第45話 三つの香炉を巡る香り
黒い根の群れが、願還の座から噴き上がった。
まるで地の底から無数の腕が伸びてくるようだった。
黒く、湿っていて、焦げた聖香の匂いをまとった根。
その一本一本に、戻れなかった願いが絡みついている。
助けて。
忘れないで。
選んで。
許して。
ここに置いていかないで。
声が重なる。
リリアは白い香炉を抱きしめたまま、息を吸った。
受け止めない。
聞きすぎない。
道を作る。
「右から来ます!」
リリアが叫ぶより早く、ノアが動いた。
剣が走る。
斬るのではない。
黒い根の進路をそらし、水路の円環へ押し込む。
根が水へ触れ、じゅわりと黒い煙を上げた。
そこへガレスが白い灰を投げる。
「流れへ戻れ!」
白い灰が水に溶け、黒い根の表面に細い筋を作った。
セシリアは白露草の布を広げ、飛び散る黒いしぶきを受け止める。
顔は青ざめている。
だが、逃げない。
「怖い……でも、これは私の怖さですわ!」
その言葉とともに、白露草の香りが濁らず広がる。
エルヴィンとカイルは、黒い扉側から押し寄せる根を抑えていた。
「カイル、左!」
「分かってますって!」
カイルが剣を振り、黒い根を水路へ追い込む。
「うわ、これ気持ち悪っ! でも団長に怒られるよりは怖くない!」
「今それを言う場面か!」
エルヴィンが叫びながらも、香符の残骸を叩き落とす。
わずかな軽口。
けれど、その軽さが黒い願いに呑まれないための錨になっていた。
リリアは中央に立ち、願還の座を見据える。
座ってはいけない。
自分を器にしてはいけない。
ならば、香りを巡らせる。
リリアは母の白い香炉を、願還の座の前に置いた。
石の座に触れさせない。
中央から少し外した位置。
そこから水路へ香りを流す。
「第一香炉、王都封石」
リリアは胸元の香炉石を握る。
地下聖香炉で眠り始めた封じ石の香りを思い出す。
冷たい白石。
亀裂に満ちた白い光。
眠りを求める静かな気配。
「あなたは、願いを押し込まれる場所ではありません」
白い香炉から細い香りが伸びる。
遠く、王都の封じ石が応えた。
地下の奥で、眠りかけた石が淡く震える。
「第二香炉、黒森清水」
今度は、レーヴェン古城の地下香炉を思い浮かべる。
黒森の下。
白い巨大香炉。
清水路。
聖月草の芽。
遠く離れた古城から、朝露と薬草園の香りが届く。
ガレスが持ってきた聖月草の朝露が、白い香炉の中で淡く光った。
ルゥが高く吠える。
額の月の紋が輝き、白銀の光が水路の円に沿って走った。
「第三香炉、願還の座」
リリアは目の前の黒い座を見る。
願いを留める玉座に変えられてしまった場所。
本当は、願いを帰すための中継点。
「あなたは、誰かが座る場所ではありません」
リリアは静かに告げた。
「願いが通る場所です」
その瞬間、三つの香りが繋がった。
王都封石の眠り。
黒森清水の流れ。
願還の座の帰路。
白い線が床に浮かび上がる。
願還の座を中心に、水路が円を描き、その円から三方向へ香りの道が伸びていく。
ひとつは王都大神殿の地下聖香炉へ。
ひとつは遠いレーヴェン古城へ。
ひとつは王都の街の地下へ。
リリアは息を呑んだ。
これが本来の仕組み。
願いを集めて香りを強めるのではない。
願いが滞らないように、水と根と香りで巡らせる。
祈りが、その人の場所へ戻れるように。
願還の座を覆っていた黒い結晶が、びしびしと音を立てる。
マルドの顔が歪んだ。
「やめろ」
彼の声は低く、掠れていた。
「その座は、大神殿の中心だ。王都の祈りを束ねるためのものだ」
「違います」
リリアははっきりと言った。
「ここは、束ねる場所ではありません。返す場所です」
マルドが黒い根を振るう。
その根はまっすぐリリアの白い香炉へ向かった。
ノアが割り込む。
剣圧が根を弾き、水路へ押し戻す。
「香炉には触れさせない」
マルドは憎々しげにノアを睨んだ。
「邪魔をするな、辺境の犬が」
ノアの目が冷える。
「その呼び方は慣れている」
剣が一閃する。
「だが、彼女の香りを奪う者には慣れるつもりはない」
黒い根が二本、三本と襲いかかる。
エルヴィンが横から入り、一本を弾く。
カイルがもう一本を水路へ叩き込む。
「団長ばっかり格好つけさせませんよ!」
「軽口を叩く余裕があるなら、右を見ろ!」
「はいっ!」
カイルが慌てて根を受け流す。
その背後で、セシリアが白露草の布を抱え、飛び散った黒い香粉を包み込んだ。
黒い香粉から声が漏れる。
――選ばれたい。
セシリアの指が震えた。
一瞬、香りが甘く揺れる。
リリアはすぐに気づいた。
「セシリア!」
「分かっていますわ!」
セシリアは叫び、涙目で布を握りしめた。
「選ばれたかったです! 今でも、褒められたら嬉しいです! でも、それで誰かから奪いたくはありません!」
黒い香粉が白露草の中で小さく弾け、淡い光になって水路へ流れる。
リリアは胸が熱くなった。
セシリアは、自分の願いを自分の言葉で持っている。
もう黒蝶に渡していない。
ガレスが水路の流れを確認しながら叫ぶ。
「リリア! 座の下だ! 黒い塊が詰まっている!」
リリアは願還の座の足元を見る。
黒い結晶の奥に、ひときわ濃い塊がある。
マルドの願いだ。
他の誰のものでもない。
大神殿を支配したい。
祝福を自分のものにしたい。
誰にも否定されたくない。
その腐った願いが、願還の座の底を塞いでいる。
だから流れが巡り切らない。
「マルド神官長」
リリアは顔を上げた。
「あなたの願いが、座を詰まらせています」
マルドは笑った。
「私の願い? まだ言うか。私は大神殿のために――」
「いいえ」
リリアは遮った。
「それはもう、大神殿の願いではありません。あなた自身の願いです」
マルドの目が鋭くなる。
リリアは怖かった。
この人は、何度も言葉でリリアを縛ろうとした。
母を傷つけた。
セシリアを利用した。
神殿を腐らせた。
でも、その奥にある願いを見ないふりはできない。
見ることと、許すことは違う。
戻す道を作ることと、罪をなかったことにすることも違う。
「あなたが自分で持たなければ、願いは帰れません」
「黙れ!」
マルドが叫ぶ。
黒い根が彼の背後で膨れ上がる。
「私は私欲で動いたのではない! 民は祝福を求める。貴族は奇跡を求める。王都は強い神殿を求める。私はそれに応えただけだ!」
「応えたのではありません」
リリアは言った。
「求められることに、すがったんです」
空気が止まった。
マルドの顔から表情が消える。
リリアは、彼の香りの一番奥へ触れていた。
支配の奥。
権威の奥。
腐った聖香の奥。
そこにあったのは、小さな恐怖だった。
誰にも求められなくなる恐怖。
「あなたは、大神殿が必要とされなくなるのが怖かった。自分がただの一人の神官になるのが怖かった。だから、人々の願いを留めて、神殿なしではいられないようにした」
マルドの唇が震えた。
「黙れ……」
「その願いを、自分のものだと認めてください」
「黙れ!」
彼は黒い根を自分の胸へ突き立てた。
リリアは目を見開く。
マルドの身体から、さらに濃い黒い聖香が噴き出した。
「認めるものか」
彼の声は、もう人のものとは思えないほど歪んでいた。
「私が願う側であってたまるか。私は与える側だ。導く側だ。祈られる側だ!」
マルドの身体が黒い根に包まれていく。
黒蝶の羽が肩から広がり、彼の背後に巨大な影を作る。
ガレスが舌打ちした。
「自分の願いを根に食わせやがった」
リリアの胸が冷える。
マルドは、自分で持つことを拒んだ。
返されることを拒んだ。
ならば、その願いは持ち主を食う。
祈還根が言っていた通りに。
マルドだったものは、願還の座の前で黒い異形へ変わっていく。
人の形はまだ残っている。
だが、香りはほとんど黒根と同じだ。
「リリア・エルム」
異形の喉から、マルドの声が響く。
「ならば、お前の願いも砕いてやる」
黒い根が一斉に水路へ突き刺さった。
流れが止まる。
三つの香炉を繋いでいた白い線が、揺らいだ。
リリアは白い香炉へ手を伸ばす。
だが、その前に、願還の座から黒い光が放たれた。
頭の中に、声が流れ込む。
――あなたが座れば終わる。
――あなたが犠牲になれば皆が助かる。
――母のように、香りを削ればいい。
――役に立てる。
――今度こそ、誰にも役立たずとは言われない。
胸が、強く痛んだ。
役に立ちたい。
それはリリアの願いの中でも、深いところにあるものだった。
神殿で否定され続けたから。
家で居場所がなかったから。
誰かに必要だと言ってほしかったから。
自分を犠牲にしてでも役に立てるなら。
一瞬、甘い考えが胸をかすめた。
その瞬間。
ルゥがリリアの手に噛みついた。
「いたっ」
強くはない。
でも、はっきり痛い。
リリアははっとした。
ルゥが青い瞳で睨んでいる。
その目は言っていた。
馬鹿なことを考えるな、と。
ノアの声も重なる。
「リリア」
彼は黒い根を押し返しながら、はっきり言った。
「君が消える方法は、選択肢に入れるな」
リリアの胸が震えた。
「……はい」
セシリアも叫んだ。
「お姉さまが犠牲になるなら、私、絶対に怒りますわ!」
カイルも続く。
「俺も怒ります! っていうか団長が怖いくらい怒ります!」
「余計なことを言うな」
ノアはそう言いながら、黒い根を剣圧で水路へ叩き込んだ。
リリアは涙が出そうになった。
こんな時に。
でも、その温かさが、黒い声を遠ざける。
役に立ちたい。
それは本物の願いだ。
でも、消えることで証明する必要はない。
「私は、役に立ちたいです」
リリアは白い香炉を抱き、声に出した。
「でも、私が壊れる方法では役に立ちません」
願還の座が震える。
「私は、私のまま、香りを整えます」
胸元の三つの石が一斉に光った。
王都封石。
黒森清水。
願還の座。
止まりかけていた白い線が、再び輝く。
リリアは水路へ向けて香りを流した。
「流れて」
白露草。
銀葉ミント。
聖月草の朝露。
薬草園の白い灰。
清水。
月光。
そして、皆の願い。
守りたい。
帰りたい。
正しくありたい。
やり直したい。
支えたい。
また一緒に笑いたい。
それぞれが、自分の胸に持った願い。
それは奪われない。
集めて一つにする必要もない。
ただ、香りの道に沿って響き合う。
白い線が三つの香炉を巡り、願還の座の下に詰まった黒い塊へ届いた。
マルドの異形が叫ぶ。
「やめろ!」
黒い塊に、白い亀裂が入る。
その奥から、小さな声が聞こえた。
――必要とされたかった。
それは、驚くほど弱い声だった。
マルドの支配欲の奥に隠れていた、最初の願い。
リリアは息を呑む。
マルドの異形が激しく暴れる。
「聞くな! それは私ではない!」
「いいえ」
リリアは静かに言った。
「それが、あなたの最初の願いです」
黒い塊の亀裂が広がる。
願還の座が白銀に輝く。
マルドは絶叫した。
その声とともに、彼の背後に巨大な黒い羽が広がる。
最後の抵抗。
願還の座に留められたすべての腐った聖香が、黒い嵐となってリリアたちへ向かってきた。
リリアは白い香炉に手を添える。
もう、座らない。
もう、一人で抱えない。
「皆さん」
リリアは声を張った。
「自分の願いを、胸に!」
ノアが剣を構える。
セシリアが白露草を握る。
エルヴィンが祈るように剣を胸元へ引き寄せる。
カイルが歯を食いしばる。
ガレスが薬草袋を開く。
ルゥが月光を放つ。
それぞれの香りが、白い線へ重なった。
三つの香炉を巡る香りが、黒い嵐を迎え撃つ。
願いを奪う香りと、願いを帰す香り。
その二つが、願還の座の上で激しくぶつかった。




