第38話 願いが帰る場所
祈還根。
その名を口にした瞬間、地下聖香炉の空気が変わった。
黒く腐っていた根の表面に、白い筋が走る。
一本。
二本。
やがてそれは、水路のように枝分かれして、巨大な根の塊全体へ広がっていった。
黒い羽音が、悲鳴のように乱れる。
ぱたぱた、ぱたぱた、ぱたぱた。
根の隙間に挟まっていた黒蝶の羽が、剥がれ落ちていく。
その奥から漏れ出したのは、腐った聖香ではなかった。
小さな声。
たくさんの願いの声だった。
――母を助けたかった。
――店を守りたかった。
――子どもが無事でいてほしかった。
――許されたかった。
――選ばれたかった。
――帰りたかった。
リリアは白い香炉を抱えたまま、息を呑んだ。
あまりにも多い。
王都大神殿が、祝福の名で集め続けた願い。
祈りとして捧げられ、聖香に混ぜられ、封じ石へ押し込まれ、祈還根に絡め取られたもの。
本来なら、土地へ返るはずだった願い。
祈った人の胸へ。
その人が生きる場所へ。
家族へ、店へ、病床へ、畑へ、井戸へ。
それぞれ戻る場所があったのに、大神殿はそれを一箇所へ集めた。
祝福という名で。
権威という名で。
そして、腐らせた。
「やめろ……」
マルドの声が震えていた。
彼の白い法衣は、もうほとんど黒く染まっている。
足元に絡んでいた根が、彼から離れ始めていた。
祈還根が、本来の名を思い出したからだ。
支配する者ではなく、返す者として。
「戻るな」
マルドは根へ手を伸ばした。
「お前たちは大神殿の祈りだ。王都の力だ。私が束ねた聖香だ」
祈還根が震えた。
その震えは怒りではない。
長い間、間違った場所に縛りつけられていたものが、ようやく息を吸おうとしている震えだった。
――返せ。
古い声が、地下広間に響く。
――願いを、返せ。
リリアの胸元で、三つの石が光った。
香炉石。
薬草帳に隠されていた薄片。
母の木箱に眠っていた石片。
三つの光は、白い香炉を中心に円を描く。
そこへ、母の清水の香りが重なった。
さらに遠くから、聖月草の香りが届く。
レーヴェン古城の薬草園。
あの小さな芽が、ここまで香りを伸ばしている。
リリアは分かった。
一人で全部をほどくのではない。
王都の願いは、王都へ。
古城の香りは、古城から。
清水は、水路から。
祈還根は、土地へ。
それぞれが、それぞれの役目を果たす。
リリアはその道を整えるだけ。
「祈還根」
リリアは震える声で呼んだ。
黒と白の筋が入り混じる巨大な根が、彼女へ向く。
「あなたが集められた願いを、元の場所へ返しましょう」
マルドが叫ぶ。
「できるものか! 何十年分の祈りだぞ! 一人の香律師が受け止められる量ではない!」
「受け止めません」
リリアは静かに答えた。
「道を作るだけです」
白い香炉から、清水の霧が立ちのぼる。
リリアは白露草を一枚、香炉の上へかざした。
「願いは、神殿のものではありません」
香りが広がる。
「祈った人のものです」
白い霧は地下広間の天井へ昇り、そこから細い糸のように分かれた。
一本は大聖堂へ。
一本は広場へ。
一本は王都の市場へ。
一本は病人のいる家へ。
一本は夜明けの厨房へ。
一本は遠くの畑へ。
リリアには見えた。
香りの道。
願いが帰る道。
祈還根の中に閉じ込められていた小さな光が、ひとつずつその道へ流れていく。
強い光ではない。
奇跡のようにすべてを治すものでもない。
ただ、奪われていた願いが、その人自身の胸へ戻る。
それだけ。
けれど、それだけで地下聖香炉の濁りは確実に薄くなっていった。
高位神官たちが、次々と膝をつく。
「今……妻の声が……」
「私は、何を祈っていたんだ……」
「神殿へ捧げたはずの願いが、戻ってくる……」
セシリアは白露草を握りしめ、涙を流していた。
「私の願いも……戻ってきていますわ」
リリアは彼女を見た。
セシリアの香りは、まだ苦い。
恥も、後悔も、羨望もある。
けれど、焦げていない。
彼女自身の胸に戻った願いだからだ。
エルヴィンも剣を下ろさず、唇を引き結んでいる。
「リリア、ローデンが!」
ノアの声に、リリアは振り返る。
神官長代理ローデンが、封じ石の前でうずくまっていた。
彼の胸から剥がれた黒い札は、もう灰になっている。
だが、その灰の中からまだ細い黒い糸が伸び、マルドへ繋がっていた。
忠誠の糸。
選ばれたい願いを、最後までマルドへ差し出そうとしている。
ローデンは苦しげに呻いた。
「私は……大神殿のために……マルド様に選ばれて……」
「ローデン様」
リリアは彼へ声をかけた。
「その願いも、あなたのものです」
「私の……?」
「大神殿を支えたかったのなら、それはあなたの願いです。マルド様のものではありません」
ローデンの目が揺れる。
エルヴィンが彼の肩を掴んだ。
「ローデン。選ばれたかったなら、そう言え。神官長の札に言わせるな」
ローデンの顔が歪む。
やがて、かすれた声が漏れた。
「……選ばれたかった」
黒い糸が震える。
「私は、ずっと二番手だった。マルド様に認められれば、大神殿の中心に立てると思った……」
糸が白く薄れていく。
「でも、それは……私の願いだったのか」
リリアは頷いた。
「はい。だから、自分で持ってください」
ローデンの胸から、黒い糸がほどけた。
マルドが大きくよろめく。
「役立たずどもが……!」
その声には、もう神官長の威厳はなかった。
残っているのは、怒りと焦り、そして剥き出しの欲だけ。
祈還根の白い筋はさらに広がり、マルドへ絡んでいた根を離していく。
しかし、彼は自ら黒い根を掴んだ。
「離れるな!」
指が黒く染まる。
「私は大神殿を守ってきた! 民の願いを束ね、王都を祝福で満たしてきた! この私がいなければ、人々の祈りは散らばるだけだった!」
リリアは彼を見た。
マルドの香りを読む。
支配。
所有。
権威。
その奥に、もっと古い香りがあった。
恐怖。
失うことへの恐怖。
神殿の権威が崩れる恐怖。
自分が何者でもなくなる恐怖。
誰にも祈られなくなる恐怖。
「マルド神官長」
リリアは言った。
「あなたも、願いを黒い根に渡しています」
マルドの顔が歪む。
「黙れ」
「大神殿を守りたいという願いも、最初は本物だったのかもしれません。でも、あなたはそれを自分の中に持てなかった。黒い根へ渡して、支配に変えた」
「黙れ!」
マルドが叫んだ瞬間、彼の背後から黒い蝶が噴き出した。
これまでで最も濃い黒蝶。
それは人々から集めた願いではない。
マルド自身の願いが腐ったものだった。
巨大な黒蝶が羽を広げ、白い香炉へ向かう。
ノアが前へ出る。
「リリア、下がれ!」
「はい!」
リリアは下がる。
ノアの剣が黒蝶の進路を逸らす。
だが、黒蝶は剣圧をすり抜けるように形を崩し、再びまとまった。
ルゥが吠える。
月光が黒蝶を焼くが、完全には消えない。
ルゥの身体が大きく揺れた。
「ルゥ!」
リリアは叫ぶが、ルゥは歯を食いしばるように唸った。
まだやる、と言っている。
でも、限界だ。
リリアは白い香炉へ清水をもう一滴落とした。
残りは少ない。
それでも、ここで使う。
「マルド神官長の願いは、私が受け取りません」
リリアは言った。
「祈還根にも渡しません」
黒蝶が迫る。
リリアは白露草を掲げた。
「あなた自身に返します」
清水の香りが黒蝶に触れた。
瞬間、黒蝶の中から声が溢れた。
――私を見よ。
――私に従え。
――大神殿は私のものだ。
――祝福は私が与える。
――誰も私を否定するな。
――セレナも、リリアも、香律師など認めない。
リリアの頭が割れそうになる。
濃すぎる。
マルドの願いは、長い時間をかけて腐りきっていた。
セシリアの願いのように、ほどけば戻るものとは違う。
自分で持つことを拒み続け、黒い根と一体化するほどに腐らせた願い。
「リリア!」
ノアの手が、リリアの肩を支えた。
「無理に戻すな」
その言葉で、リリアははっとした。
そうだ。
戻すことを相手が拒むなら、無理に押し込んではいけない。
それもまた、支配になってしまう。
香りを整えるとは、相手の代わりに全部を決めることではない。
リリアは白い香炉の香りを変えた。
戻す道を作る。
ただし、受け取るかは本人の領分。
「マルド神官長」
リリアは息を切らしながら言った。
「あなたの願いは、あなたに返します。でも、受け取らないなら、その願いはどこにも行けません」
黒蝶が震える。
マルドは笑った。
「返す? いらぬ。私は願いなど持たない。私は与える側だ」
「違います」
「違わない!」
マルドの声が地下広間に響く。
「私は大神殿だ! 私が祝福だ! 私が香りを定める!」
その瞬間、黒蝶はマルド自身へ戻ろうとした。
しかし彼が拒んだため、行き場を失った黒い願いは、その場で渦を巻く。
祈還根が白く震えた。
――戻らぬ願いは、腐り続ける。
古い声が響く。
――腐った願いは、持ち主を食う。
マルドの顔色が変わる。
黒蝶が彼の腕へ絡みついた。
「やめろ……」
初めて、彼の声に恐怖が混じった。
「私は、違う。私は……選ばれた……導く者で……」
黒蝶は答えない。
彼自身が腐らせた願いだ。
誰も受け取れない。
祈還根すら、もう吸わない。
マルドの腕から肩へ、黒い羽が広がっていく。
リリアは息を呑んだ。
助けるべきなのか。
一瞬、そう思った。
けれど、すぐに分かった。
今できることは、道を示すことだけ。
受け取るかどうかは、マルド自身の選択だ。
「マルド神官長」
リリアは最後に言った。
「あなたの願いを、自分で持ってください」
マルドはリリアを睨んだ。
憎しみと恐怖に満ちた目。
「セレナと同じ目をするな……!」
彼は叫び、黒蝶に半身を覆われながら、黒い扉の奥へ後ずさった。
祈還根の白い筋が、彼を追わない。
もう彼に奪われないために、距離を取っている。
マルドは扉の奥で笑った。
壊れかけた笑いだった。
「まだ終わらぬ……王都の願いは、まだすべて返っていない。大神殿の奥には、私が積み上げた聖香がある……!」
黒い扉がゆっくり閉じ始める。
ノアが踏み出す。
「逃がすな」
だが、リリアは叫んだ。
「待ってください!」
ノアが止まる。
黒い扉の隙間から、濃い呪香が漏れている。
今追えば、マルドの腐った願いの渦へ踏み込むことになる。
ルゥも限界。
封じ石も眠り始めたばかり。
祈還根も本来の役目を思い出した直後。
ここで深追いすれば、全員が呑まれる。
「今は追えません」
リリアは悔しさを押し殺して言った。
「まず、戻れる願いを全部返します。封じ石を完全に眠らせないと」
黒い扉の向こうで、マルドの声が遠ざかる。
「ならば眠らせてみなさい。あなたが眠らせるほど、私は奥へ潜るだけです」
扉が閉じた。
地下広間に、重い静けさが落ちる。
マルドは逃げた。
完全には終わっていない。
けれど、祈還根はもう彼のものではない。
リリアは白い香炉の前に膝をついた。
王都の封じ石は、まだ亀裂を抱えたまま眠ろうとしている。
祈還根の中には、返る場所を待つ願いがまだ無数に残っている。
リリアは深く息を吸った。
「続けます」
ノアが隣に膝をついた。
「支える」
セシリアが白露草を握り直す。
「私も」
エルヴィンが剣を収め、香符の灰を集める。
「私もだ」
ルゥがふらつきながらも、リリアの膝に身体を預けた。
リリアはその温もりを感じながら、白い香炉に最後の清水を一滴落とした。
願いは、まだ帰り道を待っている。
だから、道を整える。
それが今のリリアの仕事だった。




