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第8話 井戸の底の腐った香り

 井戸の底に、何かがいる。


 ミナの言葉は、孤児院の部屋に重く落ちた。


 窓の外では、朝の光を受けた薬草園が静かに広がっている。

 枯れた支柱。

 割れた木箱。

 黒ずんだ井戸。


 一見すれば、ただ手入れの行き届いていない古い薬草園だ。


 けれどリリアには分かる。


 あそこから漂ってくる香りは、ただの腐った水ではない。


 焦げた花。

 濡れた灰。

 甘く濁った聖香。

 そして、羽音のように揺れる黒い匂い。


 ミナは毛布を握りしめ、震えていた。


「夜になるとね……井戸の方から、ぱたぱたって音がするの」


 小さな声だった。


「最初は、鳥かなって思ったの。でも、違うの。羽が濡れてるみたいな音で……それが、だんだん近づいてくるの」


 世話係の女性が青ざめる。


「ミナ、それをどうして今まで言わなかったの?」


「言ったら、みんなも聞こえるようになる気がしたの」


 ミナは涙をこぼした。


「私だけならいいって思ったの。でも昨日は、みんなの名前も呼んでた。だから、怖くて……」


 リリアの胸がぎゅっと痛む。


 こんな小さな子が、誰にも言えずに悪夢を抱えていたのだ。


 自分だけ我慢すればいい。

 誰かに迷惑をかけたくない。


 その気持ちは、リリアにも分かりすぎるほど分かった。


「ミナちゃん」


 リリアは膝をつき、ミナと目線を合わせた。


「教えてくれてありがとう。怖かったのに、ちゃんと言ってくれたのね」


 ミナの目が揺れる。


「怒らない?」


「怒らないわ。むしろ、助かるの。あなたが教えてくれたから、井戸を調べられる」


「……ほんと?」


「うん。本当」


 リリアが微笑むと、ミナは少しだけ息を吐いた。


 白い子狼がベッドに前足をかけ、ミナの手に鼻先を寄せる。

 ミナはおずおずとその頭を撫でた。


「ふわふわの狼さんも、行くの?」


 白い子狼は胸を張るように、ふん、と鼻を鳴らした。


 その仕草があまりにも得意げで、ミナの口元に小さな笑みが戻る。


 リリアはほっとした。


 けれど、ノアの表情は険しい。


「井戸を調べる。だが、子どもたちは孤児院から移したほうがいい」


「はい」


 リリアも頷いた。


「あの井戸と悪夢が繋がっているなら、近くにいないほうがいいと思います。香りも、昨日より濃くなっています」


「カイル」


「はい」


「子どもたちを西棟の食堂へ。護衛を二名つける。ガレスはミナを診てくれ」


「分かった」


 皆がすぐに動き出す。


 ミナは不安そうにリリアの袖を掴んだ。


「リリアお姉ちゃん、戻ってくる?」


「戻ってくるわ」


「井戸に連れていかれない?」


 その問いに、リリアは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 怖くないわけではない。


 黒い根が何なのか分からない。

 井戸の底に何があるのかも分からない。

 手首の呪痕は、今もじくじくと痛んでいる。


 けれど、ミナの前で曖昧に笑うことだけはしたくなかった。


「連れていかれないように、ちゃんと気をつける」


 リリアは静かに言った。


「それに、ノア様も、みんなも、狼さんも一緒だから」


 ミナは白い子狼を見た。


「狼さん、リリアお姉ちゃんを守ってね」


 白い子狼は任せろと言わんばかりに、短く鳴いた。


 ノアがその様子を見て、ほんの少しだけ目元を和らげる。


「行こう」


「はい」


 リリアは立ち上がった。


 孤児院を出ると、朝の空気は澄んでいるはずなのに、薬草園の方角だけが重く淀んでいた。


 井戸へ近づくにつれて、手首の痛みが増す。


 黒い痕の周囲が、熱を帯びている。


 リリアは思わず手首を押さえた。


「痛むのか」


 隣を歩くノアがすぐに気づく。


「はい。でも、近づくほど強くなるので、たぶん反応しているんです」


「無理だと判断したら、すぐ下がれ」


「分かりました」


「本当に分かっているか?」


 あまりにも真顔で言われて、リリアは少しだけ困った。


「……たぶん」


「たぶんでは困る」


 そのやり取りに、後ろを歩いていたカイルが小さく笑った。


「団長、心配しすぎです」


「心配して当然だ」


 ノアは即答した。


 リリアは思わず顔を上げる。


 当然。


 そんなふうに言われるとは思っていなかった。


 神殿では、リリアが無理をしても当然だった。

 疲れていても、手が荒れていても、香炉を磨き、温室を整え、誰かの失敗を黙って直した。


 心配されることに、まだ慣れない。


「あの……ありがとうございます」


「礼を言うところではない」


「でも、言いたかったので」


 ノアは少しだけ黙った。


 それから、ふいと視線を逸らす。


「……そうか」


 その横顔が、少しだけ照れているように見えて、リリアの胸が小さく跳ねた。


 白い子狼が二人の間を見上げ、何か言いたげに鼻を鳴らす。


「どうしたの?」


 リリアが尋ねると、子狼はふいっと顔を背けた。


 なぜか少し不機嫌そうだった。


 薬草園の井戸は、昨日よりも暗く見えた。


 朝日が差しているのに、井戸の縁だけ影が濃い。

 黒ずんだ苔は湿って光り、石組みの隙間から細い根のようなものが覗いている。


 リリアは井戸から少し離れた場所で足を止めた。


「これ以上近づく前に、香りを整えます」


 ガレスが用意してくれた薬草袋を開く。


 白露草。

 銀葉ミント。

 月桂花。

 蜜根。


 そして、母の香炉石。


 欠けた銀色の石を手に取ると、ほんのり温かい。


 昨日よりも、はっきりと反応している気がした。


 リリアは小さな器に白露草と銀葉ミントを入れ、井戸水ではなく、今朝集めた雨水を少し注いだ。


 指先で軽く混ぜると、澄んだ青い香りが立つ。


 だが、井戸から流れる黒い匂いがすぐにそれを飲み込もうとした。


「強い……」


 リリアは眉を寄せた。


 ただの汚れではない。

 ただの呪いでもない。


 もっと執念深いもの。


 長い時間をかけて、土と水と人の夢に染み込んできた何か。


「どう見える」


 ノアが尋ねる。


「井戸の底から、黒い香りが上がっています。でも、全部が悪いわけではありません。水そのものは、まだ生きています。ただ……底に何かが沈んでいて、それが水を濁らせているみたいです」


「取り出せるか」


「直接は危ないと思います」


 リリアは井戸を見つめた。


 黒い根は、こちらの動きを見ているように感じる。


 昨日の黒い蔓と同じなら、触れた者に巻きつく。

 まして井戸の底へ騎士を降ろせば、何が起こるか分からない。


「まず、底にあるものを少しだけ弱らせます。井戸全体を浄化するのではなく、水の表面に香りの膜を作る感じで」


 カイルが首を傾げる。


「膜?」


「はい。悪いものを全部倒すのではなく、こちら側へ上がってこないようにするんです。子どもたちの夢へ入り込む道を、少し塞ぐような……」


「できるのか」


 ノアの問いに、リリアは正直に答えた。


「分かりません。でも、試す価値はあると思います」


 ノアはすぐに頷いた。


「なら、試そう。全員、リリアの指示に従え」


 その言葉に、リリアは背筋を伸ばした。


 自分の指示。


 神殿では考えられなかった。


 下働きのリリアが、騎士たちに何かを指示するなんて。


 けれど今は、怖がっている場合ではない。


「井戸の周りに、白露草を置いてください。等間隔で。銀葉ミントは、風上に。月桂花はまだ使いません。甘い香りは、黒いものを誘うかもしれないので」


「分かった」


 騎士たちが動く。


 慣れない手つきながらも、皆、真剣だった。


 白い子狼は井戸の縁から少し離れた場所に立ち、青い瞳で底を睨んでいる。


 リリアは香炉石を両手で包み、井戸の前に立った。


 怖い。


 井戸の底から、冷たい視線のようなものを感じる。

 手首の痕は痛み、心臓は早鐘を打っている。


 それでも、リリアは目を閉じた。


 探すのは、黒い香りではない。


 その奥に残る、水本来の香り。


 雨。

 石。

 土。

 地下深くを流れる、冷たく澄んだ水。


 ある。


 黒い匂いに覆われているけれど、まだ完全には失われていない。


「見つけた……」


 リリアはゆっくり息を吐く。


 香炉石が淡く光った。


 白露草の香りが、井戸の周りで薄く広がる。

 銀葉ミントの青い香りが、それを支える。


 井戸の底から、ぱた、と音がした。


 羽音。


 ぱた、ぱた、ぱた。


 まるで何かが、水面の下で暴れているようだった。


 カイルが剣を構える。


「団長」


「まだ動くな」


 ノアの声は落ち着いていた。


 その声に支えられるように、リリアは香りを重ねる。


 水の香りを上へ。

 焦げた香りを下へ。

 黒い羽音を、白露草の膜の下へ押し戻す。


 その時、井戸の奥から声が聞こえた。


 ――リリア。


 リリアの肩が震えた。


 ノアがすぐに反応する。


「どうした」


「今、名前を……」


 ――リリア。


 また聞こえる。


 それはエルヴィンの声に似ていた。

 いや、違う。

 セシリアの甘い声にも似ている。

 神殿の神官たちの嘲笑にも似ている。


 役立たず。

 香り係。

 戻っておいで。

 お前がいなければ、何もできないくせに。


 黒い香りが、一気に濃くなる。


 リリアの視界が揺れた。


 胸の奥に、神殿で浴びた言葉が蘇る。


 君は聖香師ではない。

 君のような地味な女はふさわしくない。

 見苦しい。

 役立たず。


「……違う」


 リリアは香炉石を握りしめた。


 手首が焼けるように痛む。


 涙が滲みそうになる。


 でも、今ここで飲み込まれてはいけない。


 ミナが待っている。

 薬草園の小さな芽がある。

 白い子狼が、ノアが、皆が見ている。


 そして何より。


 リリア自身が、もうあの声に戻りたくなかった。


「私は、戻らない」


 小さな声だった。


 けれど、井戸の縁に立つ全員に聞こえた。


「私はもう、誰かの失敗を隠すための香り係じゃない」


 香炉石の光が強くなる。


「この水は、あなたのものじゃない。子どもたちの夢も、この薬草園も、あなたに渡さない」


 井戸の中で、何かが悲鳴のような音を立てた。


 ぱたぱたという羽音が激しくなる。


 白い子狼が吠えた。


 その声に応えるように、額に月の紋が浮かぶ。


 淡い銀色の光が、井戸の周りに広がった。


「狼さん……!」


 リリアが驚く間もなく、子狼は井戸の縁へ駆け寄った。


 ノアが止めるより早く、子狼は前足を石組みにかけ、井戸の底へ向かって鋭く鳴いた。


 その鳴き声は、子どもの狼とは思えないほど澄んでいた。


 黒い羽音が、ぴたりと止まる。


 リリアはその瞬間を逃さなかった。


「今です!」


 白露草の香りを、水の香りへ重ねる。

 銀葉ミントで焦げた匂いを散らす。

 香炉石の光で、井戸の表面に薄い膜を張る。


 井戸の中から、ごぼり、と重い音がした。


 黒い泡がひとつ、水面へ浮かび上がる。


 それは一瞬、蝶の形になった。


 濡れた黒い羽。

 赤い点のような目。


 だが、白露草の香りに触れた途端、泡は弾けた。


 甘く焦げた臭いが広がる。


 リリアは咳き込みそうになったが、ノアがすぐに前へ出て、外套で風を遮った。


「吸うな」


「はい……!」


 香炉石の光がふっと弱まる。


 同時に、井戸から漂う腐った香りが、少しだけ薄くなった。


 完全に消えたわけではない。


 底にはまだ、黒いものが残っている。


 けれど、さっきまで孤児院へ伸びていた悪夢の香りは、確かに弱まっていた。


「……できた」


 リリアはその場に膝をつきそうになった。


 ノアがすぐに腕を支える。


「リリア」


「大丈夫です。今度は、本当に」


「信用できない」


 そう言いながらも、ノアの声は少しだけ柔らかかった。


 白い子狼がリリアの足元へ戻ってくる。


 誇らしげに胸を張っているが、その額の月の紋はまだ淡く光っていた。


 ガレスが遅れて井戸を覗き込み、深く息を吐く。


「水の匂いが変わったな。まだ濁りはあるが、さっきよりずっとましじゃ」


 カイルも目を丸くする。


「さっきの黒い泡、見ました? 蝶みたいな形をしてましたよね?」


「見た」


 ノアは低く答えた。


「ミナの悪夢と繋がっているのは間違いない」


 リリアは白い子狼の頭を撫でた。


「あなたも、手伝ってくれたのね」


 子狼は当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす。


 その時、ガレスが子狼の額を見て、表情を変えた。


「その紋……」


「ガレスさん?」


「月の紋じゃ。古い記録にある。黒森の守護獣は、主を選ぶ時に月の紋を示すと」


「主……?」


 リリアは手を止めた。


 白い子狼は、青い瞳でリリアを見上げている。


 まっすぐに。


 まるで、もう選んだと言うように。


「でも、私は昨日会ったばかりで……」


「神獣に時間の長さは関係ない」


 ガレスの声は、いつになく真剣だった。


「香りを読める娘さん。守護獣様は、あんたを選びかけておるのかもしれん」


 リリアは返事ができなかった。


 役立たずと呼ばれて追い出された自分が。


 神獣に選ばれる?


 そんなこと、信じられるはずがない。


 けれど白い子狼は、リリアの手に頬をすり寄せた。


 その温もりは、確かだった。


 遠くから、子どもの声が聞こえた。


「リリアお姉ちゃーん!」


 振り返ると、西棟の方からミナが手を振っていた。

 世話係に支えられながらも、顔色は先ほどより良い。


「羽音、消えたよ!」


 リリアの胸に、安堵が広がった。


 完全に解決したわけではない。

 井戸の底にはまだ何かがいる。

 黒い根も、薬草園の下に残っている。


 でも、ミナは笑っている。


 それだけで、今は十分だった。


 ノアが静かに言う。


「リリア」


「はい」


「君のおかげだ」


 その一言に、リリアは目を見開いた。


 君のおかげ。


 あまりにもまっすぐな言葉だった。


 リリアは胸がいっぱいになり、うまく答えられない。


「……皆さんが、手伝ってくださったからです」


「それでも、君がいなければできなかった」


 ノアはリリアを見ていた。


 笑うでもなく、慰めるでもなく、ただ事実として言う。


「ありがとう」


 リリアは唇を噛んだ。


 泣きそうだった。


 役立たずと言われた自分の手で、誰かの悪夢を少し遠ざけられた。

 枯れた薬草園に残る芽を守れた。

 神獣かもしれない白い子狼が、そばにいてくれる。


 報われる、というのはこういうことなのだろうか。


 リリアは白い子狼を見下ろし、そっと微笑んだ。


「あなたにも、名前が必要ね」


 子狼の耳がぴくりと動く。


「白くて、月みたいで……でも、ちょっと得意げで」


 リリアは少し考えてから言った。


「ルゥ、というのはどう?」


 白い子狼は一瞬だけ固まった。


 それから、尻尾を大きく振った。


 どうやら気に入ったらしい。


「ルゥ」


 リリアがもう一度呼ぶと、子狼――ルゥは嬉しそうにリリアの周りをくるりと回った。


 騎士たちから小さな笑いが起こる。


 薬草園に、ほんの少しだけ明るい空気が戻った。


 だがその時。


 井戸の底から、ぽちゃん、と何かが落ちる音がした。


 リリアは振り返る。


 水面に、小さな黒い羽が一枚浮かんでいた。


 それは濡れているはずなのに、燃え残りの灰のように、端からほろほろと崩れていく。


 そして消える直前。


 羽の表面に、リリアは見覚えのある紋章を見た。


 王都大神殿の、聖香炉に刻まれていた紋章。


 リリアの背筋に、冷たいものが走った。


 井戸の底の何かは、やはり王都神殿と繋がっている。

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