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第39話 帰り道を作る香り

 白い香炉に、最後の清水が落ちた。


 ぽたり。


 たった一滴の音が、地下聖香炉の広間に静かに響く。


 王都の封じ石は、まだ亀裂を抱えたまま浮かんでいた。


 黒い根は完全には消えていない。

 祈還根の表面には白い筋が戻りつつあるが、長い年月をかけて染み込んだ濁りは深い。


 マルドは黒い扉の奥へ逃げた。

 だが、彼の残した腐った願いの香りは、まだ地下にこびりついている。


 リリアは白い香炉の前に膝をつき、両手を添えた。


 身体は重い。

 頭の奥がじんじんする。

 けれど、香りはまだ読める。


 祈還根の中に残された願いが、帰り道を探している。


 ――帰りたい。

 ――忘れられたくない。

 ――守りたかった。

 ――届いてほしかった。

 ――叶わなくても、私の願いだった。


 リリアの胸に、いくつもの声が触れようとする。


 だが、今度は受け止めすぎない。


 母の声を思い出す。


 汚れは、流れる場所を作ってあげるの。


 願いも同じだ。


 リリアが抱えるのではない。

 封じ石へ押し込むのでもない。

 祈還根に吸わせるのでもない。


 それぞれの場所へ、帰す。


「リリア」


 ノアが隣に膝をついた。


 剣を床へ置き、片手をリリアの背に添えてくれる。


「倒れる前に言え」


「はい」


 リリアは小さく頷いた。


「でも、まだ続けられます」


「分かった。なら、ここにいる」


 その一言が、白露草の香りのように胸を落ち着かせた。


 ルゥはリリアの膝に半分体を預けている。

 白銀の毛はいつもより少し乱れ、額の月の紋も淡い。


 それでも、ルゥは目を閉じなかった。


 小さな守護獣は、自分もまだここにいるのだと示すように、細い月光を白い香炉へ重ね続けている。


「無理しないでね」


 リリアが囁くと、ルゥは弱く鼻を鳴らした。


 分かっている、と言いたいのか。

 分かっていないのか。


 その少し意地っ張りな気配に、リリアは一瞬だけ笑いそうになった。


 恐ろしい地下聖香炉の中で、ほんの少しだけ心がほどける。


 セシリアは白露草の布を両手で握り、神官たちの間を歩いていた。


 倒れた高位神官たちのそばにしゃがみ、彼らの胸元に残った黒い香符の灰を布で包んでいく。


 手は震えている。


 けれど、彼女は逃げない。


「息をしてくださいませ」


 セシリアは、床に座り込んだ若い神官へ声をかけた。


「その不安は、神殿に捧げるものではありませんわ。あなたの中へ戻してください」


 若い神官はぼんやり彼女を見上げた。


「セシリア様……私は、祝福を守っていたはずで……」


「私も、そう思っていましたわ」


 セシリアの声が震える。


「でも、違ったのです。だから今は、見たものを見なかったことにしないでください」


 その香りは、まだ弱い。


 だが、たしかに白露草と重なっている。


 セシリアの中に戻った願いが、今度は誰かを縛るためではなく、ほどくために使われている。


 エルヴィンはローデンを支えながら、神殿騎士たちに指示を出していた。


「香符をすべて集めろ。素手で触るな。白露草の布へ。詠唱を再開しようとする者がいたら止めるんだ」


 かつて大神殿の命令を疑わなかった神官騎士。


 その彼が今、大神殿の地下で、神殿の香りを止めている。


 皮肉にも見える。


 けれど、リリアにはその香りが分かった。


 彼もまた、自分の願いを取り戻そうとしている。


 正しい騎士でありたかった願い。


 それを神殿の権威へ預けるのではなく、自分の行動で選び直そうとしている。


 ローデンは床に座り込んだまま、青ざめた顔で封じ石を見つめていた。


「私は……祝福を開こうとしていたのではなく、封印を壊していたのか」


 誰もすぐには答えなかった。


 やがて、リリアが口を開く。


「知らずにしていたことも、知ろうとしなかったことも、どちらも残ります」


 ローデンが顔を上げる。


 その表情は苦痛に歪んでいた。


 リリアは続けた。


「でも、今から何をするかは選べます」


 ローデンは唇を震わせる。


「……何をすればいい」


「詠唱を止めてください。高位神官たちに、地下聖香炉の本当の記録を出させてください。封じ石を祝福石として扱ってきた経緯も」


 ローデンの顔がこわばる。


 それは、大神殿の権威を根底から揺るがすことだ。


 だが彼は、封じ石の亀裂を見た。


 祈還根を見た。


 黒蝶を見た。


 もう、知らなかった場所へは戻れない。


「……分かった」


 かすれた声だった。


「私が知る限り、記録を出す」


 エルヴィンが彼を見る。


「逃げるなよ」


「逃げられるものか」


 ローデンは自嘲するように笑った。


「私の願いも、今さら胸に戻ってきた。重くて、とても逃げられん」


 その言葉に、白い香炉の香りが少しだけ澄んだ。


 リリアは祈還根へ意識を戻す。


 白い筋が伸びる。


 根の中の光が、香りの道へ流れていく。


 地上の広場へ。


 大聖堂で不安に震える神官たちへ。


 大神殿の外で祈っていた人々へ。


 王都の街へ。


 リリアには、香りの先がかすかに見えた。


 広場で子どもを抱いた母親が、急に涙をこぼす。


「私……この子が無事なら、それでよかったのに」


 商人が胸を押さえ、空を見上げる。


「店の成功を祈ったはずが、いつから神殿の香りがないと駄目だと思っていたんだ……」


 病人の枕元で、老女が目を開ける。


「祈りが、戻ってきたようだね」


 奇跡が起きたわけではない。


 病が癒えたわけでも、願いがすべて叶ったわけでもない。


 ただ、人々は自分の願いを取り戻している。


 誰かに預け、吸われ、濁らされる前の形で。


 それは、静かな変化だった。


 けれど確かに、王都の空気が変わり始めていた。


 大神殿から流れていた甘い聖香が薄くなる。


 代わりに、人々の生活の匂いが戻ってくる。


 焼きたてのパン。

 馬車の油。

 市場の果物。

 雨を待つ土。

 洗いたての布。


 祝福の香りに塗りつぶされていた王都が、本来の街の匂いを取り戻していく。


 リリアの目から、涙が一粒落ちた。


「戻っていく……」


 ノアが静かに言う。


「ああ」


「王都は、こんなに色々な香りがあったんですね」


「君には、そう見えるのか」


「はい」


 リリアは微かに笑った。


「神殿の聖香だけではありませんでした」


 その瞬間、封じ石がゆっくりと沈んだ。


 浮かんでいた白い石が、巨大な聖香炉の中央へ戻っていく。


 黒い根はまだ絡んでいる。

 亀裂も完全には消えていない。


 けれど、石は静かに眠ろうとしていた。


 祈還根の白い筋が、封じ石の周囲を包む。


 以前のように押し込めるためではなく、寝床を整えるように。


 リリアは白い香炉の香りをさらに細くした。


 強く焚かない。


 支配しない。


 ただ、眠りを妨げる濁りを流す。


「眠ってください」


 リリアは囁いた。


「あなたは、祝福を作るために苦しまなくていい。封じる役目も、一人で背負わなくていい」


 封じ石が、淡く光った。


 その光の中に、一瞬だけ母の姿が見えた気がした。


 セレナ。


 リリアの母は、若い頃の姿で封じ石のそばに立っていた。


 幻かもしれない。


 記憶かもしれない。


 それでも、その表情は穏やかだった。


 ――よく、帰したわね。


 声は香りの中でだけ聞こえた。


 リリアは唇を震わせる。


「お母さま……」


 母の姿は微笑み、そして封じ石の白い光の中へ溶けていった。


 会いたい。


 その願いは、まだ胸の中にある。


 けれど、黒い根には渡さない。


 リリアはその痛みごと、香炉を見つめた。


 やがて、封じ石の亀裂に白い光が薄く満ちる。


 完全に塞がったわけではない。


 だが、これ以上広がることはなかった。


 地下聖香炉に満ちていた腐った甘さが、すっと引いていく。


 代わりに残ったのは、冷たい石と清水の香りだった。


 エルヴィンが息を吐く。


「止まった……のか」


 リリアは香りを確かめた。


「はい。今は、眠っています」


「今は?」


 セシリアが不安そうに問う。


 リリアは頷いた。


「完全ではありません。マルド神官長が奥へ逃げましたし、祈還根もまだ全部戻りきっていません。封じ石の亀裂も残っています」


 ノアが低く言う。


「一時封印か」


「はい」


 それでも、大きな一歩だった。


 王都の石は砕けなかった。

 祈還根は名を取り戻した。

 集められた願いは、戻り始めた。


 大神殿の聖香支配は、確かに崩れた。


 その時、地下聖香炉の壁の一部が白銀に光った。


 リリアは顔を上げる。


 古い文字が浮かび上がっていた。


 清水に反応した母の文字とは違う。


 もっと古い、香律師たちの記録。


 リリアはゆっくり読み上げる。


「“祈還根、名を返されし時、第一の香炉は眠る”」


 第一の香炉。


 ノアが眉を動かす。


「第一?」


 リリアは続きを読んだ。


「“第二の香炉は、黒森の下。第三の香炉は、王都の奥。三香炉満ちて、黒根は帰る”」


 地下広間が静まり返った。


 黒森の下。


 レーヴェン古城の地下香炉だ。


 では、第三の香炉は。


 王都の奥。


 マルドが逃げた黒い扉のさらに向こう。


 リリアの胸が冷える。


 封じ石を眠らせただけでは終わらない。


 祈還根を完全に戻すには、三つの香炉を満たさなければならない。


 レーヴェン古城の地下香炉。

 王都大神殿の封じ石。

 そして、王都の奥にある第三の香炉。


 マルドは、そこへ逃げた。


 ローデンが震える声で言った。


「第三の香炉など、聞いたことがない……」


 エルヴィンも首を振る。


「高位神官にも知らされていない区画か」


 リリアは黒い扉を見る。


 閉じた扉の隙間から、まだわずかに焦げた香りが漏れている。


 奥にマルドがいる。


 そして、彼が積み上げた聖香がある。


 ノアが立ち上がった。


「追うか」


 リリアはすぐには答えなかった。


 ルゥは限界に近い。

 セシリアもエルヴィンも消耗している。

 自分自身も、立っているだけで精一杯だ。


 ここで追えば、マルドの奥の罠に呑まれる。


「今は追いません」


 リリアは言った。


 悔しい。


 でも、判断を間違えてはいけない。


「まず封じ石を安定させます。祈還根が戻した願いの道も、完全に整える必要があります。古城の地下香炉とも繋げないと」


 ノアは頷いた。


「いい判断だ」


 その言葉に、リリアは少しだけ息を吐く。


 昔なら、焦って追いかけていたかもしれない。


 でも今は、止まることも選べる。


 守るために。


 勝つために。


 白い香炉の火が、静かに小さくなる。


 リリアはそれを見届けた瞬間、全身から力が抜けた。


「リリア!」


 ノアが支える。


 今度は踏ん張れなかった。


 けれど、倒れるのは怖くなかった。


 誰かが支えてくれると、分かっていたから。


「すみません……少し、休みます」


「少しでは足りない」


 ノアの声は固い。


 けれど、抱きとめる腕はひどく優しかった。


 ルゥがリリアの腕の中へ潜り込むように丸くなる。


 セシリアが泣きそうな顔で白露草を差し出した。


「お姉さま、これを……」


「ありがとう」


 リリアは受け取った。


 セシリアの手が震えていた。


 でも、その香りはもう焦げていない。


 地下聖香炉の中央で、王都の封じ石は静かに眠っている。


 祈還根は白い筋を取り戻し、願いを帰す道を保っている。


 大きな勝利ではない。


 まだ途中だ。


 けれど、リリアは確かに一つの香りを整えた。


 王都大神殿の腐った祝福は、もう元には戻らない。


 隠されていた真実は、地上へ昇り始めている。


 そして黒い扉の奥で、マルドは次の香炉を抱えて待っている。


 リリアは薄れていく意識の中で、母の声を聞いた気がした。


 ――休みなさい。帰す香りは、急がなくていいの。


 その声に包まれながら、リリアは初めて、大神殿の地下で安心して目を閉じた。

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