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第42話 黒い扉の前に整えるもの

 翌朝、王都大神殿には聖香がなかった。


 いつもなら夜明けとともに焚かれる白い香炉も、広場を満たす甘い香りも、今日はすべて止められている。


 その代わり、大神殿には慌ただしい足音と紙の匂いが満ちていた。


 古文書。

 封印記録。

 聖香庫の帳簿。

 破られたリリアの記録。

 黒く焦げた香符の灰。


 ローデンの指示で、神官たちは大神殿の奥に隠されていた記録を運び出している。


 神官長マルドの名で封じられていた箱も、いくつか開かれた。


 中から出てきたのは、祝福の記録ではなかった。


 祈願香の回収量。

 奉納額と聖香の強度。

 貴族家ごとの願いの種類。

 そして、第三香炉への移送記録。


 リリアは椅子に座ったまま、それらの香りを読んでいた。


 紙そのものは古い。


 けれど、染みついている香りは新しいものもある。


 つまり、マルドは長い間、第三の香炉――願還の座へ人々の願いを送り続けていた。


「これは、ひどいですわ……」


 隣で記録を整理していたセシリアが青ざめた。


 彼女の手元には、貴族家の祈祷記録がある。


「病気平癒、家門繁栄、縁談成就……願いの種類ごとに香粉の配合が変えられています。まるで、人の願いを材料として分類しているみたいですわ」


「材料として見ていたんだと思います」


 リリアは静かに答えた。


 怒りはある。


 けれど、昨日のように胸を焼く怒りではない。


 冷たい清水の底に沈んだ石のような怒り。


 だからこそ、香りを乱さずに読める。


「願いを強い聖香にするために、どの香りがよく集まるか、どの願いが濁りやすいか、調べていたんです」


 セシリアは唇を噛む。


「私も、その一部だったのですね」


 リリアは彼女を見る。


「あなたは利用されました。でも、同時に利用する側にも立ちました」


 セシリアの肩が震える。


 リリアは続ける。


「その両方を見てください」


「……はい」


 セシリアは逃げずに頷いた。


「見ますわ。苦しくても」


 その香りは苦い。


 けれど、焦げていない。


 リリアは小さく息を吐いた。


 少し離れた場所では、エルヴィンとローデンが古い地下構造図を広げていた。


 ノアもその横に立ち、黒い扉の奥へ続く道を確認している。


 ルゥはリリアの足元に丸くなっていたが、耳だけはずっと立っている。


 昨日よりは少し回復している。


 けれど、まだ額の月の紋は淡いままだ。


「ルゥ、今日は無理をしないでね」


 リリアが言うと、ルゥは目を逸らした。


 聞く気がない顔だ。


「聞いているふりもしませんね」


 ふすん。


 ルゥは鼻を鳴らす。


 その態度に、リリアは思わず笑ってしまった。


 笑い声は小さかったが、大神殿の冷たい空気を少しだけ和らげた。


 ノアがこちらを見た。


 目が合うと、リリアは慌てて姿勢を正す。


「遊んでいたわけではありません」


「分かっている」


「本当に?」


「ああ。ルゥが君を休ませている」


 足元のルゥが、当然だと言いたげに胸を張る。


 リリアは少し困った顔で笑った。


 ノアは地図を持って近づいてきた。


「黒い扉の奥の構造が分かった」


 リリアの表情が引き締まる。


「第三の香炉へ行けますか」


「道はある。ただし、普通の通路ではない」


 ノアは地図を広げる。


 そこには大神殿の地下深く、封じ石のさらに奥に、円形の空間が描かれていた。


 その周囲を三本の水路のような線が囲んでいる。


「願還の座は、王都の地下水路と古い祈祷路が交わる場所にあるらしい。だが、入口は一つではない」


 エルヴィンが補足する。


「黒い扉から入る正道のほかに、古い清水路から回る道がある。かなり狭く、今はほとんど封じられているはずだ」


「清水路……」


 リリアの胸元で、香炉石が微かに温かくなる。


 母の記録にあった言葉を思い出す。


 汚れは流れる場所を作る。


 第三の香炉へ向かうなら、黒い扉から正面突破するだけでは危ない。


 マルドはそこに罠を張っているはずだ。


 だが、清水路なら。


「水の香りが残っている道なら、黒い根を薄められるかもしれません」


 リリアは言った。


「ただし、完全に塞がっている可能性もあります」


 ローデンが苦い顔で頷く。


「マルド様……いや、マルドは清水路の記録を意図的に隠していた。第三香炉への道を、神官長だけのものにするためだろう」


 ノアは地図を見下ろした。


「二手に分ける」


 その言葉に、リリアは顔を上げる。


「二手?」


「正面の黒い扉側に私とエルヴィン、神殿騎士数名が立つ。マルドの注意を引く。リリアは清水路側から願還の座へ向かう」


「ノア様は、一緒ではないのですか」


 思わず声が出た。


 ノアはリリアを見る。


 その瞳は静かだった。


「正面を空ければ、マルドがこちらを追ってくる。誰かが止める必要がある」


「でも……」


 不安が胸に広がる。


 黒い扉。

 マルド。

 腐った願い。


 ノアがそばにいない。


 その願いを黒い根に触れられたことを思い出し、リリアは自分の胸元を握った。


 帰りたい場所。


 ノアのいる場所。


 まだ名前をつけきれない温かい願い。


 ノアは少しだけ身を屈め、リリアの視線に合わせた。


「怖いか」


「怖いです」


 リリアは正直に答えた。


「ノア様が見えない場所へ行くのも、怖いです」


 言ってから、頬が熱くなる。


 でも、引っ込めない。


 これはリリアの願いだ。


 恥じて黒い根に渡すものではない。


 ノアは黙って聞いていた。


 それから、低く言った。


「私も怖い」


 リリアは目を見開いた。


「ノア様が?」


「ああ。君を見えない場所へ行かせるのは怖い」


 その言葉は、リリアの胸に静かに落ちた。


 守られるだけではない。


 彼もまた、怖いと思っている。


 それでも、それぞれが役目を選ぶ。


「だが、君を信じていないわけではない」


 ノアは続けた。


「君は一人で行くのではない。ルゥがいる。セシリアもいる。清水路には、君の香りが必要だ」


 セシリアが驚いたように顔を上げる。


「私も……ですの?」


 ノアは頷いた。


「リリアの補助を頼む。白露草と記録の管理。香りが乱れた時、彼女が全部抱えないよう止める役だ」


 セシリアは一瞬怯えた顔をした。


 だが、すぐに両手を握りしめる。


「……やりますわ」


 リリアはセシリアを見る。


「危険です」


「分かっていますわ」


「途中で怖くなったら、言ってください」


「はい。お姉さまも、言ってくださいませ」


 その言い返しに、リリアは少しだけ目を瞬いた。


 セシリアは真剣だった。


「お姉さまは、すぐ無理をしますから」


「……最近、皆さんに同じことを言われます」


「皆が同じことを言うなら、たぶん事実ですわ」


 足元でルゥが、ふすん、と強く鼻を鳴らした。


 同意らしい。


 リリアは小さく肩を落とした。


「気をつけます」


 その時、大神殿の入口の方から慌ただしい足音が響いた。


「リリアさん!」


 聞き覚えのある明るい声。


 振り返ると、広場の向こうからカイルが駆け込んでくるところだった。


 その後ろには、ガレスとアリアの姿もある。


「カイルさん! ガレスさん、アリアさんまで……!」


 リリアは思わず立ち上がりかけたが、ノアとルゥの視線で椅子に戻った。


 カイルは息を切らしながら駆け寄ってくる。


「いやあ、もう大変でしたよ! 王都から黒い香りがどーんって来るし、聖月草はぴかーって光るし、ガレスさんは怒鳴るし、アリアさんは馬車を奪う勢いで手配するし!」


「奪ってはいません」


 アリアが涼しい顔で言う。


「通常より高い料金を払って、最速の馬車を手配しただけです」


「それを世間ではだいたい力技って言うんですよ!」


「合法です」


 こんな状況なのに、リリアは少し笑ってしまった。


 レーヴェンの香りだ。


 古城の日常の香りが、王都大神殿へ入ってきた。


 ガレスは大きな薬草袋を肩から下ろし、リリアをじろりと見た。


「倒れたと聞いたぞ」


「少しだけです」


「少しだけ倒れる奴があるか」


「……すみません」


 ガレスは鼻を鳴らし、薬草袋を差し出した。


「聖月草の朝露だ。ほんの少量だが、清水と合わせれば使える。あと、薬草園の白い灰も持ってきた」


 リリアの胸が熱くなる。


「ありがとうございます」


 アリアは数冊の書類束を机に置いた。


「こちらはレーヴェン側の証言書、呪香箱の記録、セシリア様の香り袋から黒蝶が出た件の確認書、そして大神殿に対する正式抗議文の下書きです」


 ノアが見る。


「早いな」


「書類は戦えますので」


 アリアは微笑む。


「特に、相手が権威で殴ってくる時は紙で殴り返すのが効果的です」


 カイルが小声で言った。


「若女将、言い方」


「事実です」


 リリアはそのやり取りに、また少し笑った。


 そして思った。


 本当に、一人ではない。


 リリアが倒れている間も、古城の皆は動いていた。

 聖月草を守り、朝露を集め、記録をまとめ、王都まで来てくれた。


 香りは繋がっている。


 人も、繋がっている。


 アリアはリリアの前に膝をつき、目線を合わせた。


「リリアさん。黒い扉の奥へ行くと聞きました」


「はい。まだ準備中ですが」


「では、これを」


 彼女は小さな布包みを差し出した。


 中には、薬草パンが入っていた。


 リリアは驚く。


「これ……」


「古城の厨房で焼いたものです。ミナちゃんたちも手伝いました。食べられる時に少しでも」


 薬草パンから、懐かしい香りがした。


 朝の厨房。

 子どもたちの笑い声。

 騎士たちの賑やかな食堂。

 レーヴェン古城。


 帰りたい場所の香り。


 リリアは両手で包みを受け取った。


「ありがとうございます」


 声が少し震えた。


 アリアはにこりと笑った。


「帰ってきたら、また新しい香草茶の試作をお願いしますね。王都向けの商品展開、かなり需要が出そうです」


 カイルが目を丸くする。


「この状況で商売の話します?」


「この状況だからです。腐った聖香の後には、ちゃんとした香りが必要になるでしょう」


 ガレスがふんと笑う。


「たくましい女だ」


「褒め言葉として受け取ります」


 リリアの胸に、温かいものが広がった。


 マルドは願いを集め、所有し、腐らせた。


 けれど、ここにある願いは違う。


 守りたい。

 支えたい。

 帰ってきてほしい。

 また一緒にお茶を飲みたい。


 それぞれの胸にある願いが、リリアの背中を押してくれる。


 奪われるためではない。


 繋がるために。


 その日の午後、黒い扉へ向かう準備が整えられた。


 リリア、セシリア、ルゥ、ガレスが清水路側へ。

 ノア、エルヴィン、カイル、神殿騎士数名が黒い扉の正面へ。

 アリアとローデンは大神殿側で記録と証言を押さえ、広場の混乱を抑える。


「ガレスさんも来るんですか」


 リリアが尋ねると、ガレスは呆れたように眉を上げた。


「当たり前だ。お前さんと小娘だけで地下水路へ行かせるか」


 セシリアが小さく縮こまる。


「小娘……」


「白露草の扱いは悪くない。だが足元を見る癖をつけろ。地下水路で転ぶと洒落にならん」


「はい、先生」


「誰が先生だ」


 そう言いながら、ガレスの香りは少しだけ柔らかかった。


 黒い扉の前に立つと、リリアの胸元の香炉石が熱を持った。


 扉の奥から、焦げた願いの匂いが漏れている。


 マルドの香り。


 そして、願還の座に縛られた古い願いの香り。


 ノアがリリアの前に立った。


「ここから先は、しばらく別行動だ」


「はい」


「無理はしない」


「はい」


「怖くなったら言う」


「はい」


「戻る判断も選択肢に入れる」


「……はい」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「最後の返事が遅い」


「気をつけます」


 ルゥがリリアの足元で鳴いた。


 今度は、ちゃんと見張ると言っているようだった。


 リリアはノアを見上げた。


「ノア様も、無理をしないでください」


「ああ」


「怪我をしたら、怒ります」


 言ってから、自分でも驚いた。


 ノアも一瞬だけ目を瞬く。


 それから、ほんのわずかに口元を緩めた。


「それは困るな」


「困ってください」


「分かった。怪我をしないようにする」


 短い会話。


 けれど、それだけで胸の奥の不安が少し整った。


 リリアは母の白い香炉を抱え、清水路へ向かう小さな扉の前に立つ。


 黒い扉ではない。


 古い石壁の下に隠された、狭い水路の入口。


 清水の香りが、かすかに残っている。


「行きます」


 リリアは言った。


 ノアが頷く。


「先で会おう」


 その言葉に、リリアは胸元の香炉石を握った。


「はい。必ず」


 清水路の扉が開く。


 冷たい水と古い石の香りが、リリアを迎えた。


 黒い扉の奥へ続く、もう一つの道。


 願いを奪う香りではなく、願いを帰す香りを携えて。


 リリアは一歩、地下の清水路へ踏み出した。

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