だと称えられている。

 エルヴィンが後悔に満ちた顔で跪き、婚約破棄を撤回したいと告げている。

 父が涙を流し、初めからお前を信じればよかったと言っている。


 胸が、痛いほど揺れた。


 欲しかった。


 たしかに、欲しかった。


 信じてほしかった。

 認めてほしかった。

 選んでほしかった。


 役立たずではないと、誰かに言ってほしかった。


 マルドの声が甘く響く。


「認められたいでしょう、リリア。あなたを踏みにじった者たちに、頭を下げさせたいでしょう。セシリアよりも、エルヴィンよりも、誰よりも価値があると示したいでしょう」


 セシリアが息を呑む音がした。


 エルヴィンも、顔を歪めている。


 リリアは二人を見なかった。


 今見れば、心がさらに揺れる。


 だから、自分の胸の香りを見る。


 認められたかった。


 それも本物の願いだった。


 神殿にいた頃、ずっと欲しかったもの。


 でも。


「欲しかったです」


 リリアは言った。


 マルドの笑みが深くなる。


「なら――」


「でも、それはあなたにもらうものではありません」


 リリアは白い香炉へ手をかざした。


「誰かを跪かせて得るものでもありません」


 煙の中の幻が揺れる。


 神官たちの拍手が歪む。

 エルヴィンの跪く姿が黒い蝶へ変わりかける。

 父の涙が黒い滴になる。


「私は、認められたかった」


 リリアの声は地下広間に響いた。


「でも今は、自分の香りを信じる練習をしています。誰かが認めてくれなければ存在できない私には、戻りません」


 その瞬間、セシリアが泣きそうな声で言った。


「お姉さま……」


 リリアはちらりと彼女を見た。


 セシリアは震えながらも、白露草を握って立っている。


「私も……認められたかったですわ」


 彼女の声はか細い。


「それを神官長様に渡して、あなたから奪おうとしました。でも、もう渡しません。奪いません」


 セシリアの白露草から、淡い香りが立った。


 それは弱い。


 けれど、焦げていなかった。


 リリアの白い香炉の香りに、そっと重なる。


 エルヴィンも剣を握りしめた。


「私も、正しい騎士でいたかった。失敗を認めたくなかった。その願いを、神殿の権威に預けていた」


 彼はマルドを睨む。


「だが、それは私が持つべきものだ」


 父も、傷ついた腕を押さえながら呟いた。


「私も、守った父でいたかった。失ったものから目を逸らして、その願いを隠した」


 それぞれの声が、白い香炉の香りへ混じっていく。


 人の願い。


 黒い根に奪われるのではなく、本人の胸に戻った願い。


 それは強い浄化の光ではない。


 小さな灯りがいくつもともるような香りだった。


 幻の祝福式が、白くほどけた。


 マルドの口元が引きつる。


「くだらない。人は弱い。自分の願いなど抱えきれない。だから神殿が受け取り、形を与えてやるのです」


「受け取ることと、奪うことは違います」


 リリアは言った。


「導くことと、支配することも違います」


 黒い根の本体が大きく脈打った。


 マルドの足元に絡む根が、さらに彼の身体を覆い始める。


 それでも彼は笑った。


「では、最後にあなた自身の願いを聞きましょう」


 黒い根が、今度は幻ではなく、直接リリアの胸へ向かって香りを伸ばした。


 深いところを探られる。


 母に会いたい。

 認められたい。

 役に立ちたい。

 守りたい。

 帰りたい。


 そして。


 レーヴェン古城へ帰りたい。


 薬草園へ。

 聖月草の芽のそばへ。

 朝の厨房の香りへ。

 ルゥが丸くなっている場所へ。


 ノアがいる場所へ。


 その願いに触れられた瞬間、リリアの頬が熱くなった。


 黒い根が、それを逃さなかった。


「なるほど」


 マルドが嗤う。


「あなたにも、執着ができた。帰る場所。守りたい人。失いたくない温かさ」


 ノアの気配がわずかに変わる。


 リリアは胸を押さえた。


 嫌だ。


 そこには触れられたくない。


 まだ自分でも名前をつけきれていない願い。


 大切で、温かくて、怖いもの。


 マルドは囁く。


「それを失いたくないでしょう。ならば差し出しなさい。その願いを黒根へ渡せば、古城は守ってあげましょう」


 黒い根が、リリアの香りに絡もうとする。


 その瞬間、ノアがリリアの前に立った。


「彼女の願いを取引に使うな」


 低く、怒りを含んだ声。


 リリアはその背中を見た。


 広い背中。


 何度も守ってくれた背中。


 でも、リリアはその後ろに隠れるだけではいられなかった。


「ノア様」


 リリアは言った。


「少しだけ、横にいてください」


 ノアが振り返る。


 命令ではなく、願いだった。


 彼は静かに一歩下がり、リリアの横に立った。


「ここにいる」


 その一言で、胸の奥が震えた。


 リリアは黒い根を見た。


「帰りたいです」


 声は震えていた。


「レーヴェン古城へ帰りたい。薬草園へ帰りたい。ルゥや皆のところへ帰りたい」


 ルゥが足元で鳴いた。


「ノア様のいる場所へも、帰りたいです」


 言ってしまった。


 顔が熱い。


 でも、黒い根に触れられる前に、自分の言葉で言いたかった。


 ノアの気配が一瞬だけ揺れた。


 けれど彼は何も言わず、ただ隣に立っている。


 リリアは続けた。


「でも、その願いも私のものです。あなたに渡しません」


 白い香炉の香りが、ふわりと強くなった。


 強くなったといっても、支配する香りではない。


 胸の奥に灯る帰り道の香り。


 朝の古城。

 薬草茶。

 雪の匂いのルゥ。

 静かに眠るノアの横顔。


 それは、黒い根が最も嫌う香りだった。


 奪えない願い。


 自分の中に戻った願い。


 黒い根が悲鳴のように震えた。


 マルドの表情が初めて歪む。


「なぜだ……なぜ腐らない」


「願いを恥じていないからです」


 リリアは答えた。


「怖くても、欲しくても、会いたくても、帰りたくても。私が自分で持つなら、それは腐らない」


 白い香炉の香りが、黒い根の本体へ届いた。


 根の表面にこびりついていた黒い蝶の羽が、ぱらぱらと落ちる。


 その奥から、無数の小さな声が漏れた。


 ――帰りたい。


 ――助けて。


 ――選ばれたかった。


 ――許されたかった。


 ――生きたかった。


 黒根の本体は、ただの邪悪ではなかった。


 奪われ、集められ、腐らされた願いの塊だった。


 リリアは息を呑んだ。


「これ……全部、人の願い……」


 マルドが叫ぶ。


「聞くな!」


 黒い根が彼の身体をさらに覆う。


「それは神殿が集めた祈りだ! 私が形にした祝福だ!」


「違います」


 リリアは涙を浮かべながら言った。


「これは、帰れなくなった願いです」


 白い香炉が強く輝く。


 王都の封じ石が、眠りながら微かに応える。


 遠く、レーヴェン古城の聖月草の香りも届く。


 黒根の本体が、大きく震えた。


 その中心に、小さな白い点が見えた。


 腐った願いの奥に残っていた、最初の香り。


 リリアはそれを嗅いだ瞬間、理解した。


「名前がある……」


 ノアが問う。


「名前?」


「この黒い根には、もともとの名前があります。呪いになる前の役目が」


 マルドの顔色が変わった。


「やめろ」


 リリアは黒根の中心を見つめる。


 母の帳面にあった言葉。

 地下香炉の古い文字。

 清水の流れ。

 聖月草の芽。


 すべてが繋がっていく。


「これは、願いを集める根ではありません」


 リリアは震える声で言った。


「土地へ祈りを返すための根……」


 黒い根が激しく暴れる。


 マルドが叫ぶ。


「黙れ!」


 リリアは、白い点の香りを読んだ。


 古い名。


 腐る前の名。


「祈還根」


 その名を口にした瞬間、地下広間の空気が変わった。


 黒根の本体が、まるで長い眠りから叩き起こされたように震える。


 黒い表面に、白い筋が一本走った。


 マルドの身体に絡んでいた根が、彼から離れかける。


「馬鹿な……」


 彼の声が掠れた。


「名を、なぜ……」


 リリアは白い香炉を両手で支えた。


「あなたは呪いではなく、戻すための根だったのですね」


 祈還根が震える。


 その奥から、無数の願いが泣いていた。


 マルドは黒い根を掴むように手を伸ばした。


「戻るな! お前は大神殿の力だ! 私の聖香だ!」


 だが、祈還根はもう彼だけを見ていなかった。


 白い筋がさらに広がる。


 リリアの足元の白い香炉から、清水の香りが流れ込む。


 封じ石が静かに眠りながら、その香りを支える。


 ルゥが最後の力で月光を重ねる。


 そして祈還根の中心から、古い声が響いた。


 ――返せ。


 低く、深い声。


 それは怒りではなく、長い長い苦しみの果てにこぼれた言葉だった。


 ――奪われた願いを、返せ。


 地下聖香炉全体が震えた。


 マルドの顔から血の気が引く。


 リリアは白い香炉を抱きしめた。


 ようやく分かった。


 黒い根を倒すのではない。


 名を返し、役目を返し、奪われた願いをそれぞれの場所へ戻す。


 それが、香炉を満たすということ。


 しかし、そのためには。


 大神殿が何十年も集め続けた願いを、すべてほどかなければならない。


 リリアは息を吸った。


 怖い。


 でも、もう願いを渡さない。


 祈還根の白い筋が、地下広間いっぱいに広がり始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ