第7話 孤児院の悪夢
黒い根が、土の下で脈打った。
どくん、と。
生き物の心臓のような、不気味な動きだった。
薬草園にいた全員が、一瞬だけ息を止める。
白い子狼が、リリアの前に出るように低く身をかがめた。
まだ傷が癒えきっていないのに、牙を剥き、黒い根を睨んでいる。
「リリア、下がれ」
ノアの声は鋭かった。
リリアは言われた通り、ゆっくりと一歩下がる。
けれど、視線は黒い根から離せなかった。
根と呼ぶには、あまりにも嫌な香りがする。
焦げた花。
腐った水。
甘く濁った聖香。
そして、昨日、白い子狼に絡みついていた黒い蔓と同じ匂い。
土の中から覗いているのは、ほんの一部だけだ。
だが、その奥にはもっと多くの根がある。
小さな芽の下から、薬草園の奥へ。
さらに井戸の方へ。
見えない場所へ、ずるずると伸びている。
「これは……植物ではないのか?」
カイルが剣を抜きかけた。
「切るな」
ノアが即座に止める。
カイルの手が止まる。
「昨日の呪縛と同じなら、下手に傷つければ跳ねる」
「でも、このまま放っておくのも危険です」
リリアは手首を押さえながら言った。
黒い痕が、じくりと熱を持っている。
根が動いた瞬間から、手首の痛みが強くなった。
まるで、昨日の黒い蔓がリリアの中に残した痕に反応しているみたいだった。
ノアがそれに気づき、眉を寄せる。
「手首が痛むのか」
「少しだけです」
「少しだけ、は信用しないと言った」
「……痛みます」
正直に言うと、ノアはすぐにガレスを見た。
「ガレス」
「分かっとる」
ガレスは薬箱から小瓶を取り出し、リリアへ近づく。
「娘さん、痕を見せなさい」
「でも、根が……」
「根より先に、あんたじゃ。あんたが倒れたら、誰がこの匂いとやらを見る」
その言葉に、リリアは黙った。
見ている。
そう言ってくれた。
笑われずに、疑われずに。
リリアは手首を差し出す。
黒い蔓の痕は、昨日より少し薄くなっていたはずだった。
だが今は、細い蔓模様が赤黒く浮かび上がっている。
ガレスの顔が険しくなった。
「やはり反応しとるな。根の呪いと繋がっとる」
「私に、ですか?」
「昨日あんたが守護獣様から呪縛を剥がした時、少し呪いの臭いを受けたんじゃろう。完全に入り込まれてはおらんが、こういう近いものには反応する」
リリアは手首を見る。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に気になった。
この根は、なぜ薬草園に張っているのか。
なぜ井戸の方へ向かっているのか。
なぜ王都の聖香と同じ匂いがするのか。
「すぐに抜くのは危険です」
リリアは静かに言った。
「でも、このままにしておけば、残っている芽も吸われます。薬草園だけじゃなく、井戸の水にも影響しているかもしれません」
ガレスが頷く。
「井戸を使っておるのは薬草園だけではない。洗い水や掃除にも使う。直接飲み水にはしておらんが、完全に無関係ではないな」
「城の中で、眠れない人が増えたのはいつ頃ですか?」
リリアが尋ねると、ノアが答えた。
「一月ほど前から悪化した。ただ、その前から兆候はあった」
「薬草園が枯れ始めたのは?」
「十年前じゃ」
ガレスが苦々しく言う。
「だが、ここ数年でひどくなった。完全に効きが落ちたのは、ここ半年ほどじゃな」
十年。
数年。
半年。
一月。
ゆっくり悪くなって、最近になって急に強くなった。
王都神殿の聖香の異変と、時期が重なっているのかはまだ分からない。
けれど、無関係だとは思えなかった。
リリアは黒い根を見つめる。
「まずは、この芽だけでも守りたいです」
「どうする」
ノアが尋ねる。
リリアは少し考えた。
強い薬を使って根を焼くのは危険。
引き抜くのも危険。
なら、薬草の芽と黒い根の間に、香りの壁を作るしかない。
「この芽の周りの土を、少しだけ別の土に替えます。井戸水は使わず、雨水を一度布でこして、白露草と銀葉ミントの香りを通します。それから、木箱で囲って、黒い根が近づかないように……」
「根を殺すのではなく、芽を隔離するのか」
「はい。今はまだ、この根の正体が分かりません。無理に戦うより、まず生きているものを守りたいです」
ノアは短く頷いた。
「分かった。人を出す」
すぐに騎士たちが動いた。
木箱。
清潔な土。
雨水を溜めた桶。
布。
薬草。
リリアは手首の痛みを抑えながら、慎重に作業を進めた。
小さな芽の周りの土を、傷つけないように緩める。
黒い根に触れないよう、木のへらでそっと境目を作る。
白露草を浸した布で雨水をこし、その水をほんの少しだけ土に落とす。
ふわり、と澄んだ香りが立った。
弱々しかった芽が、ほんの少しだけ背筋を伸ばしたように見えた。
「……よかった」
リリアの口から安堵の息が漏れる。
白い子狼も、得意げに尻尾を一度だけ振った。
カイルが目を丸くする。
「今、芽が動きませんでした?」
「動いたな」
ガレスが真顔で頷く。
「薬草は思ったより正直じゃ」
その言葉に、リリアは少し笑った。
黒い根はまだ残っている。
薬草園全体は枯れたままだ。
問題は何も解決していない。
けれど、小さな芽は守れた。
たったそれだけなのに、胸の奥に明かりが灯る。
神殿を出てから初めて、自分の手で何かを守れた気がした。
その時だった。
遠くから、悲鳴が聞こえた。
甲高い、子どもの声だった。
「いやああああっ!」
リリアは反射的に顔を上げた。
ノアの表情が一瞬で変わる。
「孤児院の方角だ」
白い子狼が鋭く吠えた。
リリアは立ち上がる。
「行きます」
「リリア、手首が――」
「子どもの声です」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
ノアは一瞬だけリリアを見た。
止めても聞かないと判断したのか、すぐに頷く。
「なら、私の後ろを歩け。絶対に一人で先に行くな」
「はい」
リリアは頷き、ノアたちとともに薬草園を出た。
孤児院は、古城の北棟に併設された小さな建物だった。
元は使用人棟だったらしく、古いが手入れはされている。
窓辺には木彫りの小鳥が飾られ、入口には子どもたちの小さな靴が並んでいた。
けれど、中から漂う香りは穏やかではない。
冷えた寝汗。
泣き疲れた喉。
悪夢に怯える子どもの匂い。
リリアは胸が締めつけられた。
中に入ると、数人の子どもたちが廊下で泣いていた。
年長の少女が、小さな男の子を抱きしめている。
世話係の女性たちは青ざめ、奥の部屋を振り返っていた。
「団長!」
世話係の一人がノアに駆け寄る。
「ミナが、また悪夢を……! 目を覚ましたのに、まだ何かを見ているみたいで!」
「落ち着け。怪我は?」
「暴れて腕を少し。でも、それより、呼吸が……!」
リリアは奥の部屋を見た。
扉の隙間から、濃い黒い香りが漏れている。
薬草園の根と同じではない。
もっと薄い。
けれど、確かに繋がっている。
「ノア様」
「ああ」
ノアは扉を開けた。
部屋の中には、十歳ほどの少女がいた。
ベッドの上で上半身を起こし、汗びっしょりで震えている。
茶色の髪が頬に張りつき、青ざめた唇が小さく動いていた。
「来ないで……黒い蝶が……井戸から……」
少女の手は宙を掴むように震えている。
目は開いている。
けれど、こちらを見ていない。
まだ悪夢の中にいる。
「ミナ!」
世話係が駆け寄ろうとするが、ミナは悲鳴を上げて身を縮めた。
「いや! 羽音がする! みんなを連れていくの!」
リリアの胸が痛んだ。
孤児院の子ども。
神殿にも同じような子たちがいた。
眠れない夜に、リリアが香草茶を淹れると、小さな手で器を包んで「いい匂い」と笑ってくれた。
目の前のミナも、あの子たちと同じだ。
怖くて、苦しくて、誰かに助けてほしい子ども。
リリアはゆっくりとベッドへ近づいた。
「ミナちゃん」
ノアが止めかけたが、リリアは手でそっと合図した。
大丈夫。
声には出さなかった。
自信があったわけではない。
でも、怖がっている子の前で、大人たちが慌てれば、もっと怖がらせてしまう。
「ミナちゃん、私はリリア。昨日、このお城に来たばかりなの」
ミナの瞳は揺れている。
返事はない。
リリアは鞄から銀葉ミントを取り出した。
強すぎる香りは駄目だ。
今のミナには、刺激になってしまう。
だから、葉先をほんの少しだけ指で揉み、香りを空気に溶かす。
「これはね、雨上がりの朝みたいな香りよ」
ミナの呼吸が、ほんのわずかに変わった。
「黒い蝶が来ても、雨が降ったら羽が重くなるわ。だから、少しだけ朝の匂いを置いておくね」
リリアは小さな布に銀葉ミントを包み、ベッドの端に置いた。
それから、昨日作った香草茶の残りに似た配合を思い出す。
月眠草は使わない。
眠らせるより先に、悪夢から引き離す必要がある。
白露草。
銀葉ミント。
ほんの少しの蜜根。
今ここにあるのは銀葉ミントだけ。
リリアは世話係に尋ねた。
「蜂蜜はありますか? それから、温かいお湯を少し。熱すぎないものを」
「は、はい!」
「月眠草は使わないでください。今は眠りを深くすると、悪夢に沈むかもしれません」
ガレスが部屋に入ってきて、目を細めた。
「なるほど。起こす香りか」
「はい。怖い夢から、こちらへ戻ってくるための香りにしたいです」
「任せる」
短い言葉だった。
けれど、リリアには十分だった。
すぐにお湯と蜂蜜が運ばれてくる。
リリアは銀葉ミントを湯に浮かべ、蜂蜜を爪の先ほどだけ溶かした。
香りが柔らかくなる。
甘すぎない。
冷たすぎない。
怖がっている子どもが、息を吸っても痛くない香り。
「ミナちゃん」
リリアは器を近づける。
「飲まなくていいわ。香りだけ、少し吸ってみて」
ミナの唇が震える。
「黒い……蝶が……」
「うん。怖かったね」
「井戸の……底から……羽がいっぱい……」
「うん」
「私の名前を呼んだの」
部屋にいる大人たちが息を呑む。
リリアは表情を変えないようにした。
「そう。名前を呼ばれたのね」
「行かなきゃって……行かないと、みんなが枯れるって……」
ミナの目から涙がこぼれた。
「でも、怖いの。暗くて、冷たくて、くさいの……」
くさい。
その言葉に、リリアの胸が小さく震える。
子どもの感覚は鋭い。
ミナも、何かの香りを感じているのかもしれない。
リリアは器を片手に、もう片方の手で自分の胸元を押さえた。
「ミナちゃん、その匂いは、あなたのものじゃないわ」
昨日、子狼に言った言葉に似ていた。
「怖い匂いがしても、あなたが悪いわけじゃない。あなたはそこへ行かなくていいの」
「……行かなくて、いい?」
「うん。行かなくていい」
リリアは静かに頷いた。
「だって、ここに戻ってきていいんだもの」
ミナの呼吸が震える。
リリアはそっと香草湯を近づけた。
「今は、この香りだけ探して。雨上がりの朝と、少し甘い蜂蜜。分かる?」
ミナの鼻先がかすかに動いた。
「……あまい」
「そう。甘い香り」
「雨……」
「うん。雨の後の、きれいな葉っぱの香り」
ミナの指先が、ぎゅっとシーツを握る。
それから少しずつ、力が抜けていった。
視線が、揺れながらリリアの顔へ戻ってくる。
「お姉ちゃん……だれ?」
「リリアよ」
「リリア……」
ミナは名前を繰り返した。
そして、ぽろぽロと涙をこぼした。
「こわかった……!」
「うん。怖かったね」
リリアは器を置き、そっとミナの背中を撫でた。
ミナはしがみつくようにリリアの袖を掴み、泣いた。
声を上げて、何度も「怖かった」と繰り返した。
部屋にいた世話係たちも、目元を押さえている。
ノアは黙って見守っていた。
白い子狼はベッドの下まで来て、ミナをじっと見上げている。
ミナが泣き疲れて少し落ち着くと、子狼は前足をベッドにかけた。
「……わんちゃん?」
ミナが涙声で言う。
子狼は不満そうに鼻を鳴らした。
リリアは思わず笑う。
「狼さんかもしれないわ」
「白い……きれい」
ミナが恐る恐る手を伸ばす。
子狼は一瞬だけ迷ったように耳を動かしたが、逃げなかった。
小さな手が、白い毛に触れる。
ミナの顔に、ほんの少しだけ笑みが戻った。
「ふわふわ……」
その一言で、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
リリアは胸を撫で下ろす。
助かった。
少なくとも、今は。
だが安堵したのも束の間、ミナがぽつりと呟いた。
「黒い蝶、まだいるよ」
リリアの背筋が冷える。
「どこに?」
ミナは震える指で、窓の外を指した。
孤児院の窓からは、薬草園の井戸が小さく見えた。
「井戸の中」
ミナの声は、ひどく小さかった。
「あそこから、夜になると羽音がするの」
その瞬間。
リリアの手首の黒い痕が、ずきりと痛んだ。
同時に、窓の外の井戸の方から、かすかな羽音が聞こえた気がした。
ぱた、ぱた、と。
濡れた羽が闇を叩くような音。
白い子狼が、低く唸る。
ノアが窓辺へ近づき、井戸を見据えた。
そして、リリアも同じ方を見た。
朝の光の中、薬草園の井戸は静かに佇んでいる。
けれど、その底から漂う香りは、さっきよりも濃くなっていた。
焦げた花。
腐った水。
甘く濁った聖香。
そして、黒い蝶の羽音。
リリアは手首を押さえながら、静かに息を呑んだ。
薬草園の黒い根は、孤児院の悪夢にも繋がっている。
井戸の底に、何かがいる。




