第40話 祝福ではなかった香り
リリアが目を開けた時、最初に感じたのは白露草の香りだった。
薄く、涼しく、喉の奥に残る焦げた聖香を洗い流してくれる香り。
次に感じたのは、雪のようなルゥの匂い。
それから、温かい薬草茶。
「……ここは」
声を出すと、思ったより掠れていた。
すぐ近くで、椅子が動く音がした。
「大神殿の控え室だ」
ノアの声。
リリアはゆっくり顔を向ける。
白い壁。
高い窓。
神官用の寝台。
けれど、部屋の香りは大神殿のものではなかった。
白露草と銀葉ミント。
ガレスが用意してくれた薬草袋の香り。
それから、ノアの外套に染みついたレーヴェン古城の匂い。
リリアは少しだけ安心した。
「封じ石は……」
「眠っている」
ノアは短く答えた。
「祈還根も安定している。エルヴィンとローデンが神官たちを地下から出し、香符の回収を続けている」
「マルド神官長は」
「黒い扉の奥へ消えたままだ」
「そうですか……」
リリアは起き上がろうとした。
その瞬間、身体の重さに息を詰める。
全身が水に浸かった後のように重い。
ノアがすぐに手を添えた。
「起きなくていい」
「でも、確認しないと」
「確認はした」
「でも」
「リリア」
いつもより少し低い声だった。
怒っているわけではない。
けれど、絶対に譲らない声。
「君は倒れた」
リリアは口を閉じた。
「封じ石を眠らせ、祈還根の願いを返し、王都の聖香を止めた。その後に倒れた」
「……はい」
「今すべき確認は、自分がまだ動けるかどうかではない。休めるかどうかだ」
あまりにも正論だった。
リリアは反論できず、布団を握った。
「休みます」
「本当に?」
「本当に」
そう答えると、足元で丸まっていたルゥが、片目だけ開けてじっと見た。
疑っている。
「本当よ、ルゥ」
ルゥはまだ疑わしそうだったが、やがて鼻を鳴らして再び丸くなった。
その姿に、リリアは少し笑った。
笑った途端、胸の奥がじんわり痛む。
王都の石。
祈還根。
母の声。
マルドの黒い扉。
思い出すことが多すぎて、頭が追いつかない。
ノアは薬草茶の入った杯を差し出した。
「飲めるか」
「はい」
リリアは両手で受け取った。
温かい。
香りは薄めてある。
今のリリアが強い薬草の香りを吸いすぎないように調整されている。
誰かが気遣ってくれた香りだ。
「ガレスさんが?」
「彼の薬草を使った。淹れたのはセシリアだ」
「セシリアが?」
リリアは驚いて杯を見つめた。
たしかに、香りの奥に少しぎこちなさがある。
白露草がやや多い。
銀葉ミントは控えめ。
でも、焦げていない。
丁寧に淹れようとした香りだった。
「彼女は?」
「隣室で休んでいる。君ほどではないが消耗している」
「そうですか」
リリアは杯を口に運んだ。
少し苦い。
けれど、優しい味だった。
「おいしいです」
ノアの目元がわずかに和らいだ。
「伝えておく」
「はい」
窓の外から、ざわめきが聞こえた。
大神殿の広場だろう。
リリアは少しだけ顔を向ける。
「外は……どうなっていますか」
ノアは窓の方を見る。
「混乱している」
やはり。
リリアは杯を握る手に力を込めた。
「大神殿の聖香が腐っていたこと、隠しきれませんよね」
「ああ。広場の香炉から黒蝶が出た。地下聖香炉の高位神官たちも倒れた。マルドの黒香炉を見た神殿騎士もいる」
ノアは淡々と言った。
「もう、辺境の呪いで片づけるのは難しい」
リリアは息を吐いた。
安心ではない。
むしろ、これからもっと大きな騒ぎになるという実感があった。
王都大神殿は、長く聖香と祝福で人々の信頼を集めてきた。
その中心にある香りが腐っていた。
祝福の源とされていた王都の石が、実は封じ石だった。
人々の願いが、神殿に集められて濁らされていた。
その事実が地上へ出れば、王都は揺れる。
「怖いです」
リリアはぽつりと言った。
「何が起きるのか」
「そうだな」
「私が言ったことで、大神殿に混乱が広がります」
「君が腐らせたわけではない」
ノアの声は静かだった。
「腐ったものが、ようやく見えるようになっただけだ」
リリアは杯の中の薬草茶を見つめる。
その通りだと思いたい。
でも、人は見えるようにした相手を責めることがある。
神殿でのリリアがそうだったように。
異変を指摘したから、妨害者にされた。
「また、私のせいだと言われるかもしれません」
「言う者はいるだろう」
ノアは否定しなかった。
その正直さが、逆に安心できた。
「だが、今度は記録がある。証人もいる。レーヴェンも、エルム家も、神殿内部の者も見ている」
彼は少しだけ身を乗り出した。
「そして何より、君自身がもう黙らない」
リリアの胸が、静かに温かくなった。
「……はい」
まだ怖い。
けれど、それだけではない。
もう黙らない。
その言葉は、リリアの中で小さな灯りのように残った。
しばらくして、控え室の扉が軽く叩かれた。
ノアが返事をすると、セシリアがそっと顔を覗かせた。
髪は乱れ、目元は赤い。
いつもの完璧な聖香師見習いの姿ではなかった。
両手には、追加の薬草茶と白露草の包みを持っている。
「お姉さま……起きていらしたのですね」
「はい。薬草茶、ありがとうございます」
リリアがそう言うと、セシリアの目が揺れた。
「味は……大丈夫でしたか」
「少し白露草が強いですが、今はそれがありがたいです」
セシリアは一瞬泣きそうな顔になり、それから小さく笑った。
「初めて、お姉さまに香りのことでちゃんと教えていただいた気がしますわ」
リリアは少しだけ考えた。
「今までも、言ったことはありました」
セシリアの表情が固まる。
「でも、あなたは聞きませんでした」
「……はい」
セシリアは深く目を伏せた。
「そうですわね。私は聞かなかった。聞けば、自分が選ばれたわけではないと分かってしまう気がして」
リリアは薬草茶の杯を置いた。
「今は聞いています」
その言葉に、セシリアは顔を上げる。
「それは、良いことだと思います」
許したわけではない。
傷が消えたわけでもない。
でも、変わろうとしていることを、見ないふりはしない。
セシリアは唇を震わせ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
部屋の外から、別の足音が近づいてきた。
エルヴィンだった。
彼の神官騎士服は汚れ、外套の裾には黒い灰がついている。
以前のような整った騎士の姿ではない。
けれど、その目ははっきりしていた。
「リリア。起きているところすまない」
「何かありましたか」
「広場で、民と神官たちに説明を求められている。ローデンが地下の封印記録を出すことに同意した。だが、高位神官の一部が抵抗している」
ノアの表情が引き締まる。
「マルド派か」
「そうだ。彼らは、黒蝶は辺境の呪いであり、リリアが持ち込んだものだと主張し始めている」
リリアの胸が冷える。
やはり来た。
分かっていたのに、身体が強張る。
セシリアが顔を青ざめさせた。
「そんな……目の前で見たではありませんか。神官長様の黒香炉も、香符も」
「見ていない者たちが、声を大きくしている」
エルヴィンの声は苦い。
「そして、見た者の中にも、認めるのを恐れている者がいる」
リリアはゆっくり息を吸った。
白露草の香り。
ノアの言葉。
君自身がもう黙らない。
「私が、話します」
そう言った瞬間、ノアとルゥとセシリアが同時にこちらを見た。
ルゥなど、明らかに不満そうな顔だ。
「もちろん、少しだけです」
リリアは慌てて付け足した。
「倒れるほどは話しません。立てなければ座ったままで。必要なことだけ」
ノアはしばらく黙っていた。
それから言った。
「座ったままなら」
「はい」
「話す時間は短く」
「はい」
「私が止めたら終わり」
「はい」
セシリアが小さく息を吐いた。
「お姉さま、本当にノア様の言うことは聞くのですね」
リリアは思わず頬が熱くなった。
「必要なことですので」
ノアは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を逸らした。
大神殿の広場には、人々が集まっていた。
リリアは控え室の椅子ごと、大聖堂前の回廊へ運ばれる形になった。
少し恥ずかしい。
けれど、立って倒れるよりはずっといい。
ルゥは椅子の足元にぴたりと寄り添い、ノアはすぐ後ろに立つ。
セシリアとエルヴィンは左右に控えた。
広場には、神官、神殿騎士、王都の民、商人、貴族の使いまで集まっている。
誰もが不安そうだった。
聖香の甘い匂いはかなり薄れている。
その代わり、人々の本来の匂いが戻っていた。
汗。
不安。
怒り。
涙。
そして、知りたいという香り。
リリアはその香りを吸い込み、口を開いた。
「私は、リリア・エルムです」
広場が静まる。
かつてこの大神殿で、役立たずと呼ばれた名前。
今は、自分で名乗る。
「以前、王都大神殿の薬草園で働いていました。祝福式の日、聖香の異変を指摘しましたが、信じてもらえませんでした」
神官たちの一部が気まずそうに目を伏せる。
リリアは続けた。
「今日、地下聖香炉で確認したことを話します。王都の石は、祝福を生む石ではありません。黒い根を封じるための封じ石です」
広場が大きくざわめいた。
「嘘だ!」
誰かが叫ぶ。
「大神殿は代々、王都の石を祝福石として――」
「壁に古い記録が残っていました」
リリアは遮らず、けれどはっきり言った。
「“祝福の源にあらず。黒根を封じる眠りの石なり”と。ローデン神官長代理も確認しています」
視線がローデンへ集まる。
彼は青ざめた顔で立っていた。
逃げるかと思った。
しかし彼は、震えながらも頷いた。
「……事実だ。地下階段の古文に、その記録があった」
ざわめきがさらに広がる。
リリアは胸を押さえながら言葉を続けた。
「大神殿の聖香は、長い間、人々の願いを集めすぎました。祈りそのものが悪いのではありません。けれど、願いを一箇所へ集め、強い香りにしようとしたことで、香りは濁りました」
民の中から、年老いた女性が声を上げた。
「では、私たちが祈ったせいで、呪いが?」
「違います」
リリアはすぐに首を横に振った。
「願うことは悪くありません。祈ることも悪くありません。悪いのは、その願いを奪い、支配に使うことです」
老女の目に涙が浮かぶ。
リリアは広場を見渡した。
「皆さんの願いは、大神殿のものではありません。神官長様のものでもありません。皆さん自身のものです」
広場が静かになった。
その静けさは、先ほどまでの混乱とは違った。
人々が、自分の胸に戻ってきた願いを確かめている静けさだった。
「聖香は、願いを奪うためにあるものではありません。本当は、土地と水と人の心を整え、祈りが自分の場所へ戻るのを助けるものです」
リリアは白露草を手に取った。
「強すぎる香りに頼らなくても、願いは消えません。誰かに預けなくても、皆さんの中にあります」
セシリアが隣で小さく頷いた。
エルヴィンも目を伏せている。
広場の神官たちは、誰もすぐには反論しなかった。
ただ一人、奥にいた老神官が声を張り上げた。
「では、神殿は不要だと言うのか!」
リリアは彼を見る。
その香りには、怒りよりも恐怖が強かった。
神殿の意味が失われる恐怖。
「不要だとは言っていません」
リリアは答えた。
「でも、香りを独占する神殿は、もう続けられないと思います」
老神官の顔が歪む。
「香りを整える場所であるなら、必要です。願いを集めて支配する場所ではなく」
その言葉は、広場に静かに落ちた。
誰もが、その意味を噛みしめているようだった。
その時、広場の端にいた若い神官が、震えながら前へ出た。
祝福式の日、リリアを嘲った一人だった。
「……リリア」
彼はリリアの名を呼び、すぐに言い直した。
「リリアさん。私は、あなたの記録を落書きだと笑いました」
リリアは彼を見る。
胸が痛む。
けれど、逃げない。
「聖香庫で黒い膜を見ても、神官長様が問題ないと言ったから、そう思い込んだ。あなたの言葉を聞かなかった」
彼は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
広場がまた静かになる。
リリアはすぐには答えられなかった。
謝罪。
最近、たくさんの謝罪を受け取っている気がする。
セシリア。
エルヴィン。
父。
そして神官たち。
謝られるたび、傷が消えるわけではない。
でも、傷があったことを、ようやく誰かが見ている。
リリアは静かに言った。
「謝罪は受け取ります」
若い神官が顔を上げる。
「でも、私だけに謝って終わりにしないでください。聖香庫の記録を調べてください。割れた瓶、黒くなった白露草、破られた記録。見なかったことにしたものを、もう一度見てください」
若い神官は唇を噛み、頷いた。
「……はい」
その瞬間、広場の空気が少しだけ変わった。
謝罪を、許しの儀式で終わらせない。
次に何をするかへ繋げる。
それが今、リリアにできることだった。
話し終えた途端、身体から力が抜けた。
ノアがすぐに椅子の背へ手を添える。
「終わりだ」
「はい……」
今度は素直に頷いた。
広場では、神官たちが香炉を止め、黒い香粉の回収を始めている。
神殿騎士たちは民の誘導を続け、ローデンは地下記録の開示を命じていた。
混乱はある。
怒りも、不信も、これから噴き出すだろう。
けれど、腐った聖香をただ吸い続ける時間は終わった。
大神殿の白い柱の奥から、黒い根の匂いがまだかすかに漂っている。
マルドは逃げた。
第三の香炉も残っている。
それでも王都の空には、久しぶりに神殿の甘すぎる香りではない風が吹いていた。
リリアはその風を吸い込む。
市場の果物。
パンを焼く匂い。
人々の不安。
それから、戻り始めた願い。
祝福ではなかった香りが剥がれた後に、王都そのものの香りが戻ってきている。
ノアが静かに言った。
「よく話した」
リリアは少しだけ笑った。
「座っていたので」
「座っていても、十分すぎる」
ルゥが足元で小さく鳴く。
同意しているようだった。
その時、大神殿の奥から、低い音が響いた。
鐘ではない。
扉の音。
地下よりさらに奥、黒い扉の向こうで何かが動いた音だった。
リリアの香炉石が、かすかに熱を持つ。
マルドはまだ終わっていない。
しかし今は、追わない。
リリアは胸元の香炉石に触れ、静かに息を吐いた。
帰り道を作る香りは、急がなくていい。
けれど、止まってもいけない。
王都の願いは戻り始めた。
次は、黒い扉の奥に残された願いと向き合う番だった。




