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第50話 レーヴェンの香律師

 レーヴェン古城の朝は、少し騒がしかった。


 いつもの騎士たちの訓練の掛け声。

 厨房から響く鍋の音。

 孤児院の子どもたちの笑い声。

 黒森を渡る風。


 そして今日は、そのすべてに、少し浮き立つような香りが混じっていた。


 期待。


 緊張。


 祝う気持ち。


 リリアは薬室の鏡の前で、じっと自分の姿を見つめていた。


 王都大神殿にいた頃の白い下働き服ではない。

 セシリアのような華やかな聖香師見習いの衣装でもない。


 淡い青灰色のワンピースに、白露草の刺繍が入った薄い外套。


 アリアが手配してくれたものだ。


「動きやすく、品があり、古城の雰囲気にも合い、かつ大神殿っぽくないもの」


 そう言って、彼女は一晩で仕立て直しまで済ませてしまった。


 商会の若女将というのは、時々魔法使いよりすごいのではないかとリリアは思う。


 胸元には、母の香炉石がある。


 三つの石片は、願還の座を巡らせた後、完全に一つへ戻ったわけではなかった。


 けれど、以前のように欠けた痛々しい石でもない。


 小さな白銀の輪に納められ、中心で淡く光っている。


 レーヴェンの地下香炉。

 王都の封じ石。

 願還の座。


 三つの香りと繋がったまま、リリアの胸元で静かに眠っている。


 リリアは指先でそっと触れた。


 母の薬草茶のような香りが、ほんの少しだけ広がる。


「……お母さま」


 名前を呼ぶように呟く。


 返事はない。


 けれど、香りは温かかった。


 それで十分だった。


 扉の外から、こつこつと控えめな音がする。


「リリアさん、準備できましたか?」


 カイルの声だった。


「はい。今行きます」


 扉を開けると、カイルは妙に真面目な顔で立っていた。


 しかし、リリアを見るなり目を丸くする。


「おお……なんか、すごくそれっぽいです!」


「それっぽい?」


「香律師っぽいです!」


 リリアは小さく笑った。


「まだ正式には発表前です」


「でももう全員そう思ってますよ」


 カイルはにっと笑う。


「リリアさんがここにいるの、今さら誰も疑ってませんから」


 胸の奥が、ふわりと温かくなった。


 疑われない。


 いていいのだと、当たり前に思われている。


 それが、こんなにも優しい香りだとは知らなかった。


 廊下を歩くと、騎士たちが次々に姿勢を正した。


「おはようございます、リリアさん!」


「本日はよろしくお願いします!」


「香律師就任、おめでとうございます!」


「まだ早いぞ!」


「でも実質そうだろ!」


 賑やかな声に、リリアは少し頬を赤くしながら頭を下げる。


 昔、大神殿の廊下では、リリアはなるべく目立たないように歩いていた。


 誰かの邪魔にならないように。

 誰かの不機嫌を買わないように。

 自分の香りを小さくして、息を潜めて。


 でも今は違う。


 この廊下には、リリアを追い立てる香りがない。


 急がなくていい。

 隠れなくていい。

 堂々と歩いていい。


 それだけで、足元がしっかりしてくる。


 中庭へ出ると、そこには古城の人々が集まっていた。


 騎士たち。

 厨房の者たち。

 孤児院の子どもたち。

 薬草園を手伝う侍女たち。

 アリアと商会の者たち。

 ガレス。

 ルゥ。


 そして、中庭の中央にノアが立っていた。


 黒い騎士服に、レーヴェン家の紋章が入った外套。


 凛として、静かで、少し近寄りがたいほど整った姿。


 けれどリリアには、その香りが分かる。


 ほんの少し緊張している。


 それに気づいた瞬間、リリアの緊張が少しほどけた。


 ノアも怖いのだ。


 いつも通りに見えても、きっと大切なものの前では怖くなる。


 リリアが歩み寄ると、ノアは静かに手を差し出した。


「行けるか」


「はい」


 リリアはその手を取った。


 中庭が一瞬静まる。


 ノアの手は温かかった。


 以前は、その温かさに戸惑っていた。


 今も少し戸惑う。


 けれど、もう逃げたいとは思わない。


 リリアはノアの隣に立った。


 前でも、後ろでもなく。


 隣に。


 ノアが中庭に集まった人々を見渡す。


「本日、レーヴェン古城は、リリア・エルムを正式に古城所属の香律師として迎える」


 その声は、よく通った。


 騎士たちが姿勢を正す。


 子どもたちも、真似をして背筋を伸ばす。


「彼女は、王都大神殿から追放された者としてここへ来た。だが、我々が見たのは追放された役立たずではない」


 ノアの声が少しだけ強くなる。


「枯れた薬草園を読み、井戸の呪香をほどき、孤児院の悪夢を払い、聖月草を守り、王都の腐った聖香を流した香りの使い手だ」


 リリアの胸が熱くなる。


 役立たずではない。


 誰かにそう言ってほしいと、ずっと願っていた。


 けれど今、その言葉はリリアを縛らない。


 評価されるためにここにいるのではない。


 必要とされるから消耗し続けるのでもない。


 リリアは自分で選んでここに立っている。


「ただし」


 ノアは続けた。


「香律師とは、古城の所有物ではない。レーヴェンが囲い込むものでも、命を削らせるものでもない」


 中庭が静かになる。


「香りは誰か一人のものではない。土地と水と、そこに生きる者たちのものだ。彼女の仕事は、それを整えることにある。よって、古城は彼女の仕事と休息を守る」


 休息、という言葉に騎士たちが大きく頷いた。


 ガレスなど、腕を組んで非常に満足そうにしている。


 リリアは少し恥ずかしくなった。


 そんなに休まない人だと思われているのだろうか。


 思われているのだろう。


 ノアは書面を取り出した。


「契約内容は、アリア殿とガレスの確認済みだ。給与、研究費、薬草園管理権限、王都への助言範囲、休養日、危険作業時の同行義務を明記している」


 カイルが小声で呟く。


「休養日まで発表される就任式、初めて見た」


 アリアが涼しい顔で答える。


「重要事項です」


 ガレスも頷く。


「最重要だ」


 リリアは両手で顔を覆いたくなった。


 けれど、少しだけ笑ってしまう。


 大神殿では、リリアの働きは名前のないものだった。


 記録にも残らず、報酬にもならず、誰かの功績の裏へ隠された。


 ここでは違う。


 仕事として認められ、守るための決まりまで作られている。


 それが、どれほど大きなことか。


 リリアは分かっていた。


 ノアがリリアを見る。


「リリア」


「はい」


「君自身の言葉で、伝えてくれ」


 リリアは頷いた。


 一歩前へ出る。


 中庭の人々の視線が集まる。


 緊張で、指先が少し震えた。


 足元でルゥがすぐに近づき、リリアの靴へ身体を寄せる。


 白銀の毛の温もり。


 それだけで、呼吸が整う。


「私は」


 リリアは口を開いた。


「王都大神殿で、香り係と呼ばれていました」


 中庭が静かになる。


「聖香の異変を伝えても、信じてもらえませんでした。役立たずだと言われ、婚約も破棄され、神殿を出ました」


 その言葉を口にしても、もう昔ほど胸は潰れなかった。


 痛みはある。


 でも、黒くはない。


 それはリリアの過去の香りとして、胸の中にある。


「この古城へ来た時、私は自分の香りをあまり信じられませんでした。自分が感じるものが本当に正しいのか、自分がここにいていいのか、ずっと怖かったです」


 ノアが静かにリリアを見ている。


 ガレスも、アリアも、カイルも、ミナも。


 誰も急かさない。


 リリアは続けた。


「でも、ここで皆さんに教えてもらいました。怖いと言っていいこと。一人で触らなくていいこと。危ない時は下がっていいこと。助けてと言っていいこと」


 ミナが目元をこする。


 騎士たちの中にも、鼻をすすっている者がいた。


「香りを整えるというのは、一人で全部を抱えることではありませんでした。強い香りで誰かを従わせることでもありません。土地と水と、人の願いが、それぞれの場所へ戻れるように、道を作ることでした」


 リリアは胸元の香炉石に触れる。


 母の香りが、ほんの少しだけ背中を押してくれる。


「私は、レーヴェン古城の香律師としてここにいます」


 声はもう震えていなかった。


「でも、古城に閉じこもるためではありません。王都の水路も、黒森の地下香炉も、まだ整えなければいけないことがあります。けれど、それを私一人で背負うつもりはありません」


 ルゥが小さく鳴く。


 同意しているようだった。


「皆さんと一緒に、少しずつ整えていきたいです」


 リリアは深く息を吸った。


「そして、ここにいたいです」


 その瞬間、中庭に温かい香りが広がった。


 歓声が上がる。


 騎士たちが拍手し、子どもたちが飛び跳ね、カイルが誰より大きな声で叫んだ。


「リリアさん、正式就任おめでとうございます!」


「おめでとう!」


「レーヴェンの香律師!」


「おかえりなさい!」


 おかえり。


 その言葉に、リリアの目に涙が浮かんだ。


 就任なのに。


 新しい始まりなのに。


 皆は、リリアにおかえりと言ってくれる。


 ここが帰る場所だから。


 リリアは涙を拭わずに笑った。


「ただいま」


 その言葉に、また大きな拍手が起きた。


 式の後は、古城らしい祝宴になった。


 格式はあまりなかった。


 薬草パンが山のように焼かれ、厨房のスープは鍋ごと運ばれ、アリアがなぜか王都向け新商品の試食票を配り始め、カイルが騎士たちに囲まれて王都での武勇伝を三割増しで語っていた。


「いやあ、黒い根が十本くらい同時に来ましてね!」


「三本だっただろう」


 ノアが通りすがりに訂正する。


「団長、細かい!」


「正確に話せ」


「はい!」


 リリアはそのやり取りに笑いながら、ミナから白露草の栞を受け取った。


「これ、リリアお姉ちゃん用」


「私に?」


「うん。怖い夢を見そうな時に使って」


 栞には、小さな文字でこう書かれていた。


 ――帰る道は、ここ。


 リリアは胸がいっぱいになった。


「ありがとう。大切にします」


 ミナは嬉しそうに笑い、ルゥへも小さな白露草の飾りを差し出した。


 ルゥは一度ぷいと横を向いた。


 しかし、しばらくしてからこっそり鼻先で受け取った。


 誇り高い守護獣にも、素直になれない時があるらしい。


 昼過ぎ、王都からの早馬が届いた。


 広場の空気が一瞬引き締まる。


 だが、封からする香りは黒くなかった。


 手紙は三通。


 一通はローデンから。


 大神殿の聖香制度の全面停止。

 地下聖香炉と願還の座の記録公開準備。

 マルドの正式拘束と神官長位剥奪。

 王都政庁による調査開始。


 そこには、リリアへの謝辞も書かれていた。


 ただし、アリアが横から覗き込み、すぐに眉を上げる。


「謝辞よりも実務計画が薄いですね。返書で補足要求しましょう」


 リリアは苦笑した。


「はい。お願いします」


 二通目はセシリアからだった。


 エルム家で父と話したこと。

 セレナの記録を整理していること。

 自分が見なかったものを、これから見ていくこと。

 そして、いつか白露草の扱いをもう一度教えてほしいという願い。


 最後には、少し震えた文字でこうあった。


 ――許されるためではなく、間違えないために学びたいですわ。


 リリアはしばらくその文字を見つめた。


「返事を書きます」


 アリアが頷く。


「急がずに」


「はい。急がずに」


 三通目は父からだった。


 短い手紙だった。


 自分は長く恐れていたこと。

 セレナを失った痛みを言い訳に、リリアを見なかったこと。

 今後、エルム家の記録をリリアに開示すること。


 そして最後に。


 ――レーヴェンの香律師として立つお前を、遠くから誇りに思う。


 リリアの指が止まった。


 誇り。


 かつて欲しかった言葉。


 今も、まったく何も感じないわけではない。


 胸の奥が痛む。


 けれど、その痛みは静かだった。


 リリアは手紙を丁寧に畳んだ。


「これにも、返事を書きます」


 ノアが傍らで静かに言う。


「無理に急ぐ必要はない」


「はい」


 リリアは頷いた。


「でも、書きたいです」


 夜になると、祝宴の騒ぎは少しずつ落ち着いた。


 中庭には白露草の灯りが置かれ、淡い香りが夜風に混じる。


 リリアは少し離れた石段に腰掛けていた。


 ルゥは膝の上で丸くなっている。


 今日はずっと偉そうにしていたのに、さすがに疲れたらしい。


 ノアが隣に来る。


「疲れたか」


「少し。でも、良い疲れです」


「ならいい」


 しばらく二人で、古城の夜を眺めた。


 騎士たちの笑い声。

 厨房の片づけの音。

 黒森の風。

 聖月草の淡い香り。


 穏やかな夜だった。


 だが、完全な終わりではない。


 リリアには分かっている。


 三つの香炉は巡り始めたばかり。

 王都の水路はまだ不安定。

 大神殿の信頼は崩れたまま。

 マルドの中に残った腐った願いも、いつかまた向き合う日が来るかもしれない。


 そして、古い記録にあった黒森のさらに深い場所。


 祈還根が地へ帰ったその先に、まだ読めない香りがある。


 けれど、今夜はそれでいい。


 全部を今決めなくていい。


「ノア様」


「何だ」


「今日、ここにいたいと言えてよかったです」


 ノアは少しだけリリアを見る。


「私も聞けてよかった」


 胸が温かくなる。


 リリアは膝の上のルゥを撫でながら、小さく笑った。


「でも、就任式で休養日の話までされるとは思いませんでした」


「必要だ」


「皆さん、本当に心配性です」


「君が心配させる」


「……努力します」


 ノアの口元がわずかに緩む。


 それから、彼は静かに言った。


「リリア」


「はい」


「古城へ来てくれて、ありがとう」


 その言葉に、リリアの胸が詰まった。


 ありがとう。


 追放されたから来たのではない。


 拾われただけでもない。


 ここへ来たことを、感謝されている。


「私も」


 リリアはゆっくり言った。


「ここへ来られて、よかったです」


 ノアの視線が、夜の白露草の灯りに揺れる。


 リリアは少しだけ勇気を出して、続けた。


「これからも、よろしくお願いします」


 ノアは静かに頷いた。


「ああ。これからも」


 その言葉は、約束の香りがした。


 強い誓いではない。


 人を縛る契約でもない。


 明日も同じ場所で朝を迎えようとする、静かな約束。


 リリアはその香りを胸にしまった。


 その時、遠く黒森の奥で、風が鳴った。


 ルゥがぴくりと耳を立てる。


 リリアも顔を上げた。


 黒森の向こうから、ほんの一瞬だけ、知らない香りが届いた。


 雪の下に眠る花。

 古い石扉。

 そして、まだ名を知らない白銀の獣の気配。


 ルゥが低く鳴く。


 ノアの表情も引き締まる。


「今のは」


 リリアは黒森を見つめた。


 怖い香りではない。


 だが、遠い。


 とても古く、深い場所から呼ぶ香り。


「分かりません」


 リリアは胸元の香炉石に触れた。


 石は淡く温かい。


「でも、急がなくていい香りです」


 ノアはリリアを見た。


「なら、今夜は休め」


「はい」


 リリアは微笑んだ。


「明日から、また少しずつ整えます」


 黒森の風が、中庭の白露草を揺らす。


 レーヴェン古城の夜は、静かに深まっていく。


 追放された香り係は、もういない。


 神殿に奪われる聖香師も、もういない。


 ここにいるのは、レーヴェンの香律師。


 自分の香りを信じ、自分で選んだ場所に立つ、リリア・エルム。


 そして彼女の前には、まだたくさんの香りが待っている。


 怖いこともあるだろう。


 迷うこともあるだろう。


 それでも、リリアはもう知っている。


 怖いと言っていい。

 助けを呼んでいい。

 一人で背負わなくていい。

 願いは、自分の胸に持っていていい。


 だから、明日も歩ける。


 白露草の灯りの下で、リリアはそっと目を閉じた。

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