第44話 願還の座
清水路の先に、白銀の光が揺れていた。
それは灯りというより、水面に映る月のようだった。
リリアは浅い水を踏みながら、その光へ近づいていく。
足元の水音が変わる。
ぴちゃり、ぴちゃり、という細い音から、やがて広い空間へ流れ込む、深い響きへ。
通路が終わる。
その先にあったのは、巨大な円形の地下空間だった。
王都大神殿の地下聖香炉とも、レーヴェン古城の地下香炉とも違う。
ここは、祈るための場所ではなかった。
戻すための場所だった。
天井からは無数の細い根が垂れ下がっている。
床には古い水路が円を描き、中央へ向かって集まっている。
壁には香炉の紋章ではなく、水と根と月を合わせたような古い文様が刻まれていた。
そして中央に、石の座があった。
椅子のようにも見える。
香炉の台座のようにも見える。
小さな祭壇のようにも見える。
その座の周りに、黒く濁った願いが積もっていた。
黒い結晶。
黒い羽。
焦げた香粉。
固まった涙のようなもの。
それらが幾重にも重なり、願還の座を半ば埋めている。
リリアは息を呑んだ。
「ここが……第三の香炉」
セシリアが後ろで震える声を漏らす。
「香炉というより、玉座みたいですわ」
「玉座にしてしまったんだろうな」
ガレスが低く言った。
彼の表情は険しい。
「本来は願いを流す場所だった。なのに誰かがここに座って、集めた願いを自分のものにした」
リリアは願還の座へ近づこうとして、足を止めた。
香りが危険だ。
ここには、戻れなかった願いが何層にも積み上がっている。
触れれば、一気に流れ込んでくる。
リリア一人を、器にしようとする。
「近づきすぎるな」
ガレスが鋭く言った。
「分かっています」
リリアは白露草を取り出した。
直接触らない。
香りだけを読む。
座の上には、古い文字が刻まれていた。
だが、黒い結晶に覆われて読めない。
セシリアが白露草の布を広げる。
「お姉さま、清水を少し?」
「残りはわずかです。まず朝露で試します」
リリアは聖月草の朝露を一滴、白露草へ落とした。
白銀の香りが、願還の座へ細く伸びる。
黒い結晶が、ぴしりと音を立てた。
中から声が漏れる。
――返して。
――返さないで。
――ここにいれば、願いは消えない。
――忘れられたくない。
――叶わなくても、残してほしい。
――誰か、覚えていて。
リリアの胸が締めつけられた。
願いは、帰りたがっている。
でも同時に、消えることを怖がっている。
願った人が亡くなっているものもある。
帰る家が失われたものもある。
名前も、顔も、薄れてしまったものもある。
だからここに留まっている。
腐っても、苦しくても、残っていれば消えないと思って。
リリアは白い香炉を抱きしめた。
「消えません」
静かに言った。
「帰っても、消えるわけではありません。願ったことは、その場所に残ります。水に、土に、記憶に、誰かが生きた跡に」
願還の座の黒い結晶が震えた。
その時、空間の奥から拍手の音がした。
乾いた、ゆっくりとした拍手。
「美しい言葉ですね」
リリアの背筋が凍る。
マルドの声だった。
中央の座の向こう、黒い根の影から、神官長マルドが姿を現す。
いや、姿と言うには不安定だった。
白い神官衣は裂け、黒い根が半身を覆っている。
右腕には黒い蝶の羽が貼りつき、首元には焦げた聖香の染みが広がっている。
それでも彼は、穏やかに微笑んでいた。
「さすがセレナの娘。願いをほどく言葉を知っている」
ルゥが低く唸る。
小さな身体を前へ出すが、まだ完全には回復していない。
リリアはルゥの背中に手を添えた。
「無理しないで」
マルドはその様子を見て、口元を歪める。
「守られることに慣れましたか、リリア。神殿にいた頃のあなたとは随分違う」
「慣れたのではありません」
リリアは答えた。
「一人で抱えなくていいと、知っただけです」
マルドの笑みが薄くなる。
「それは困りますね」
彼が指を鳴らす。
願還の座を覆っていた黒い結晶が一斉に光った。
そこから、無数の香りが噴き出す。
病の子を救いたかった母の願い。
戦地へ向かった夫の無事を祈った妻の願い。
商売に失敗した男の願い。
失われた家を取り戻したかった老人の願い。
選ばれたかった神官の願い。
許されたかった罪人の願い。
量が多すぎる。
リリアの頭の中が、一瞬で白く染まった。
「お姉さま!」
セシリアが叫ぶ。
ガレスがすぐに薬草袋を開き、白い灰を水路へ撒いた。
「受け止めるな! 流せ!」
その声で、リリアは踏みとどまる。
受け止めない。
聞きすぎない。
道を作る。
リリアは白い香炉を床に置き、聖月草の朝露を一滴落とした。
水路へ向けて香りを流す。
「帰り道は、こちらです」
水が淡く光った。
しかし、マルドが笑う。
「足りませんよ」
願還の座の黒い結晶が、さらに強く脈打つ。
「何十年分の願いです。街一つ分の祈りです。あなたがどれほど道を作っても、流れ切る前に溢れる」
リリアは唇を噛む。
たしかに、多すぎる。
地下聖香炉の祈還根に残っていた願いより、さらに濃い。
ここは、戻されなかった願いの最終溜まり場だ。
水路を開いただけでは足りない。
レーヴェンの地下香炉。
王都の封じ石。
願還の座。
三つを巡らせなければ、流れが完成しない。
「ノア様たちが、正面を開いてくれれば……」
リリアは呟いた。
その瞬間、願還の座の反対側で、黒い扉が激しく揺れた。
外側から剣圧が走る。
ノアの気配。
続いて、エルヴィンとカイルの声が響いた。
「押せ!」
「扉の香符を落とせ!」
黒い扉の隙間から、白露草の香りが流れ込んでくる。
リリアの胸が熱くなった。
繋がった。
清水路と黒い扉。
二つの道が、願還の座で出会おうとしている。
マルドの顔が歪む。
「余計なことを」
彼は黒い根を扉へ伸ばした。
だが、その瞬間、セシリアが白露草の布を投げる。
「行かせませんわ!」
黒い根が布に絡み、一瞬動きを止めた。
セシリアは震えている。
それでも、両足で踏みとどまった。
「私は、もうあなたの特別ではありません。だから、あなたの根も通しません!」
黒い根がセシリアへ向く。
リリアはすぐに香りを流した。
「セシリア、願いを渡さないで!」
「分かっていますわ!」
セシリアは泣きそうな顔で叫ぶ。
「選ばれたかったですわ! 今でも、羨ましい気持ちはありますわ! でも、それは私のものです! あなたには渡しません!」
その言葉に、白露草の香りが強まった。
黒い根が焦げるように引く。
ガレスが低く笑った。
「上出来だ、小娘」
「先生に褒められましたわ……!」
「先生ではない」
そのやり取りに、ほんの一瞬、リリアの肩の力が抜ける。
だが、マルドはすぐに次の手を打った。
「ならば、リリア。あなたが座ればいい」
願還の座が、白く光った。
黒い結晶の奥から、清らかな香りが漏れる。
驚くほど澄んだ香り。
母の清水に似ている。
マルドは優しく言った。
「この座は、願いを返すためのもの。あなたが座れば、すべての願いを一度に流せる。王都も、古城も、祈還根も救える」
リリアの心臓が跳ねた。
すべてを一度に。
王都の願いを返せる。
封じ石を完全に眠らせられる。
祈還根を地へ帰せる。
マルドの腐らせた香りを終わらせられる。
もし、本当にできるなら。
一歩、足が動きかけた。
その瞬間、ガレスの怒号が飛ぶ。
「座るな!」
リリアはびくりと止まった。
ガレスの顔はこれまでになく険しい。
「その座は器じゃない。流れを巡らせる中継点だ。人間が座って願いを受けたら、今度はお前さんが詰まりになる!」
リリアの背筋が冷える。
マルドの笑みが消えた。
ガレスは続ける。
「セレナもそれを知っていたはずだ。だから清水路を残した。座に誰かを置くためじゃない。水と根と香りを巡らせるためだ!」
リリアは願還の座を見る。
清らかに見えた香りの奥に、黒い空洞がある。
座った者を器にする穴。
願いを返すのではなく、一度その身体に通し、香りごと削る仕組み。
マルドは、リリアに母と同じことをさせようとしたのだ。
いや、母以上に。
すべてを背負わせて、香りを削り尽くすつもりだった。
「……あなたは」
リリアの声が震えた。
「母にも、座れと言ったのですか」
マルドは答えない。
けれど、その香りで分かった。
そうだ。
セレナも、この罠の前に立った。
願いを返すために、自分が器になれと言われた。
そして、拒んだか、途中で止めたか、あるいはリリアを守るために一部だけを受けた。
だから香りを削られ、倒れた。
リリアの胸に、静かな怒りが満ちる。
「私は座りません」
マルドの目が細くなる。
「では、願いは溢れますよ」
「座らずに巡らせます」
「できるものか」
「一人ではできません」
リリアは白い香炉を抱えた。
「だから、一人ではやりません」
その瞬間、黒い扉が大きく開いた。
ノアの剣圧が黒い香符を砕き、扉の向こうから光が差し込む。
エルヴィンとカイル、神殿騎士たちが飛び込んでくる。
ノアは一瞬で状況を見た。
願還の座。
マルド。
リリア。
清水路。
そして、言った。
「遅れたか」
リリアは首を横に振る。
「いいえ。ちょうどです」
ノアがリリアの隣に立つ。
その背中ではなく、横に。
「どうする」
リリアは願還の座を見据えた。
「三つの香炉を繋ぎます。王都の封じ石、レーヴェンの地下香炉、そしてこの願還の座。私が座るのではなく、香りと水と根に流れてもらいます」
「必要なものは」
「時間と、守りと、皆の願いを渡さない意志です」
ノアは剣を構えた。
「時間は作る」
エルヴィンが頷く。
「守りは任せろ」
セシリアが白露草を握る。
「願いは、渡しません」
ガレスが薬草袋を開く。
「流れは俺が補助する」
カイルが剣を構えながら叫ぶ。
「じゃあ俺は、黒いのを近づけない係で!」
ルゥが高く吠えた。
額の月の紋が、再び白銀に輝き始める。
マルドは彼らを見て、顔を歪めた。
「くだらない。願いは集めてこそ力になる。散らばった願いなど、何にもならない」
「散らばるのではありません」
リリアは言った。
「帰るんです」
白い香炉が光る。
清水路の水が動き出す。
遠く、レーヴェン古城の地下香炉から聖月草の香りが届く。
王都の封じ石が、眠りながら応える。
三つの香炉を繋ぐための香りが、ゆっくりと巡り始めた。
願還の座を覆っていた黒い結晶が震える。
マルドの足元から黒い根が噴き上がる。
「ならば、巡る前に砕いてやる!」
黒い根の群れが、一斉にリリアたちへ襲いかかった。
リリアは白い香炉を抱きしめ、深く息を吸った。
怖い。
けれど、もう座には座らない。
自分を犠牲にして終わらせる道は選ばない。
皆で流す。
皆で帰す。
それが、リリアの選ぶ香りだった。




