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第43話 清水路の底で待つ声

 清水路の中は、思っていたよりも狭かった。


 人一人がようやく通れるほどの石造りの通路。

 足元には浅く水が流れ、壁には古い苔が張りついている。


 大神殿の白い大理石の広間とはまるで違う。


 ここには金の紋章も、香炉も、祈りの詩もない。


 あるのは、冷たい石。

 地下水の匂い。

 長い間、閉ざされていた空気。


 けれどリリアは、少しだけ息がしやすかった。


 甘く強い聖香より、この薄暗い水の匂いの方がずっと素直だ。


「足元、滑るぞ」


 先頭を歩くガレスが低く言った。


 片手には古いランタン。

 もう片方の手には、白露草と聖月草の朝露を染み込ませた布袋を持っている。


 その後ろをリリアが進み、足元にはルゥ。

 さらに後ろにセシリアが続いていた。


「は、はい……!」


 セシリアの声が震える。


 彼女の靴が、ぴちゃりと水を踏むたびに小さな音を立てる。


 王都大神殿の華やかな広間で褒められるために立っていた少女が、今は薄暗い地下水路を白露草の包みを抱えて歩いている。


 その香りには恐怖がある。


 だが、黒くはない。


「セシリア、大丈夫ですか」


 リリアが振り返ると、セシリアはすぐに頷いた。


「だ、大丈夫ですわ。少し暗いだけですもの」


「とても暗いです」


「……ええ、とても暗いですわ」


 正直に言い直したセシリアの声に、リリアは少しだけ笑った。


 ルゥが足元でふすんと鼻を鳴らす。


 笑っている場合ではない、と言いたげだ。


「分かっています」


 リリアは小声で返した。


 清水路の奥からは、かすかに焦げた香りが流れてくる。


 マルドの香り。

 願還の座に積み上げられた、腐った聖香の香り。


 だが、その下にもう一つ。


 細く、弱い清水の香りがあった。


 完全に枯れたわけではない。


 この水路は、まだ生きている。


「この道、塞がっている箇所があるかもしれません」


 リリアは壁に手を近づけながら言った。


 直接触らない。

 香りだけを読む。


「黒い根が水の流れを邪魔しています。でも、水はまだ向こうへ行きたがっています」


 ガレスが振り返る。


「水が行きたがっている、か。お前さんらしい言い方だ」


「変ですか」


「いいや。分かりやすい」


 その言葉に、リリアは少しだけ肩の力を抜いた。


 前方で、通路が大きく曲がっている。


 曲がり角の先から、濁った匂いが強くなった。


 ガレスが手を上げる。


「止まれ」


 三人と一匹は、その場で足を止めた。


 水音だけが続く。


 ぽたり。

 ぴちゃり。

 遠くで、何かが這うような音。


 セシリアが息を呑む。


「今の……」


「黒い根です」


 リリアは白露草を取り出した。


 曲がり角の向こうに、黒い根がある。


 ただし、襲いかかってくる根ではない。


 水路いっぱいに絡みつき、水を堰き止めている。


「守っているのではなく、詰まっています」


「詰まっている?」


 セシリアが不安そうに聞き返す。


「はい。願いが戻れなくなって、水路で固まっている感じです」


 リリアは小さな白い香炉を抱え直した。


 母の香炉。

 今は清水をほとんど使い切り、香りは薄い。


 だが、ガレスが持ってきてくれた聖月草の朝露がある。


 古城の薬草園から届いた香り。


 リリアは白露草に朝露を一滴だけ落とした。


 冷たい香りが、地下水の匂いと重なる。


「切らずに、流れを作ります」


 ガレスが頷く。


「なら、俺は根が暴れた時だけ押さえる。お嬢ちゃん、白露草の布を広げろ。水に落とすなよ」


「は、はい!」


 セシリアが慌てて布を広げる。


 手は震えているが、布の端はしっかり握っている。


 リリアは曲がり角の先へ、香りを細く流した。


 白露草。

 聖月草の朝露。

 銀葉ミント。

 地下水。


 強く押さない。


 水が流れたい方向へ、ほんの少し道を開ける。


「帰り道はこちらです」


 リリアは囁いた。


 黒い根がぴくりと動く。


 次の瞬間、曲がり角の先から黒い水しぶきが飛んだ。


 ガレスが即座に布袋を投げる。


 黒い水が白露草の布に当たり、じゅわりと嫌な煙を上げる。


 セシリアが悲鳴をこらえながら、布を支えた。


「怖い……でも、落としませんわ!」


 ルゥが低く吠え、細い月光を水面へ走らせる。


 黒い根の動きが鈍る。


 その隙に、リリアは香りをさらに細くした。


 黒い根の中に、声がある。


 ――戻れない。

 ――どこへ行けばいい。

 ――願った人はもういない。

 ――家はなくなった。

 ――名前を忘れた。


 古い願い。


 長く留められすぎて、帰る場所を失いかけた願い。


 リリアの胸が痛む。


 帰る場所がない願いは、どこへ行けばいいのだろう。


 その問いに触れた瞬間、黒い根がリリアの香りへ絡みかけた。


 ガレスの声が飛ぶ。


「抱えるな!」


 リリアははっと息を吸った。


 そうだ。


 かわいそうだと思って、全部を自分で受け止めてはいけない。


 帰る場所を失った願いにも、流れる場所を作る。


 土地へ。

 水へ。

 記憶へ。

 名前が消えても、生きていた場所へ。


「あなたを抱えることはできません」


 リリアは黒い根へ向けて言った。


「でも、流れる道は作れます」


 清水路の奥で、水音が変わった。


 細く堰き止められていた流れが、少しだけ動き始める。


 黒い根の隙間から、澄んだ水が一筋漏れた。


 その水に触れた瞬間、黒い根の表面に白い筋が走る。


 祈還根と同じ白い筋。


 リリアは目を見開いた。


「ここにも、祈還根の細い根が……」


 ガレスが唸る。


「王都の下まで伸びていたってことか」


「はい。本当は、願いを水と一緒に土地へ戻す道だったんです」


 セシリアが震える声で言った。


「それを、神殿が止めていた……?」


「たぶん」


 リリアは黒い根を見た。


「戻るはずの願いを、願還の座に留めるために」


 マルドは、流れを止めたのだ。


 人々の願いが自然に帰らないように。

 水路を塞ぎ、根を黒くし、第三の香炉へ集めた。


 リリアの中に、静かな怒りが沈む。


 でも、その怒りを香りに混ぜない。


 今必要なのは、怒りではなく流れだ。


「もう一度」


 リリアは白露草へ朝露を落とした。


 ルゥが月光を重ねる。


 セシリアが白露草の布を支える。


 ガレスが黒い水を受け止める。


 四つの香りと動きが合わさり、曲がり角の先で堰がほどけていく。


 やがて、黒い根の中心が小さく割れた。


 そこから、澄んだ水が勢いよく流れ出す。


 地下水路に、水音が戻った。


 ざあ、と低く響くその音は、拍手のようにも、深い息のようにも聞こえた。


 セシリアがその場にへたり込みそうになる。


「流れました……」


「ええ」


 リリアも息を吐いた。


 黒い根は完全には消えていない。


 だが、水路を塞ぐほどの力は失っている。


 白い筋を帯びた根は、水の流れに沿って壁の奥へ引いていった。


 その先に、願還の座がある。


 リリアは胸元の香炉石に触れた。


「近いです」


 その頃、黒い扉の正面では、ノアが剣を構えていた。


 扉は閉じている。


 しかし、その表面には黒い羽のような模様が広がり、時折内側から脈打つ。


 エルヴィン、カイル、数人の神殿騎士が周囲を固めている。


 アリアは少し離れた回廊で、記録係の神官たちとともに証言書を整理していた。


 黒い扉の奥から、マルドの声が漏れる。


「レーヴェン卿。彼女を一人にしてよかったのですか」


 ノアは答えない。


 剣先も揺れない。


 マルドは笑った。


「リリアは優しい。願いを見れば、放っておけない。清水路には、帰れなくなった願いを置いてあります。彼女はきっと立ち止まるでしょう」


 カイルが歯を食いしばる。


「あの野郎……」


 エルヴィンも顔を険しくする。


 だが、ノアは静かだった。


「彼女は立ち止まる」


 扉の奥の声が、少しだけ止まる。


 ノアは続けた。


「立ち止まって、香りを読む。そして、抱え込まずに道を作る」


「ずいぶん信じているのですね」


「信じている」


 その言葉は迷いなく響いた。


 黒い扉の表面が、わずかに軋む。


 マルドの香りが濃くなる。


「では、あなた自身の願いはどうですか、レーヴェン卿」


 扉から黒い煙が滲み出す。


 その煙は、ノアの周囲をゆっくり囲んだ。


「呪われた辺境伯家。眠れぬ夜。誰にも理解されず、ただ守る役目だけを背負わされた男。あなたも願ったはずだ。誰かに救われたいと」


 カイルが一歩前に出ようとした。


 ノアが手で制する。


「団長……!」


「下がれ」


 ノアの声は落ち着いていた。


 黒い煙が形を作る。


 静かな寝室。

 長い夜。

 眠れずに窓辺に立つノア。

 誰もいない古城。


 そこへ、リリアの香りが現れる。


 薬草茶。

 白露草。

 朝の光。


 マルドの声が甘く響く。


「彼女がいれば眠れる。彼女がいれば古城は癒える。ならば、閉じ込めてしまえばいい。レーヴェンに。あなたのそばに。神殿よりは優しく扱えるでしょう?」


 エルヴィンが息を呑む。


 カイルは怒りで顔を赤くした。


 ノアは黒い煙の幻を見ていた。


 リリアが古城にいる幻。


 薬草園で笑い、食堂で茶を淹れ、夜には眠れないノアのためにそばにいる。


 穏やかで、温かい幻。


 その香りは、ノアの胸の奥に確かに触れた。


 失いたくない。


 帰ってきてほしい。


 そばにいてほしい。


 それはノア自身の願いだった。


 だが、ノアは剣を握る手に力を込めるだけだった。


「それは私の願いだ」


 彼は低く言った。


「だから、お前には渡さない」


 黒い煙が揺れる。


「綺麗事を。人は愛するものを縛りたくなる」


「縛りたくなる弱さはある」


 ノアは否定しなかった。


「だが、縛らないと決めることもできる」


 幻のリリアが、黒い蝶へ変わりかける。


 ノアは剣を振った。


 斬るのではない。


 剣圧で幻の香りを扉の表面へ押し返す。


「彼女は自分で選んでここに来た。帰る場所も、進む道も、彼女が決める」


 黒い煙が弾ける。


 扉の向こうで、マルドの笑いが低く歪んだ。


「つまらない男ですね」


「よく言われる」


 カイルが思わず小声で言う。


「いや、団長、それ誰に言われてるんですか」


「今は黙れ」


「はい」


 緊張の中で、ほんの一瞬だけ空気が緩んだ。


 だが次の瞬間、黒い扉が激しく脈打った。


 清水路の方から、澄んだ水音が響いたのだ。


 ノアの目がわずかに動く。


 リリアが流れを作った。


 マルドもそれを感じたのだろう。


 扉の奥の香りが一気に乱れる。


「余計な道を……」


 ノアが剣を構え直す。


「始まるぞ」


 清水路の奥でも、リリアは同じ変化を感じていた。


 流れ出した水が、壁の奥へ吸い込まれていく。


 その先で、何か大きな香炉が目を覚ますように震えている。


 願還の座。


 第三の香炉。


 リリアは白い香炉を抱きしめた。


 怖い。


 でも、一人ではない。


 足元にルゥ。

 後ろにセシリア。

 前にガレス。

 そして、黒い扉の向こう側にはノアたちがいる。


 それぞれ別の道を進んでいても、香りは繋がっている。


「行きましょう」


 リリアは言った。


 清水路の先に、淡い白銀の光が見えた。


 その奥から、無数の願いがささやいている。


 帰りたい。

 戻りたい。

 でも、まだ離れられない。


 リリアは水音に耳を澄ませ、一歩踏み出した。


 第三の香炉は、もうすぐそこだった。

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