第49話 ここにいる理由
翌朝、リリアは白露草の香りで目を覚ました。
窓の外は薄明るい。
黒森の向こうから差し込む朝の光が、薬室の床を淡く照らしている。
王都大神殿の白い壁ではない。
焦げた聖香の匂いもしない。
黒蝶の羽音も聞こえない。
あるのは、湿った石の匂いと、薬草棚の青い香り。
それから、足元で丸くなっているルゥの寝息。
リリアはしばらく動かなかった。
ただ、呼吸をする。
吸って、吐く。
それだけで、胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていく。
「……朝」
小さく呟くと、ルゥの耳がぴくりと動いた。
目は閉じたままなのに、起きているらしい。
「おはよう、ルゥ」
返事の代わりに、尻尾が一度だけ揺れた。
まだ眠いのだろう。
昨日まであれほど張り切っていた守護獣も、今朝はすっかり子狼の顔をしている。
リリアはそっと笑い、起き上がろうとした。
その瞬間、扉の外から低い声がした。
「起きたのか」
ノアだった。
リリアはびくりと肩を揺らす。
「ノア様?」
「入っていいか」
「あ、はい」
扉が開き、ノアが盆を持って入ってくる。
盆の上には湯気を立てる薬草茶と、小さな薬草パンが二つ。
焼きたてではないが、温め直してあるのだろう。
ほんのり香ばしい。
「朝食だ。ガレスが、まずこれだけにしろと」
「ありがとうございます」
リリアは盆を受け取ろうとしたが、ノアはそのまま寝台脇の台に置いた。
「起き上がれるか」
「はい。今日は大丈夫です」
言いながら身体を起こす。
少し重い。
だが、昨日のように力が抜ける感じはない。
香りも乱れていない。
それを確かめてから、リリアは頷いた。
「本当に大丈夫です」
ノアはしばらくリリアを見た。
疑っている。
完全に疑っている。
「本当です」
「ならいい」
そう言いながらも、彼は椅子に座った。
しばらく見張るつもりらしい。
ルゥも片目を開け、じっとリリアを見ている。
見張りが二人。
リリアは苦笑した。
「信用がありませんね」
「実績がある」
「倒れた実績ですか」
「ああ」
反論できない。
リリアは薬草茶を両手で包み、そっと口をつけた。
白露草は控えめ。
銀葉ミントも薄い。
身体を起こすために、ほんの少しだけ月桂花が入っている。
丁寧に整えられた香りだった。
「これ、ノア様が?」
「ガレスが配合した。淹れたのは私だ」
「おいしいです」
そう言うと、ノアの視線がわずかに動いた。
「そうか」
短い返事。
けれど香りが少しだけ柔らかくなる。
リリアは薬草パンを半分に割った。
中には刻んだ香草と、ほんの少しの蜂蜜が入っている。
古城の朝の味。
王都から戻ってきたのだと、改めて実感する。
「今日は、薬草園を見てもいいですか」
リリアが尋ねると、ノアはすぐには答えなかった。
そして言った。
「歩けるなら、少しだけ」
「少しだけ」
「ガレス同伴」
「はい」
「ルゥも同伴」
足元でルゥが当然という顔をした。
「ノア様は?」
リリアが聞くと、ノアは一瞬黙った。
「行く」
その答えが、少し嬉しかった。
朝食を終える頃、ガレスが薬室に入ってきた。
手には薬草帳と、昨日王都から持ち帰った記録の写しがある。
「顔色は悪くないな」
「はい」
「香りは」
「少し疲れはありますが、濁ってはいません」
「なら薬草園まで許可する。走るな、しゃがみ込むな、根を掘るな、聖月草に触るな」
「……はい」
先回りされすぎている。
ガレスは鼻を鳴らした。
「お前さんの考えそうなことは大体分かる」
「そんなに分かりやすいですか」
「香りで全部顔に出とる」
リリアは頬を押さえた。
ノアが目を逸らす。
少し笑った気がした。
薬草園へ向かう廊下は、朝の光で明るかった。
騎士たちが通りがかるたびに、リリアへ声をかける。
「おはようございます、リリアさん!」
「今日は倒れないでくださいよ!」
「薬草園、昨日より元気ですよ!」
「聖月草、勝手に見に行かないよう見張ってました!」
ありがたい。
ありがたいが、少し恥ずかしい。
リリアは一人一人に頭を下げながら歩いた。
かつて神殿では、廊下を歩いていても誰もリリアを見なかった。
見ても、邪魔だという香りしかなかった。
ここでは違う。
皆がリリアを心配し、待ち、声をかけてくれる。
その温かさに、胸の奥が何度も揺れた。
薬草園の扉を開けると、朝露の香りが一気に広がった。
「……わあ」
思わず声が漏れる。
枯れかけていた薬草園は、まだ完全に回復したわけではない。
土には黒く痩せた部分も残っている。
井戸の周囲には白い灰を混ぜた保護線が引かれている。
古い根の跡もある。
けれど、そこには確かに生きる香りがあった。
白露草の小さな葉。
銀葉ミントの若芽。
月桂花の蕾。
そして中央の保護区に、聖月草の芽。
以前より、少しだけ背が伸びている。
葉先には白銀の朝露が光っていた。
リリアは思わず近づきかけ、ガレスに襟元を掴まれた。
「触るなと言った」
「見るだけです」
「距離が近い」
「はい……」
ノアが横で低く言う。
「ここからでも香りは分かるだろう」
「分かります」
リリアは少し離れた場所に立ち、聖月草の香りを読んだ。
疲れている。
王都へ香りを届けた影響だ。
だが、弱ってはいない。
むしろ根の奥に、新しい水の道が繋がっている。
王都封石。
願還の座。
黒森清水。
三つの香炉が巡り始めたことで、聖月草は以前より深く土地と結びついていた。
「この子、根を張り直しています」
リリアは言った。
「黒森だけではなく、王都の水路とも、細く繋がっているみたいです」
ガレスが唸る。
「面倒なことになったな」
「悪い意味ではないと思います。ただ、古城だけで完結しなくなりました」
「つまり、王都の馬鹿どもがまた何かやらかせば、こっちにも響く」
「はい」
ガレスは深いため息をついた。
「やっぱり面倒だ」
ノアは静かに言う。
「だが、繋がったからこそ王都の異変にも気づける」
「そうです」
リリアは頷いた。
「これからは、王都の薬草園と水路も少しずつ整えないといけません。でも、私が全部やるのではなく、王都の人たちが自分たちで」
「手紙のやり取りが増えるな」
ノアが言う。
ガレスが眉をしかめた。
「若女将が喜びそうだ」
その予想は、すぐに当たった。
薬草園の入口で待っていたアリアが、にこやかな顔で手帳を開いていた。
「王都との白露草・清水管理の通信講座、需要がありますね」
「通信講座?」
リリアが目を瞬く。
「はい。大神殿へ戻らず、こちらから指導書を送る形です。もちろん、香草茶や白露草布の正式な取引も含めて」
カイルが後ろから顔を出す。
「やっぱり商売になってる!」
「必要なものを必要な場所へ届けるのは商売の基本です」
アリアはさらりと言った。
「腐った聖香の後に、本当に整える香りが求められるのは自然な流れでしょう」
リリアは少し考えた。
以前なら、自分の香りが商品になることに戸惑ったかもしれない。
けれど今は、少し違う。
香りを独占しないために、正しい扱いを広める。
それなら意味がある。
「ただし、強すぎる香りや、願いを集めるような売り方はしないでください」
「もちろんです」
アリアはすぐに頷いた。
「“願いを叶える香り”ではなく、“日々を整える香り”として売ります」
その言葉に、リリアは笑った。
「それなら、手伝います」
「決まりですね」
アリアの筆がさらさらと動く。
カイルが小声で言った。
「今、契約成立した音がしました」
「気のせいではないな」
ノアも静かに返す。
薬草園に笑いが広がった。
その笑い声は、聖月草の朝露を揺らし、土の香りを少しだけ明るくした。
昼前、リリアは孤児院にも顔を出した。
もちろん、ノアとルゥとガレス同伴で。
もはや護衛というより、休ませるための監視である。
孤児院では、ミナたちが白露草の栞を作っていた。
「これね、王都の子にも送るの」
ミナが得意げに見せる。
「怖い夢を見た時に、朝の匂いを思い出せるように」
小さな栞には、乾かした白露草の葉が一枚挟まれている。
不格好だが、優しい香りがした。
「素敵ですね」
リリアが言うと、ミナは嬉しそうに笑った。
「リリアお姉ちゃんが教えてくれたから」
「私は少し手伝っただけです」
「でも、道を作ったんでしょ?」
ミナは真剣な顔で言う。
「だったら、私も小さい道を作る」
リリアは胸がいっぱいになった。
王都の願いを帰した大きな道。
清水路を流した道。
そして、子どもが誰かの悪夢を少し軽くするために作る、小さな道。
どちらも大切だ。
「はい」
リリアはミナの頭を撫でた。
「とても良い香りの道です」
午後になると、王都から早馬が届いた。
リリアは一瞬身構えたが、手紙の封は大神殿ではなくエルム家のものだった。
父からだった。
ノアが確認し、危険な香りがないことを確かめてからリリアへ渡す。
手紙には、震える文字でこう書かれていた。
セシリアと話したこと。
セレナの記録を改めて読み直していること。
エルム家として、大神殿の調査に協力すること。
そして、リリアに無理に帰ってこいとは言わないこと。
最後に、短い一文があった。
――お前が選んだ場所で、どうか健やかに。
リリアはその文字をしばらく見つめた。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥で古い痛みが少しだけ形を変えた。
完全に消えたわけではない。
でも、黒くはない。
これはリリアの中にある、父との時間の香りだ。
「返事を書きますか」
ノアが尋ねる。
リリアは頷いた。
「はい。でも、急がずに書きます」
「それでいい」
急がなくていい。
許すのも、向き合うのも、戻すのも。
香りは一度に整えなくていい。
夕暮れ、リリアは古城の中庭に出た。
今日一日、少しずつ歩いたおかげで、身体の重さはだいぶ抜けている。
もちろん、ノアは隣にいる。
ルゥもいる。
逃げられない。
中庭には、小さな白い花がいくつか咲いていた。
薬草園からこぼれた種が根づいたのだろう。
リリアはしゃがみ込もうとして、ノアに止められた。
「しゃがみ込むなと言われていただろう」
「少し見るだけです」
「立ったまま見ろ」
「はい」
リリアは立ったまま花を見た。
白い花は夕暮れの風に揺れている。
とても小さい。
けれど、ちゃんと香っている。
「ノア様」
「何だ」
「私は、ここにいてもいいですか」
言ってから、少し驚いた。
もう分かっているはずなのに。
それでも、聞きたかった。
ノアはすぐには答えなかった。
夕暮れの風が、二人の間を通る。
やがて彼は静かに言った。
「いてほしい」
リリアの胸が、強く震えた。
以前にも、似た言葉をもらった。
けれど今は、意味が違う。
守るための客人としてではなく。
呪いを解くための協力者としてだけでもなく。
リリアという一人の人に、ここにいてほしいと言っている香りだった。
リリアはゆっくり息を吸った。
「私も、ここにいたいです」
言葉にした瞬間、胸の奥で香炉石が温かくなった。
レーヴェン古城の香りが、リリアの周りにふわりと広がる。
帰る場所。
働く場所。
笑える場所。
怖いと言える場所。
そして、これからも選び続けたい場所。
ノアはリリアを見ていた。
その瞳は静かで、けれどいつもより少しだけ熱を帯びているように見えた。
「なら、正式に決めよう」
「正式に?」
「レーヴェン古城の香律師として」
リリアは目を瞬いた。
「香律師……」
「薬草園管理補佐でも、呪香調査協力者でも足りないだろう」
ノアは少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「君の役目を、君が望む形で置きたい。神殿のように縛るためではなく、君の仕事を守るために」
リリアは胸が熱くなった。
仕事を守るため。
人を安く買い叩くためではなく。
囲い込むためでもなく。
価値を認め、守るための名前。
「……はい」
リリアは頷いた。
「私は、レーヴェン古城の香律師として、ここにいたいです」
ルゥが高く鳴いた。
まるで承認するかのように。
中庭の白い花が、夕風に揺れる。
その香りに混じって、遠く薬草園の聖月草が淡く応えた。
ノアは静かに頷いた。
「では、明日、皆の前で発表する」
「皆の前で……?」
「正式にするなら必要だ」
急に緊張してきた。
リリアの香りが揺れたのか、ノアがわずかに口元を緩める。
「怖いか」
「少し」
「なら、横にいる」
その言葉に、リリアは笑った。
「はい」
夕暮れの古城に、食堂から夕飯の匂いが流れてくる。
薬草パン。
温かいスープ。
誰かが焦がしかけた香草焼き。
カイルの慌てた声が遠くから聞こえた。
ガレスの怒鳴り声も。
アリアの涼しい指示も。
ミナたちの笑い声も。
リリアはその全部を吸い込んだ。
ここにいる理由は、一つではない。
必要とされたから。
役に立てるから。
守りたいものがあるから。
帰りたいと思えるから。
そして、自分がここにいたいから。
それでいい。
誰かに選ばれるためではなく、自分で選ぶ。
リリアはノアの隣で、夕暮れの古城を見上げた。
明日、皆の前で正式に告げる。
追放された香り係ではなく。
神殿に閉じ込められる聖香師でもなく。
レーヴェン古城の香律師として。
リリア・エルムは、ここにいる。




