第48話 帰る場所の香り
レーヴェン古城が見えた瞬間、リリアは胸の奥がほどけるのを感じた。
灰色の石壁。
尖った屋根。
黒森を背負うように立つ、古く大きな城。
初めて来た時は、呪われた城だと思った。
眠れない騎士団長がいて、枯れかけた薬草園があって、井戸の底には黒蝶が潜んでいた。
それなのに今、その城を見た途端、リリアの鼻先に懐かしい香りが届いた。
白露草。
薬草パン。
薪の煙。
少し湿った石畳。
黒森の冷たい風。
そして、待っている人たちの香り。
「……帰ってきました」
リリアが小さく呟くと、膝の上のルゥが得意げに鳴いた。
まるで、自分の縄張りへ戻ったのだと言っているようだった。
向かいに座るノアが、窓の外を見つめたまま静かに言う。
「ああ」
その声にも、ほんの少しだけ安堵が混じっている。
王都からの帰路、ノアはほとんど眠らなかった。
リリアが目を覚ますたび、彼は同じ姿勢で外を見ていた。
疲れていないはずがないのに、背筋はまっすぐで、剣はすぐ手の届く場所にある。
守られている。
そのことが嬉しくて、少し申し訳なくて、でももう「自分なんかのために」とは思わなかった。
リリアは守られていい。
その代わり、自分も自分の役目を果たす。
そう思えるようになっていた。
馬車が古城の門をくぐると、広場には騎士たちと子どもたちが集まっていた。
カイルが先に馬車を降り、大げさに両手を広げる。
「ただいま戻りましたー! 王都、だいぶ香りが大変でしたー!」
「報告が雑すぎる!」
誰かが叫び、広場に笑いが起きる。
その笑い声に、リリアの胸が温かくなった。
続いてガレスが薬草袋を抱えて降りる。
「騒ぐな。患者がいる」
「患者って誰ですか!」
カイルが振り返る。
ガレスは無言でリリアを指した。
リリアは馬車の中で肩を小さくした。
「私は、もう大丈夫です」
その瞬間、広場のあちこちから声が飛んだ。
「大丈夫な人は倒れません!」
「リリアさん、休んでください!」
「薬草茶あります!」
「パンもあります!」
ミナが子どもたちの先頭で、両手いっぱいに白露草の小さな花束を抱えている。
「リリアお姉ちゃん!」
その声を聞いた瞬間、リリアの目元が熱くなった。
馬車から降りようとすると、ノアが手を差し出す。
リリアはその手を取った。
以前なら遠慮したかもしれない。
けれど今は、素直に支えを借りる。
足が地面に触れた瞬間、古城の香りが全身を包んだ。
帰ってきた。
本当に。
「おかえりなさい!」
ミナが駆け寄ってくる。
抱きつきたいけれど、ルゥとノアとガレスの視線を受けて、途中でぴたりと止まった。
「……抱きついていい?」
ミナが真剣に聞く。
リリアは笑った。
「少しだけなら」
ミナはそっと、壊れ物に触れるようにリリアの腰へ抱きついた。
リリアはその小さな背を撫でる。
ミナからは、もう黒蝶の匂いはしない。
少し不安で、少し寂しくて、でもちゃんと温かい子どもの香りがした。
「王都の黒いの、やっつけた?」
「全部ではありません。でも、大きな詰まりは流しました」
「つまってたの?」
「はい。願いが帰れなくなっていたんです」
ミナは難しそうに眉を寄せた。
それから、こくりと頷く。
「じゃあ、道つくったんだ」
リリアは目を見開いた。
「……はい。そうです」
子どもの言葉は、時々とても真っ直ぐだ。
道を作った。
そう、それでいいのだ。
広場の騎士たちも、次々と頭を下げる。
「リリアさん、おかえりなさい」
「薬草園、守ってましたよ!」
「聖月草も無事です!」
その言葉に、リリアの顔がぱっと明るくなった。
「聖月草は?」
ガレスがすぐに眉をひそめる。
「見に行くのは明日だ」
「少しだけ」
「駄目だ」
「遠くから」
「駄目だ」
「香りだけでも」
「ここから嗅げ」
容赦がない。
リリアは思わずノアを見る。
ノアは静かに頷いた。
「今日は休む」
「……はい」
全員がほっとしたように息を吐く。
そんなに信用がないのだろうか。
たしかに倒れた回数を考えると、仕方ない気もする。
アリアが馬車から降り、周囲を見回した。
「では、リリアさんを休ませるためにも、歓迎は食堂で短めにしましょう。長時間の挨拶、質問責め、王都の詳細報告は禁止です」
騎士たちが一斉に姿勢を正す。
「はい!」
「ただし、薬草パンと温かいスープは出します」
歓声が上がる。
カイルが小声で言った。
「若女将、完全に古城の指揮系統に入ってません?」
「必要な指示を出しているだけです」
「強い」
リリアは笑った。
古城の食堂には、温かい湯気が満ちていた。
大鍋のスープ。
焼きたての薬草パン。
薄めの香草茶。
王都大神殿の華やかな晩餐とはまるで違う。
けれど、リリアにはこちらの方がずっと贅沢だった。
騎士たちはいつもより少し静かにしているつもりらしい。
ただ、もともとの声が大きいので、結果的には十分賑やかだった。
「リリアさん、本当に大丈夫ですか」
「顔色は悪くないか?」
「パン、柔らかいところ取ってあります!」
「誰だ、黒焦げの端を入れたの!」
リリアの前には、気づけば皿が三枚も並んでいた。
スープ。
パン。
蜂蜜を少し落とした白露草茶。
ノアがその横に座り、当たり前のように皿の量を減らしていく。
「食べ切れない分は下げる」
「いえ、食べます」
「半分でいい」
「でも」
「半分」
リリアはパンを見つめた。
確かに、今の身体では全部は無理だろう。
「半分にします」
隣でルゥが満足そうに鼻を鳴らした。
ルゥには特別に、肉を少しだけ入れた温かいスープが用意されている。
本人、いや本獣はとても当然という顔で食べていた。
食堂の隅で、ミナたち孤児院の子どもたちが小さな声で歌を口ずさんでいる。
黒蝶に怯えて眠れなかった子どもたち。
その子たちが、今は薬草パンを頬張りながら笑っている。
リリアはその光景を見て、胸の奥がいっぱいになった。
「王都より、こちらの方が香りが整っています」
ぽつりと言うと、ガレスが鼻を鳴らした。
「当たり前だ。ここは毎日手を入れてる」
「はい」
リリアは微笑んだ。
「毎日、少しずつ整えるのが大事なんですね」
マルドは強い聖香で一度に人々を支配しようとした。
けれど、本当に香りを整えるのは、こういう日々なのだ。
朝に薬草の様子を見ること。
井戸水を確かめること。
パンに入れる香草を少し変えること。
眠れない人に合うお茶を淹れること。
怖がる子どもの夢の香りを聞くこと。
小さなことの積み重ね。
それが、土地と人を支える香りになる。
食事の後、リリアは薬室へ連れて行かれた。
連れて行かれた、という表現が正しい。
ガレス、ノア、ルゥの三者による無言の圧が強かった。
薬室には、リリア用に寝台が整えられていた。
白露草の薄い香り。
清潔な布。
枕元には小さな花瓶。
花瓶には、聖月草の葉が一枚だけ挿してあった。
「これ……」
リリアは思わず近づく。
ガレスが腕を組む。
「株から自然に落ちた葉だ。無理に摘んではいない」
「分かります。痛んでいません」
リリアはそっと香りを嗅いだ。
聖月草の香りは、以前より少しだけ強くなっていた。
黒森の下から届く清水。
王都封石の眠り。
願還の座の巡り。
三つの香炉が繋がったことで、古城の聖月草にも変化が出ている。
「……この子も、応えてくれたんですね」
リリアは葉に触れないまま、静かに言った。
ガレスの表情が少し柔らかくなる。
「ああ。王都へ香りを送っていた。無茶をしたのは、お前さんだけじゃない」
「聖月草も休ませないと」
「だからお前も休め」
「はい」
リリアは素直に頷いた。
さすがに今回は、自分でも分かっている。
無理をすれば、巡り始めた香りを乱してしまう。
休むことも、整えることの一部なのだ。
ガレスが薬草茶を置いて出ていく。
ルゥは寝台の足元に丸くなり、絶対に離れない構えを見せた。
ノアだけが部屋に残る。
窓の外には、黒森の夜が広がっていた。
王都の夜とは違う。
静かで、少し冷たくて、深い匂い。
「ノア様」
リリアは寝台に腰掛けたまま、彼を見上げた。
「ありがとうございました」
「何に対してだ」
「全部に」
リリアは少し考え、言葉を選ぶ。
「王都へ一緒に来てくださったこと。私を止めてくださったこと。信じてくださったこと。それから……帰る場所でいてくださったこと」
最後の言葉は、少し恥ずかしかった。
けれど、言いたかった。
ノアはしばらく黙っていた。
窓から入る夜風が、彼の髪をわずかに揺らす。
やがて、彼は静かに言った。
「私は、君を閉じ込めない」
リリアは目を瞬く。
「はい」
「だが、帰ってきたいと思う場所でありたいとは思っている」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
薬草茶よりも、白露草よりも、ずっと深いところで。
「……もう、なっています」
リリアは小さく答えた。
ノアの目がわずかに揺れる。
それは一瞬だった。
けれど、リリアには分かった。
彼の香りも、少しだけ温かくなった。
「そうか」
「はい」
それだけの会話。
でも、リリアには十分すぎた。
ノアは寝台のそばに置かれた外套を手に取る。
「今日は眠れ」
「ノア様も」
「ああ」
リリアは少し迷い、それから言った。
「必要でしたら、眠るためのお茶を淹れます」
ノアがこちらを見る。
リリアは慌てて付け足した。
「今日は無理ですが、明日以降に」
ノアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「では、明日以降に頼む」
「はい」
その約束が嬉しかった。
明日以降。
未来の話。
ここで続いていく日々の話。
ノアが部屋を出ると、リリアは寝台に横になった。
足元でルゥが丸くなっている。
聖月草の葉が、枕元で淡く香っている。
遠く食堂からは、騎士たちの控えめではない笑い声がまだ聞こえていた。
リリアは目を閉じる。
王都大神殿の白い広間ではなく。
呪われた古城だった場所で。
自分を必要としてくれる人たちの香りに包まれて。
リリアは深く息を吸った。
ここが、帰る場所。
そして、これからも整えていきたい場所。
眠りに落ちる直前、胸元の香炉石が淡く温かくなった。
母の声が聞こえた気がした。
――おかえりなさい、リリア。
リリアは小さく微笑んだ。
「ただいま、お母さま」
その夜、リリアは夢を見なかった。
黒蝶も、焦げた聖香も、誰かの責める声もない。
ただ、白露草の香りと、古城の静かな夜に包まれて、深く眠った。




