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第41話 聖香のない朝

 その夜、王都大神殿から聖香が消えた。


 完全に消えたわけではない。


 香炉はまだ広場にも大聖堂にも残っている。

 神官たちは、長年の習慣で香粉の壺へ手を伸ばしかける。


 けれど、そのたびに誰かが止めた。


「今は焚くな」


「確認が済むまで香炉を封じろ」


「白露草の布で覆え。素手で触るな」


 大神殿の白い広場は、いつもとは違う匂いに満ちていた。


 甘く強い聖香ではない。


 人々の汗。

 石畳の冷たさ。

 市場から流れてくる果物の香り。

 不安。

 怒り。

 戸惑い。


 そして、ほんの少しの白露草。


 リリアは回廊の椅子に座ったまま、その香りを感じていた。


 身体はまだ重い。


 立ち上がろうとすると、ルゥが足元で低く鳴く。

 ノアもすぐ隣に立っている。


 つまり、動くなということだ。


「……少しだけ歩くのも駄目ですか」


 リリアが小さく尋ねると、ノアは即答した。


「駄目だ」


「まだ何も言っていないのに」


「言った」


「少しだけと」


「駄目だ」


 ルゥも、ふすん、と鼻を鳴らした。


 完全に同意している。


 リリアは諦めて椅子に座り直した。


「分かりました。座っています」


「いい判断だ」


 ノアの声は真面目だった。


 その真面目さが少しおかしくて、リリアは小さく笑った。


 笑える。


 大神殿の中で。


 かつて追い出された場所で。


 そのことに気づいて、胸の奥が静かに震えた。


 以前のリリアなら、ここでは呼吸するだけで苦しかった。

 誰かの視線が痛くて、白い柱を見るだけで身体が強張った。


 今も怖くないわけではない。


 けれど、隣にノアがいて、足元にルゥがいて、胸元には母の香炉石がある。


 自分の香りを捨てなくていい。


 それだけで、大神殿の白さは以前ほど恐ろしくなかった。


 広場の中央では、ローデンが神官たちへ指示を出していた。


 神官長代理としてではない。


 今の彼は、罪を抱えた証人のように見えた。


「聖香庫の封印記録をすべて持ってこい。古文書室も開ける。マルド神官長の個人保管分もだ」


 若い神官が戸惑う。


「しかし、神官長様の許可がなければ……」


「その神官長が黒香炉を持ち、地下の封じ石を壊そうとした」


 ローデンの声が震える。


 だが、逃げなかった。


「今さら許可など求めるな。隠したものを出せ」


 神官たちは顔を見合わせた。


 それでも、少しずつ動き始める。


 エルヴィンは神殿騎士たちとともに、黒い香符の回収を続けていた。


 彼の白い外套は汚れている。

 かつての完璧な神官騎士ではない。


 けれど、今の彼の香りは、以前よりずっと澄んでいた。


 後悔はある。

 迷いもある。


 それでも、その願いは彼自身の胸に戻っている。


 セシリアは広場の端で、白露草の束を仕分けていた。


 神殿の侍女たちに香りの扱いを説明している。


「強く揉みすぎると香りが荒れますわ。ゆっくり、葉を壊さないように。はい、そうです。甘い香粉とは混ぜないでくださいませ」


 その声はまだぎこちない。


 だが、誰かに褒められるための声音ではなかった。


 誰かを助けるために、覚えたことを伝えている声だった。


 リリアはその姿を見て、胸の奥に小さな痛みと、ほんの少しの安堵を覚えた。


 許したわけではない。


 でも、セシリアが変わろうとしていることは、確かに見える。


 その時、広場の外から怒声が上がった。


「どういうことだ!」


 貴族らしき男が、従者を連れて大神殿の階段を上ってくる。


「我が家は毎月、多額の奉納をしてきた! 王都の石が祝福の源ではないとは何事だ! ならば、我々の祈祷は何だったのだ!」


 その声を皮切りに、他の者たちも騒ぎ始めた。


「病の子のために祈ったのに」


「商売繁盛の大祈祷は?」


「亡き夫への鎮魂香は、呪香だったというのか?」


 怒り。

 不安。

 悲しみ。


 それらの香りが広場に膨らむ。


 リリアの身体が、反射的に動きかけた。


 けれど、ノアの手が椅子の背に置かれる。


「座ったまま」


「……はい」


 リリアは息を整えた。


 立ち上がらなくても、声は出せる。


 けれど、すべてに答える必要はない。


 今この場で、全員の痛みを背負おうとしてはいけない。


 それも、学んだことだった。


 リリアが口を開く前に、ローデンが前へ出た。


「説明は、大神殿が行う」


 広場が一瞬静まる。


 ローデンは青ざめた顔で、人々を見渡した。


「王都の石について、我々は誤った説明を続けてきた。どこから意図的に変えられたのか、誰が関与したのか、これから記録を調べる。だが、少なくとも今、地下の古文は“祝福の源ではなく封じ石”と示している」


 貴族の男が怒鳴る。


「それで済むと思うのか!」


「済まない」


 ローデンは答えた。


「だから、記録を出す。隠さずに」


 その言葉に、神官たちが息を呑む。


 ローデン自身も震えていた。


 神殿の権威を守るために生きてきた者が、その権威を傷つける真実を口にしている。


 リリアはその香りを感じた。


 重い。


 けれど、焦げていない。


 ローデンは続ける。


「ただし、祈った皆様の願いが無意味だったわけではない」


 広場が再びざわめく。


 ローデンはリリアを一度見た。


 助けを求めるというより、確認するような目だった。


 リリアは小さく頷く。


 ローデンは息を吸った。


「祈りは、神殿の所有物ではなかった。皆様自身のものだった。それを神殿が集めすぎ、強い聖香として扱おうとしたことが、今回の腐敗の原因の一つだ」


 完璧な説明ではない。


 けれど、彼は逃げていない。


 広場の怒りは収まらない。


 当然だ。


 長年信じていたものが崩れたのだから。


 けれど、怒りの矛先は少しずつ変わっていた。


 リリア一人へではない。


 大神殿全体へ。

 マルドへ。

 そして、見なかったことにしてきた者たちへ。


 その変化を感じながら、リリアは白露草を握った。


 今はこれでいい。


 全部を解決しようとしない。


 香りは一度に整えられない。


 少しずつ、流す場所を作る。


 日が傾き始めた頃、大神殿の奥から古文書が運び出された。


 埃をかぶった箱。

 封印された巻物。

 黒い染みのある帳簿。


 ローデンとエルヴィン、数人の神官がそれを確認し、リリアとノアの前へ持ってきた。


「これは地下聖香炉の古い管理記録だ」


 ローデンが言う。


「高位神官でも閲覧を制限されていた。私は……存在は知っていたが、読もうとしなかった」


 彼の声に苦さが滲む。


 リリアはその巻物へ手を伸ばしかけ、すぐ止めた。


 ノアが白露草の布を差し出す。


「触るならこれで」


「ありがとうございます」


 巻物を開くと、古い文字が並んでいた。


 リリアにはすべては読めない。


 だが、清水の小瓶を近づけると、いくつかの文字が白銀に浮かび上がった。


 ――第一香炉、王都封石。

 ――第二香炉、黒森清水。

 ――第三香炉、願還の座。


 願還の座。


 リリアの胸が冷えた。


「第三の香炉は、願いを完全に返すための場所……?」


 ローデンが眉をひそめる。


「願還の座など、聞いたことがない」


 エルヴィンが別のページを確認する。


「大神殿の地下構造図にも載っていない。黒い扉の奥は、神官長専用の封印区画としか」


 リリアは巻物の続きを読む。


 白銀の文字が、さらに浮かぶ。


 ――願還の座に私欲を置くべからず。

 ――守人、欲を抱きて座を占めれば、祈還根は黒く腐る。

 ――三香炉の香を巡らせ、根を地へ帰すべし。


 リリアは息を呑んだ。


「マルド神官長は、第三の香炉……願還の座を自分のために使ったのかもしれません」


 ノアの目が鋭くなる。


「自分の願いを置いた?」


「はい。本来は、人々の願いを返すための座なのに、そこに自分の支配欲を置いた。だから祈還根が黒く腐った」


 ローデンが顔を青ざめさせる。


「神官長だけが、あの奥へ入れた。代々の神官長も……いや、少なくともマルド様は、何度も奥へ入っていた」


 セシリアが白露草の束を抱えたまま近づいてきた。


「私、神官長様に一度だけ言われたことがあります」


 リリアは彼女を見る。


「何を?」


「“王都の願いは、戻すより留める方が価値がある”と。その時は意味が分かりませんでした。ただ、聖香師は願いを留める器なのだと……」


 リリアは胸元の香炉石を握った。


 戻すより留める。


 それは、香律とは真逆だった。


 願いを留め、集め、所有する。


 マルドの香りそのものだ。


「第三の香炉を満たさないと、祈還根は完全には戻らない」


 リリアは言った。


「でも、そこにマルド神官長がいます」


 全員が黙った。


 封じ石を眠らせるだけでも、リリアは倒れた。

 ルゥも限界だった。


 今すぐ黒い扉の奥へ進めば、危険なのは明らかだ。


 ノアが静かに言う。


「今夜は進まない」


 リリアは頷いた。


「はい。私も、今は無理だと思います」


 そう言うと、ノアとルゥが同時にこちらを見た。


 まるで、よく言った、と言っているようだった。


 リリアは少し恥ずかしくなった。


「……本当に分かっています」


「ならいい」


 ノアの目元が少しだけ和らぐ。


 夜になり、大神殿の香炉はすべて封じられた。


 王都の空に、いつもの甘い聖香はない。


 その代わり、街のあちこちから生活の匂いが戻ってくる。


 パンを焼く匂い。

 洗濯物の湿った匂い。

 馬の飼葉。

 夜店のスープ。

 人々の不安と、疲れと、眠り。


 リリアは控え室の窓から、それを静かに感じていた。


「聖香のない王都って、こんな匂いだったんですね」


 隣に立つノアが言う。


「悪くないか」


「はい」


 リリアは小さく笑った。


「少し散らかっています。でも、生きている匂いです」


 ノアは窓の外を見た。


「古城も最初、そう言っていたな」


「え?」


「苦しんでいるが、死んではいないと」


 リリアは思い出す。


 初めてレーヴェン古城へ来た日。

 呪われた城の香りを読んで、そう言った。


 王都も同じなのかもしれない。


 腐った祝福に覆われていただけで、街そのものはまだ死んでいない。


「王都も、整えられるでしょうか」


「君一人で整える必要はない」


 ノアは即答した。


 リリアは思わず彼を見る。


 ノアは静かに続ける。


「王都の者が、自分たちで整えなければならない。君は道を示した。全部背負うな」


 その言葉は、少し厳しく、でも温かかった。


「はい」


 リリアは頷いた。


「全部は背負いません」


「それでいい」


 足元でルゥが満足そうに丸くなる。


 王都大神殿の夜は、まだ落ち着かない。


 広場では人々の声が続き、神官たちは記録を運び、神殿騎士たちは黒い香符を集めている。


 そして地下の黒い扉の奥では、マルドが第三の香炉を抱えて潜んでいる。


 明日以降、また向き合わなければならない。


 けれど今夜だけは。


 リリアは椅子に座り、薬草茶を飲み、ルゥの温もりを足元に感じていた。


 ノアが静かにそばにいる。


 それだけで、大神殿の夜でも息ができた。


 窓の外で、聖香のない王都に星が一つ灯る。


 祝福ではない。


 祈りを奪う香りでもない。


 ただ夜空にある、小さな光。


 リリアはその光を見上げながら、胸元の香炉石に触れた。


 明日は、黒い扉の奥へ向かう準備を始める。


 だが今は、休む。


 帰り道を作る香りは、急がなくていい。


 母の声を思い出しながら、リリアは静かに目を閉じた。

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