第47話 香りは、誰のものでもない
リリアが次に目を覚ました時、そこは大神殿の白い控え室だった。
窓の外は夕暮れだった。
王都の空は淡い茜色に染まり、大神殿の白い柱にも柔らかな影が落ちている。
不思議だった。
同じ大神殿なのに、昨日までとは匂いがまるで違う。
甘く強すぎる聖香がない。
腐った蜜のような香りも、黒い羽音もない。
あるのは、白露草を水に浸した薄い香りと、人々が慌ただしく動き回る生活の匂い。
石畳を洗う水。
運ばれる古文書の埃。
疲れた神官たちの汗。
そして、どこか遠くから漂ってくる焼きたてのパン。
「……戻ったのですね」
リリアは小さく呟いた。
「王都の匂いが」
すぐ横で、低い声がした。
「ああ」
ノアだった。
椅子に腰かけ、腕を組んだまま目を閉じていたらしい。
リリアが身じろぎした瞬間、彼は目を開けた。
「気分は」
「重いです。でも、香りは乱れていません」
「なら、まだ寝ていろ」
「起きたばかりなのに」
「起きたからだ」
きっぱり言われて、リリアは言葉に詰まった。
足元ではルゥが丸くなって眠っている。
白銀の毛は少しぼさぼさで、額の月の紋も淡い。
あれほど頑張ったのだ。
リリアよりも、ルゥの方が休む必要があるかもしれない。
リリアはそっと手を伸ばし、ルゥの背を撫でた。
ルゥは片目を開け、不満そうに鼻を鳴らす。
寝ていなさい、と言われた気がして、リリアは苦笑した。
「ルゥにも怒られました」
「当然だ」
ノアの声は静かだったが、どこか安堵が滲んでいた。
リリアはゆっくり息を吸う。
願還の座でのことを思い出す。
黒い嵐。
マルドの腐った願い。
三つの香炉を巡った白い香り。
そして、透明な水に戻った願還の座。
「マルド神官長は……」
そう言いかけて、リリアは言葉を止めた。
神官長。
もう、その呼び方は違う気がした。
「マルドは、どうなりましたか」
ノアは表情を変えずに答えた。
「拘束された。神殿騎士の監視下にある」
「黒い根は」
「彼自身に絡んだままだ。ガレスが白露草と灰で封じている。ローデンが、マルドの拘束と神官長権限の停止を正式に宣言した」
リリアは胸に手を当てた。
「そうですか」
終わった。
少なくとも、マルドが大神殿の聖香を使って人々の願いを集め続けることは、もうできない。
それでも、胸は晴れやかだけではなかった。
マルドの最後の目。
なぜ救わなかった、と問う声。
道は作った。
受け取らなかったのは、彼自身だ。
そう答えたことを、リリアは後悔していない。
けれど、痛みは残る。
人の願いが腐るところを、何度も見た。
だからこそ、願いを持つことの怖さも知った。
「リリア」
ノアの声がした。
「また背負おうとしている顔だ」
「え」
「彼の選択まで、君の責任にするな」
リリアは目を瞬いた。
言われる前に見抜かれてしまった。
「……少しだけ、考えていました」
「少しだけ?」
「本当に少しだけです」
足元でルゥが、ふすん、と鼻を鳴らした。
信じていない。
リリアは小さく肩を落とした。
「気をつけます」
ノアの目元が少し和らぐ。
その時、控え室の扉が叩かれた。
入ってきたのはアリアだった。
手には分厚い書類束を抱えている。
王都大神殿の白い空間でも、彼女だけは辺境市の店先にいる時と同じように背筋が伸びていた。
「お目覚めでしたか、リリアさん」
「アリアさん。皆さんは?」
「無事です。ガレス様はマルドの封じを監督中。カイル様は神殿騎士の方々と黒い香符の運搬。セシリア様は白露草の仕分け。エルヴィン様は証言取りまとめ。全員、かなり働いています」
アリアはそこでにこりと笑った。
「もちろん、私もです」
ノアが書類束を見る。
「それは」
「大神殿側から出てきた祈願香の管理記録、奉納額帳簿、第三香炉への移送記録、そしてマルド個人名義の封印命令です。写しを三部作りました」
「三部?」
「一部は大神殿保管。一部はレーヴェン家保管。一部は王都政庁への提出用です」
アリアの声は涼しい。
「証拠は、一箇所に置くと燃えますから」
リリアは思わず目を瞬いた。
「燃える……」
「比喩です」
アリアは微笑む。
「半分は」
ノアが低く言った。
「頼もしいな」
「商売でも訴訟でも、記録は命ですので」
アリアは書類を机に置き、リリアへ向き直った。
「それと、リリアさん。大神殿の上層部から申し出がありました」
嫌な予感がした。
リリアは布団の上で背筋を伸ばす。
「申し出、ですか」
「はい。あなたを大神殿の正式な聖香師長として迎えたい、と」
部屋の空気が、すっと冷えた。
ノアの表情が動かない。
だが、香りがわずかに鋭くなった。
リリアはゆっくり瞬きをした。
「聖香師長……」
「表向きは、腐敗した聖香制度を立て直すため。実際には、あなたを大神殿の内側へ置いておきたいのでしょうね」
アリアはさらりと言った。
「かなり分かりやすいです」
リリアの胸の奥に、昔の自分が少しだけ顔を出した。
大神殿の聖香師。
誰にも役立たずと言われない立場。
人々に頭を下げられ、必要とされる場所。
かつてのリリアなら、夢のような申し出だったかもしれない。
あの日、祝福式で否定された少女なら。
欲しかったと、泣いたかもしれない。
けれど今、その香りは甘くない。
むしろ少し、息苦しい。
神殿の白い壁の中に、またリリアの香りを閉じ込めようとする気配がある。
「お断りします」
リリアは言った。
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
アリアは微笑んだ。
「そうおっしゃると思っていました」
ノアは何も言わない。
ただ、静かにリリアを見ている。
リリアは続けた。
「私は大神殿の聖香師長にはなりません。王都の香りを整える仕事は必要だと思います。でも、それを一人の人間や一つの神殿が独占してはいけません」
マルドがしたこと。
人々の願いを集め、留め、支配したこと。
それと同じ構造を、リリアの名で作ってはいけない。
「香りは、誰かのものではありません」
リリアは静かに言った。
「神殿のものでも、私のものでもない。土地と水と、そこに生きる人たちのものです」
アリアは頷いた。
「では、そのまま書面にしましょう」
「書面に?」
「はい。大神殿からの任命要請に対する回答書です。口頭では、後で都合よく解釈されますので」
リリアはぽかんとした。
ノアがわずかに口元を緩める。
「紙で殴る準備か」
「今回は紙で防ぎます」
アリアは平然と答えた。
そのやり取りに、リリアは思わず笑ってしまった。
大神殿から聖香師長にと言われた直後に、紙で防ぐ。
こんなふうに笑える日が来るとは思わなかった。
しばらくして、ローデンとエルヴィンが控え室を訪れた。
ローデンは一晩で十歳ほど老けたように見えた。
顔色は悪く、目の下に深い隈がある。
けれど、背筋だけは伸びていた。
「リリア殿」
彼は深く頭を下げた。
「大神殿を代表して、謝罪します」
リリアはすぐには答えなかった。
その謝罪の香りを読む。
恐怖。
後悔。
責任を負わなければならない重さ。
焦げてはいない。
「謝罪は受け取ります」
リリアは言った。
ローデンは頭を下げたまま息を詰める。
「ですが、私一人に謝って終わりにしないでください」
「……はい」
「薬草園で異変を見ていた人、聖香を吸って苦しんだ人、祈りを利用された人、大神殿を信じていた人。謝る相手は、たくさんいます」
ローデンの肩が震えた。
「分かっています」
「それから、聖香を再開するなら、まず王都の水路と薬草園を調べてください。香粉を足すのではなく、流れを戻すことから始めないと、また腐ります」
ローデンは顔を上げた。
その目に、驚きが浮かんでいる。
「協力していただけるのですか」
「助言はします」
リリアははっきり言った。
「でも、大神殿の中に戻るつもりはありません」
ローデンは目を伏せた。
「……当然です」
エルヴィンが一歩前に出た。
「私からも、話がある」
リリアは彼を見る。
エルヴィンの香りには、まだ痛みがある。
後悔と、失ったものへの未練。
しかし、以前のようにリリアへ押しつける甘さはない。
「私は、神官騎士としての処分を受ける」
エルヴィンは言った。
「マルドの命令を疑わず、君を傷つけ、セシリアを利用する構造に加担した。辺境で見たこと、王都で見たことはすべて証言する」
リリアは黙って聞いた。
「それと」
エルヴィンは一度、言葉を切った。
「君に婚約の話を戻すつもりは、もうない」
リリアは静かに瞬きをした。
エルヴィンの手がかすかに震える。
「以前の私は、謝れば何かが戻るのではないかと、心のどこかで思っていた。だが、戻らないものを戻そうとするのも、願いを腐らせることなのだと分かった」
彼は深く頭を下げた。
「君の道を邪魔しない。これが、今の私にできる償いの一つだと思う」
リリアは胸の奥に、淡い痛みを感じた。
かつての婚約者。
信じてほしかった人。
守ってほしかった人。
その人が、今ようやく手を離そうとしている。
「分かりました」
リリアは言った。
「証言をお願いします。あなたが見たことを、なかったことにしないでください」
「ああ」
「それから」
リリアは少しだけ考え、続けた。
「あなた自身の願いも、神殿に預けないでください」
エルヴィンの目が揺れた。
やがて、彼は小さく頷いた。
「努力する」
それは完璧な答えではなかった。
でも、今はそれでいいのだと思った。
午後になると、大神殿の広場で正式な告知が行われた。
マルドの神官長権限停止。
黒香炉と香符の使用疑惑。
地下聖香炉の封印記録開示。
王都の石が祝福石ではなく封じ石である可能性。
聖香の一時停止。
すべてが一度に告げられたわけではない。
混乱を抑えるため、ローデンは言葉を選びながら説明した。
だが、重要な点は隠さなかった。
広場は騒然となった。
怒る者。
泣く者。
呆然とする者。
神殿を罵る者。
それでも祈りたいと膝をつく者。
その香りは、ひどく乱れていた。
けれど、黒くはなかった。
甘い聖香に吸われず、それぞれの胸から出ている香りだった。
リリアは回廊の椅子に座り、その様子を見ていた。
もう、全部を整えようとは思わなかった。
怒りも、悲しみも、必要な香りだ。
無理に消してはいけない。
ただ、奪われないように。
流れを止めないように。
そこだけを見守る。
セシリアが隣に立った。
彼女もまた、広場を見つめている。
「お姉さま」
「はい」
「私、エルム家へ戻りますわ」
リリアはセシリアを見た。
セシリアは白露草の包みを胸に抱えている。
「父と、話さなければいけません。お母さまのことも、今までのことも。逃げたくありません」
「そうですか」
「それから……大神殿の記録整理にも協力します。私が知っていることを、全部話しますわ」
セシリアは唇を震わせた。
「許してもらうためではありません。私が見なかったことを、見るためです」
リリアは静かに頷いた。
「良いと思います」
セシリアの目に涙が浮かぶ。
「お姉さまは、古城へ帰るのですわね」
「はい」
その答えだけは、迷わなかった。
「私は、レーヴェンへ帰ります」
帰る。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に温かい香りが広がる。
薬草園。
古城の食堂。
聖月草の芽。
ガレスの薬室。
アリアの商談。
カイルの賑やかな声。
ルゥの白い毛。
そして、ノア。
リリアの帰る場所。
セシリアは少し寂しそうに、でも穏やかに笑った。
「……そう言える場所があって、よかったですわ」
リリアはその言葉の奥に、羨ましさが少し混じっていることに気づいた。
でも、それは焦げていない。
セシリア自身の胸にある羨ましさだった。
「あなたも、これから作れます」
リリアは言った。
セシリアの目が揺れる。
「私にも?」
「はい。奪うのではなく、作るなら」
セシリアは涙をこぼしながら頷いた。
「はい」
夕暮れが深くなる頃、リリアは大神殿の階段の上に立った。
正確には、ノアに支えられながら立っていた。
ルゥは足元で偉そうに胸を張っている。
広場にはまだ人々がいる。
聖香は焚かれていない。
けれど、誰も完全には散っていない。
神殿の香りではなく、自分の願いを胸に抱えながら、これからどう祈ればいいのかを考えている。
リリアはその光景を見た。
王都大神殿は、もう以前の大神殿ではない。
腐った祝福は終わった。
だが、本当の意味で香りを整えるのは、これからだ。
ノアが静かに言う。
「帰れるか」
「はい」
「本当に?」
「馬車なら」
ノアは一瞬黙り、それからわずかに笑った。
「それならいい」
リリアも小さく笑う。
その時、広場の端から若い神官が一人駆けてきた。
祝福式の日、リリアの記録を笑った神官だった。
彼は息を切らしながら、深く頭を下げる。
「リリアさん!」
「はい」
「薬草園の記録を……もう一度、調べます。あなたが残した紙片も、全部集めます。だから、その……いつか、教えていただけますか。香りを強めるのではなく、整える方法を」
リリアは彼を見た。
かつて、自分の声を聞かなかった人。
でも今、聞こうとしている人。
「いつか」
リリアは答えた。
「王都の水路と薬草園の記録が揃ったら、手紙をください。できる範囲で返事を書きます」
若い神官の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし」
リリアは少しだけ声を強めた。
「私の返事を、聖なる答えとして扱わないでください。現場を見て、自分たちで香りを確かめてください」
若い神官は一瞬驚き、それから深く頷いた。
「はい」
その香りに、ようやく学ぶ気配があった。
リリアは胸元の香炉石に触れる。
香りは、誰のものでもない。
だから、誰か一人が答えになってはいけない。
夜の手前、レーヴェンへ戻る馬車が大神殿前に用意された。
アリアは書類を抱え、ガレスは薬草袋を詰め込み、カイルは妙に張り切って荷を運んでいる。
セシリアとエルヴィンは、王都側に残る。
ローデンも、逃げずに後始末を始める。
それぞれの場所へ戻る。
願いと同じように。
リリアは馬車に乗る前、大神殿を振り返った。
白い柱。
金の紋章。
広い階段。
かつて、自分を追い出した場所。
今は、少しだけ違って見える。
恐ろしい場所ではある。
傷の場所でもある。
けれど、もうリリアを閉じ込める場所ではない。
「さようなら」
リリアは小さく言った。
大神殿へではなく、そこで怯えていた昔の自分へ。
そして、馬車へ乗り込む。
ノアが向かいに座り、ルゥが当然のようにリリアの膝へ上がった。
重い。
でも、温かい。
馬車が動き出す。
王都の街を抜ける風には、もう甘すぎる聖香はなかった。
代わりに、夜市のスープと、雨を待つ土と、人々の戻り始めた願いの香りがした。
リリアは目を閉じる。
帰るのだ。
追放されたのではなく。
連れ戻されるのでもなく。
自分で選んだ場所へ。
レーヴェン古城へ。
そこには、まだ整えるべき薬草園があり、眠り始めた地下香炉があり、待ってくれている人たちがいる。
リリアは膝の上のルゥを撫でながら、小さく息を吐いた。
「帰りましょう」
ノアが静かに答える。
「ああ。君の場所へ」




