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第46話 奪う香りの終わり

 黒い嵐が、願還の座を飲み込んだ。


 焦げた聖香。

 腐った蜜。

 黒い羽音。

 何十年も留められ、積み上げられ、腐らされた願い。


 それらが一つの濁流となって、リリアたちへ襲いかかる。


 リリアは白い香炉に手を添えたまま、息を吸った。


 怖い。


 でも、もうその怖さを隠さない。


「怖いです」


 声に出す。


 ノアが隣で剣を構えた。


「ああ」


「でも、渡しません」


「分かっている」


 その一言が、リリアの足元を支えた。


 黒い嵐が迫る。


 先頭に混じっているのは、マルドの腐った願いだった。


 ――私を見よ。

 ――私を崇めよ。

 ――私を必要としろ。

 ――私なしで祈るな。

 ――私なしで救われるな。


 それはもう、神官の祈りではなかった。


 誰かを救いたい願いでも、神殿を守りたい願いでもない。


 人の願いを自分へ縛りつけたいという、黒く濁った執着。


 その奥に、あまりにも小さく弱い声が残っている。


 ――必要とされたかった。


 リリアはその声を聞いた。


 聞いたが、抱えなかった。


 かわいそうだと、胸へ入れなかった。


 同情と救済を混ぜてはいけない。


 戻る道を作ることと、代わりに背負うことは違う。


「その願いは、あなたのものです」


 リリアはマルドへ向けて言った。


「私のものではありません。神殿のものでも、王都の人々のものでもありません」


 黒い異形となったマルドが、願還の座の向こうで叫ぶ。


「違う! 私は大神殿だ! 私の願いは、大神殿の願いだ!」


「違います」


 リリアは白い香炉の香りを細く整えた。


「大神殿を守りたい願いと、大神殿を自分のものにしたい願いは違います」


 マルドの黒い羽が大きく震える。


「黙れ!」


 黒い嵐が一気に膨れ上がった。


 ノアが前へ出る。


 剣圧が黒い風を割り、水路の円へ流し込む。


「今だ」


 リリアは頷いた。


「第一香炉へ」


 王都封石の眠りの香りが、白い線を通って願還の座へ届く。


 黒い嵐の一部が、その香りに触れて動きを鈍らせた。


 封じ石は、願いを押し込む場所ではない。

 眠りを守る場所。


 押し込まれた願いが、そこで止まらずに流れへ戻る。


「第二香炉へ」


 黒森清水の香りが、清水路の水を通って走った。


 ガレスが白い灰を水路へ撒く。


「流れろ! 腐ったまま溜まるんじゃねえ!」


 白い灰が水へ溶け、黒い願いを細かくほどいていく。


 ルゥが月光を重ねた。


 小さな身体は震えている。


 それでも、その青い瞳は逸れない。


「ルゥ、細くでいい!」


 リリアが叫ぶと、ルゥは短く吠えた。


 月光は大きく広がらない。


 代わりに、水路の流れに沿って細く、強く伸びた。


 黒い嵐の中に、白銀の道が一本通る。


「第三香炉へ」


 リリアは願還の座を見つめた。


「座るためではなく、通すために」


 母の白い香炉から立ち上る香りが、願還の座の下へ流れ込む。


 すると、黒い結晶に覆われていた座の表面に、古い文字が浮かび上がった。


 ――願いは留めず。

 ――願いは奪わず。

 ――願いは人へ、土地へ、水へ帰すべし。


 その文字を読んだ瞬間、リリアの胸に熱いものが込み上げた。


 母も、これを見たのだろうか。


 この座の本来の姿を知り、マルドの支配に抗ったのだろうか。


 リリアは唇を結んだ。


 母のように倒れるためではない。


 母が守ろうとした流れを、今度こそ皆で繋ぐために。


「巡って」


 リリアは言った。


 白い香りが円を描く。


 王都封石から、黒森清水へ。

 黒森清水から、願還の座へ。

 願還の座から、王都の街へ。

 王都の街から、また土地と水へ。


 巡る。


 留めない。


 奪わない。


 強く焚き上げない。


 ただ、詰まっていたものを流す。


 黒い嵐の中から、無数の光が剥がれ始めた。


 ――母を助けたかった。


 その願いは、病床の匂いをまとって水路へ流れた。


 ――店を守りたかった。


 その願いは、木箱と硬貨と朝市の香りをまとって王都の市場へ戻る。


 ――許されたかった。


 その願いは、冷たい石畳へ落ち、誰かの胸の奥へ沈む。


 叶うかどうかではない。


 願いがその人のものとして戻る。


 それだけで、黒い嵐は形を失っていく。


 セシリアが涙を流しながら、白露草の布を支えていた。


「こんなに……たくさんの願いを、私たちは聖香だと思っていたのですね」


「そうです」


 リリアは答えた。


「だから、返します」


 エルヴィンが黒い根を押し返しながら叫ぶ。


「神殿騎士、前へ! 香炉ではなく、人を守れ!」


 神殿騎士たちが動く。


 昨日まで神殿の命令を守っていた者たちが、今は黒い根から人と流れを守っている。


 カイルが水路へ根を叩き込みながら言った。


「うおお、願いは帰れ! 俺は早く古城に帰って飯食いたい!」


 ガレスが怒鳴る。


「お前の願いは軽いな!」


「でも俺のです!」


 その声に、白い香りが少しだけ明るくなった。


 リリアは思った。


 それでいい。


 大きな祈りだけが願いではない。


 帰ってご飯を食べたい。

 誰かと笑いたい。

 眠りたい。

 明日も生きたい。


 そういう小さな願いも、誰かに奪われていいものではない。


 マルドの異形が、黒い嵐の向こうでよろめいた。


 彼の身体を覆っていた黒い根が、次々と剥がれていく。


「戻るな……!」


 マルドは両腕を広げ、願還の座へすがりつこうとした。


「私が集めた! 私が守った! 私が形にした! 人々は私を通して祈ったのだ!」


 願還の座の白い文字が強く光る。


 黒い根が、マルドの手を拒むように引いた。


 マルドの顔が歪む。


「なぜ拒む……! 私がいなければ、お前たちはただの散らばった願いだった!」


 祈還根の深い声が、空間に響いた。


 ――願いは散らばるものにあらず。


 黒い根の奥から、白い筋が伸びる。


 ――願いは、生きる場所へ根づくもの。


 マルドが怯えたように後ずさる。


「黙れ……私に説くな。根ごときが、私に……!」


 その時、リリアは見た。


 マルドの背後に、小さな少年の幻が立っている。


 粗末な神官見習いの服。

 細い手。

 誰かの背中を必死に追いかける目。


 幼いマルド。


 必要とされたかった最初の願い。


 その少年は、こちらを見ていた。


 怒りではなく、怯えた顔で。


 リリアは胸が痛んだ。


 けれど、手を伸ばさない。


 代わりに、香りの道を作る。


「あなたの願いは、まだ戻れます」


 リリアは言った。


 マルドが叫ぶ。


「いらぬ!」


「受け取るかどうかは、あなたが決めることです」


 白い香りが、幼い幻へ触れる。


 少年は一瞬、泣きそうに顔を歪めた。


 だが、大人のマルドが黒い腕を伸ばし、その幻を掴み潰した。


「必要とされたかったなどと……そんな弱さは私ではない!」


 黒い音が弾けた。


 幼い願いの幻が砕け、黒い羽となって散る。


 リリアは息を呑んだ。


 マルドは自分の最初の願いを、自分で拒んだ。


 その瞬間、彼の身体に残っていた黒い根が一斉に反転した。


 マルドへ絡みつく。


「何を……」


 彼の声が震える。


 祈還根の声が低く響いた。


 ――戻らぬ願いは、持ち主を食う。


 黒い根は、もう王都の人々へ伸びていない。


 願還の座にも留まらない。


 行き場を失ったマルド自身の願いが、マルドだけへ戻っていく。


 彼が受け取らないため、腐ったまま彼を包む。


「やめろ……私は、私は大神殿の――」


「違います」


 リリアは静かに言った。


「あなたは、マルドという一人の人です」


 その言葉に、マルドの目が大きく見開かれた。


 まるで、それこそが最も恐ろしい真実だったかのように。


「違う……私は……私は……」


 黒い羽が彼の口元を覆う。


 白い法衣が灰になって崩れる。


 金の聖香炉紋章が黒く焦げ、床へ落ちた。


 からん、と乾いた音が響く。


 マルドは膝をついた。


 異形の黒い根が、彼の周囲で渦を巻く。


 だが、リリアはそれ以上近づかなかった。


 助けるために手を伸ばすのではない。


 彼が拒んだ願いまで、リリアが背負う必要はない。


 ノアが隣に立つ。


「終わりか」


 リリアは香りを読んだ。


 マルドの支配の香りは、急速に弱まっている。


 願還の座に積もっていた黒い結晶も崩れ始めた。


 だが、完全に消えたわけではない。


 マルド自身の中に、まだ腐った願いが残っている。


 それは罰のように、彼を縛っている。


「彼の支配は、終わります」


 リリアは答えた。


「でも、彼自身が自分の願いを受け取らない限り、苦しみは残ります」


 ノアは静かに頷いた。


「それは彼の領分だ」


「はい」


 リリアは白い香炉へ意識を戻した。


 まだやることがある。


 マルドが崩れても、流れを整えなければまた詰まる。


「皆さん、あと少しです!」


 リリアは声を張った。


「願いを水路へ。黒い羽は白露草の布へ。根は切らずに流れへ押してください!」


 全員が動く。


 ノアが黒い根を水路へ流す。

 エルヴィンが神殿騎士たちをまとめる。

 カイルが飛び散る羽を受け止める。

 セシリアが白露草の香りを保つ。

 ガレスが薬草と灰で水の流れを補う。

 ルゥが月光を細く重ねる。


 リリアは中心で、白い香炉の火を守る。


 座らない。


 燃え尽きない。


 ただ、巡らせる。


 三つの香炉を繋ぐ白い線が、次第に太くなった。


 願還の座の黒い結晶が剥がれ落ちる。


 その下から現れたのは、白い石の座ではなかった。


 透明な水を湛えた、浅い香炉だった。


 座に見えていたものは、上から固まった願いに覆われていただけ。


 本来の願還の座は、人が座る玉座ではない。


 水と香りが巡る、円い香炉だった。


 リリアの目に涙が浮かぶ。


「やっぱり……座る場所じゃなかった」


 母は知っていた。


 だから、清水路を残した。

 だから、香炉石を分けた。

 だから、リリアへ記録を残した。


 誰かが犠牲にならなくてもいいように。


 願還の座の水面が白銀に輝く。


 王都封石が深い眠りへ沈む香りが届く。

 黒森の地下香炉が澄んだ清水を返す。

 祈還根が白い筋を広げ、地の底へ根を下ろし直す。


 そして、願還の座から、王都全体へ香りが広がった。


 強い聖香ではない。


 ほとんど気づかないほど薄い、清水の香り。


 それは人々の願いを奪わない。


 胸の奥へ、生活の場所へ、土と水へ、そっと帰していく。


 黒い嵐は、もう嵐ではなかった。


 白い光の粒となり、水路を通って流れていく。


 リリアは深く息を吐いた。


「巡りました」


 その瞬間、願還の座の水面に母の姿が映った。


 セレナは微笑んでいた。


 声はない。


 けれど、香りが言っていた。


 ――あなたは、あなたのままで整えたのね。


 涙が落ちた。


 願還の座の水面に、ぽたりと落ちる。


 その雫は白銀の輪を作り、すぐに清水の流れへ溶けた。


 マルドは床に倒れていた。


 黒い根に縛られ、動けない。


 彼の香りは、もう大神殿を覆っていない。


 ただ一人分の、腐った願いの匂いがするだけだった。


 エルヴィンが神殿騎士たちへ命じる。


「マルドを拘束しろ。香符、香炉、すべて封じる。素手で触れるな」


 神殿騎士たちが動く。


 今度は誰も、神官長と呼ばなかった。


 マルドはかすかに目を開け、リリアを見た。


「なぜ……私を、救わなかった……」


 リリアは静かに彼を見返した。


「道は作りました」


 声は震えていなかった。


「受け取らなかったのは、あなたです」


 マルドの目が揺れる。


 怒りか、恐怖か、後悔か。


 それはもう、リリアが決めることではない。


 願還の座の水音が、静かに響く。


 三つの香炉は巡り始めた。


 王都の腐った祝福は終わった。


 リリアは白い香炉を抱き、足元のルゥを見た。


 ルゥはふらふらしながらも、誇らしげに胸を張っている。


「ありがとう、ルゥ」


 リリアが言うと、ルゥは小さく鳴いた。


 次の瞬間、リリアの膝から力が抜ける。


 だが、倒れる前にノアの腕が支えた。


「倒れる前に言えと言った」


「……今、言おうとしました」


「遅い」


「すみません」


 ノアの腕はしっかりしていて、温かかった。


 リリアはその温かさに支えられながら、願還の座を見た。


 透明な水が、静かに巡っている。


 願いを奪わず、留めず、帰すために。


 これで終わりではない。


 王都大神殿の罪は、これから明らかにされる。

 マルドが壊したものを、すべて整えるには長い時間がかかる。

 人々の信頼も、すぐには戻らない。


 けれど、最も大きな詰まりは流れた。


 リリアは目を閉じる前に、小さく呟いた。


「帰りましょう」


 ノアが静かに答える。


「ああ。古城へ帰ろう」


 その言葉を聞いて、リリアはようやく安心して意識を手放した。

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