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第6話 枯れた薬草園の朝

 礼拝堂の扉が軋んだ音は、薬室の奥まで届いた。


 ぎい、と。


 古い木が悲鳴を上げるような音だった。


 眠っていたノアの眉が、わずかに動く。


 リリアは思わず椅子から立ち上がりかけた。


 けれど、ガレスが素早く手で制した。


「行くな」


「でも、今の音……」


「だからじゃ。呼ばれている時ほど、近づくな。呪いというのはな、弱っている者、気にしている者、優しい者から先に引きずり込もうとする」


 ガレスの声は低かった。


 冗談めかしたところのある老人だが、この時ばかりは目が笑っていない。


 リリアは胸元を押さえた。


 奥の廊下から、またかすかに匂いがする。


 焦げた薬草。

 錆びた水。

 そして、閉じ込められた祈りのような、重たい香り。


 気になる。


 けれど、今の自分が向かっていい場所ではない。


 そう思った瞬間、身体がふらりと揺れた。


「ほれ見ろ」


 ガレスが呆れたように言う。


「人の心配をする前に、自分の足元を見なさい。あんた、顔色が紙みたいじゃぞ」


「すみません……」


「謝る元気があるなら寝ろ」


 リリアは苦笑しようとして、うまくできなかった。


 確かに、限界だった。


 神殿を追われ、雨の街道を歩き、白い子狼の呪縛を解き、初めての古城へ来た。

 その間ずっと、気を張り詰めていた。


 気づけば、身体の芯が空っぽになっている。


 侍女が用意してくれた客室へ案内される頃には、リリアの足元はふわふわしていた。


 部屋は広すぎるほどだった。


 黒い石壁に、厚手の絨毯。

 古いが清潔な寝台。

 窓の外には雨に濡れた中庭が見える。


 王都神殿の宿舎で使っていた部屋より、ずっと立派だ。


「本当に、私が使っていいのでしょうか」


 リリアが戸惑っていると、案内してくれた侍女がにこりと笑った。


「もちろんです。守護獣様と団長を助けてくださった方ですもの」


「でも、私はただ……」


「ただ、ではありません」


 侍女は静かに首を振った。


「団長が眠ったんです。この城にいる者にとって、それがどれほどのことか」


 その言葉に、リリアは何も返せなかった。


 ノアが眠ったこと。


 白い子狼が落ち着いたこと。


 薬室の人たちが少し息をしやすそうにしていたこと。


 それらが自分のしたことだと、まだうまく受け止められない。


 リリアは寝台の端に腰を下ろした。


 侍女は温かい湯と清潔な布を用意し、そっと部屋を出ていく。


 一人になると、急に静けさが押し寄せた。


 リリアは鞄から母の薬草帳を取り出す。


 表紙には、セシリアがこぼした聖香油の黒い染みが残っていた。

 そっと指でなぞると、焦げた甘い匂いがまだ薄く残っている。


 王都神殿の聖香。

 黒い蔓。

 古城の礼拝堂。


 同じ匂い。


 偶然とは思えない。


 けれど、考えようとした頭がすぐに霞んだ。


 リリアは薬草帳を胸に抱いたまま、寝台に横になる。


 眠る直前、白い子狼の雪のような香りと、ノアの低い声がかすかに思い浮かんだ。


 ――君には、何が匂う?


 笑わずに、そう聞いてくれた声。


 それを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 リリアはその温かさに包まれるように、深い眠りへ落ちていった。


 翌朝。


 リリアは、鳥の声で目を覚ました。


 窓の外は、昨日の雨が嘘のように晴れている。

 淡い朝日が黒い石壁を照らし、濡れた中庭の石畳をきらきらと光らせていた。


「……朝」


 身体を起こすと、思ったよりもよく眠れていたことに気づいた。


 手首の痛みはまだ残っている。

 黒い痕も消えていない。


 けれど、頭は少し澄んでいた。


 リリアは身支度を整え、部屋の外へ出る。


 廊下では、昨夜よりも少し明るい空気が漂っていた。


 石壁は冷たい。

 古城全体に染みついた疲れの匂いも消えていない。


 でも、薬室から流れてきた香草茶の残り香が、ほんの少しだけ廊下に広がっていた。


 それだけで、昨日より息がしやすい。


 階段を下りると、玄関広間でカイルと数人の騎士が話していた。


 リリアに気づいたカイルが、ぱっと顔を明るくする。


「リリアさん! おはようございます」


「おはようございます」


「よく眠れました?」


「はい。おかげさまで」


「それはよかった。団長も、あの後しばらく寝てましたよ。椅子でですけど」


「椅子で……」


「ベッドまで運ぼうとしたら起きて、『問題ない』って言ってまた仕事しようとしたので、ガレス先生に怒鳴られてました」


 想像できてしまい、リリアは小さく笑った。


 その時、奥の廊下からノアが歩いてくる。


 黒い騎士服に身を包み、昨日より少しだけ顔色がいい。


 それでも目元の疲れは完全には消えていない。


「リリア」


「ノア様。おはようございます」


「ああ。手首はどうだ」


「少し痛みますが、大丈夫です」


「大丈夫、は信用しすぎないことにする」


 淡々と言われて、リリアは目を瞬かせた。


 ノアは続ける。


「君は昨日も、大丈夫と言いながら倒れかけた」


「……すみません」


「責めてはいない。ただ、無理をする癖があるなら、こちらで把握しておく」


 その言い方が真面目で、リリアは少し困ってしまった。


 神殿では、無理をするのは当然だった。

 体調が悪くても温室を開け、指先が荒れても香炉を磨いた。


 誰かに把握しておくと言われたことなど、なかった。


「気をつけます」


「頼む」


 ノアは頷いた。


 その少し後ろから、白い影が飛び出してきた。


「わっ」


 リリアの足元に、白い子狼が駆け寄ってくる。


 昨日よりは元気になったらしい。

 まだ脇腹には包帯が巻かれているが、青い瞳には力が戻っていた。


 子狼はリリアのスカートに鼻先を押しつけ、甘えるように鳴く。


「おはよう。少し元気になったのね」


 リリアがしゃがんで頭を撫でると、子狼は満足そうに目を細めた。


 その様子を、騎士たちが遠巻きに見ている。


 なぜか皆、妙に感動した顔をしていた。


「……あの、どうかしましたか?」


 リリアが尋ねると、カイルが苦笑した。


「いや、その子、俺たちが近づくと唸るんですよ」


「そうなのですか?」


「団長には昨日、二回目の威嚇をしました」


「一回だ」


 ノアが訂正する。


 子狼は知らんぷりをして、リリアの手に頬をすり寄せた。


 リリアは困ったように微笑む。


「まだ怖いのかもしれません。無理に触らず、香りを覚えてもらうところから始めたほうがいいと思います」


「香りを覚える?」


「はい。人の香りに慣れると、少し安心すると思います。薬草茶を配る時に、皆さんが少しずつ近くにいるようにするとか」


 言ってから、また余計なことだったかと思った。


 しかしノアはすぐに頷いた。


「試そう」


 あっさり受け入れられ、リリアは逆に戸惑う。


「いいのですか?」


「君の提案で、昨日は守護獣も私も眠れた」


 ノアは当然のように言う。


「なら、試す価値はある」


 胸の奥が、ぽっと温かくなる。


 試す価値がある。


 それはリリアにとって、褒め言葉に近かった。


 その時、ガレスが廊下の向こうから顔を出した。


「おお、起きたか。ちょうどいい。娘さん、ちょっと来なさい」


「はい」


「団長もじゃ。薬草園を見る」


 薬草園。


 その言葉に、リリアの心がわずかに跳ねた。


 古城にも薬草園があると聞いていた。


 昨日、馬車の中で感じた“まだ見ぬ薬草園の青い香り”。

 それが本当にあるのか、確かめたかった。


 ガレスに案内され、リリアたちは古城の東側へ向かった。


 長い回廊を抜けると、重い木扉がある。

 扉を開けた瞬間、朝の光と冷たい空気が流れ込んできた。


 そこには、広い薬草園があった。


 いや。


 薬草園だった場所、と言うべきかもしれない。


 石で囲まれた区画には、乾いた土が広がっている。

 支柱は傾き、木箱は割れ、井戸の周りには黒ずんだ苔がこびりついていた。


 枯れた茎が風に揺れる。


 薬草の名札は半分ほど折れ、文字も薄れている。


 リリアは一歩踏み出し、息を呑んだ。


 香りが、ない。


 正確には、ある。


 乾いた土。

 古い根。

 湿った石。

 でも、薬草園にあるはずの生きた青い香りが、あまりにも弱い。


「ひどい状態じゃろう」


 ガレスが苦い声で言った。


「昔は、ここで城の薬の大半を賄っていたらしい。だが、十年ほど前から育ちが悪くなった。ここ数年は、植えても枯れる。水を替えても、土を替えても駄目じゃ」


「すべて枯れるのですか?」


「ほとんどな。辛うじて残っているものも、効きが悪い」


 リリアはしゃがみ込み、土に触れた。


 冷たい。


 昨日の雨の後なのに、水が土の奥へ入っていない。

 表面だけ濡れて、下は固く閉じている。


 香りもおかしい。


 土の奥に、苦い匂いがある。


 まるで薬草が根を伸ばそうとするたび、何かに押し返されているような。


「……苦しそう」


 リリアは呟いた。


 ノアが隣に立つ。


「土がか」


「はい。土が息をしていません」


 神殿で同じことを言えば、また笑われただろう。


 だがここでは、誰も笑わなかった。


 ガレスはむしろ真剣な顔で屈み込む。


「何が原因に見える?」


「まだ分かりません。でも、土そのものが死んでいるわけではないです。奥に、ほんの少しだけ青い香りがあります」


 リリアは目を閉じた。


 乾いた土。

 古い根。

 黒ずんだ苔。

 井戸の冷たい水。

 その下に、わずかに残る柔らかな芽吹きの香り。


 昨日、古城に入った時に感じたものと似ている。


 死んでいない。


 待っている。


 リリアは目を開け、井戸の方を見た。


「井戸を見てもいいですか?」


「ああ」


 ノアが頷く。


 リリアは井戸へ近づいた。


 石組みの隙間には黒い苔がびっしりついている。

 井戸の縁に手をかけると、冷たい湿気が上がってきた。


 水の匂いは、重い。


 錆びた金属のような匂いと、焦げた薬草の残り香。


 リリアは眉をひそめた。


「この水、薬草にあげていますか?」


「使っておる。城の井戸水よりは薬草向きのはずだったんじゃが」


「たぶん、水が悪いわけではありません」


 リリアは井戸の奥を覗き込んだ。


 暗くて底は見えない。


 けれど、下から細い香りが上がってくる。


 焦げた黒い香り。


 白い子狼に絡んでいた蔓と、似ている。


「何かが、下にあります」


 リリアの声に、ノアの表情が変わった。


「井戸の底か」


「はい。水そのものではなく、底か、底へつながるどこかに……薬草の根を嫌がらせる香りがあります」


 ガレスが顔をしかめる。


「呪いか?」


「まだ分かりません。でも、このままでは何を植えても弱ってしまうと思います」


「調べさせよう」


 ノアはすぐにカイルを呼ぼうとした。


 だがリリアは慌てて止める。


「待ってください。今すぐ底を動かすのは危ないかもしれません」


「理由は?」


「昨日の黒い蔓と似た香りがします。無理に触ると、また誰かに巻きつくかもしれません」


 ノアはすぐに頷いた。


「なら、準備してからだ」


 リリアはほっと息を吐く。


 命令ではなく、確認してくれる。

 そのことが、思っていた以上に心強かった。


 白い子狼が、薬草園の入口からとことこと歩いてきた。


 まだ無理をしてほしくなかったが、本人――本狼は気にしていない様子で、リリアのそばに座る。


 そして、前足で土をちょんと掻いた。


「ここ?」


 リリアが尋ねると、子狼はもう一度土を掻く。


 そこには、枯れた茎が一本だけ残っていた。


 リリアはそっと土をどける。


 枯れていると思った茎の根元に、小さな緑があった。


 ほんの米粒ほどの芽。


 けれど確かに、生きている。


「……見つけた」


 リリアの声が震えた。


 ガレスが覗き込み、目を見開く。


「芽か。まだ残っておったのか」


「この子、教えてくれたのね」


 リリアが子狼の頭を撫でると、子狼は得意げに鼻を鳴らした。


 その姿に、ガレスがふっと笑う。


「守護獣様が薬草園の案内役とはな」


「この芽、守れますか」


 ノアが尋ねる。


 リリアは小さな芽を見つめた。


 香りは弱い。

 けれど、まっすぐだった。


 枯れた土の中で、それでも光を探している。


 まるで、昨日の自分みたいだと思った。


 追い出されて、泥の街道を歩いて、それでもどこかに行かなければと歩き続けた自分。


「守りたいです」


 思わずそう言っていた。


 ノアの視線が、リリアに向く。


「できるか、ではなく?」


 リリアははっとした。


 けれど、すぐに頷く。


「はい。今はまだ、できるか分かりません。でも、守りたいです。この芽も、この薬草園も」


 ガレスがにやりと笑った。


「なら、やってみるか」


「え?」


「この薬草園を、あんたの好きに整えてみなさい」


 リリアは目を見開いた。


「私が、ですか?」


「他に誰がやる。わしは十年やって駄目だった。なら、昨日来たばかりの香りの分かる娘さんに任せてみるのも悪くなかろう」


「でも、私は正式な薬師では……」


「またそれか」


 ガレスは呆れたように鼻を鳴らす。


「正式、正式とうるさいのう。薬草に肩書きは読めん。あいつらが分かるのは、土と水と光と、世話する手だけじゃ」


 その言葉に、リリアは息を呑んだ。


 薬草に肩書きは読めない。


 あまりにもまっすぐな言葉だった。


 ノアも静かに言う。


「リリア。無理にとは言わない」


 まただ。


 選ばせてくれる。


「だが、君が望むなら、この薬草園を任せたい。必要なものは用意する」


 リリアは枯れた薬草園を見渡した。


 折れた名札。

 固い土。

 黒ずんだ井戸。

 それでも残っていた小さな芽。


 胸の奥で、昨日まで冷えていた場所に、ゆっくり火が灯る。


 役立たず。

 香り係。

 下働き。


 そう呼ばれてきた自分に、今、薬草園を任せたいと言ってくれる人がいる。


 リリアは小さく息を吸った。


 土の香りがした。


 弱く、苦しく、それでも生きたいと願う香り。


「……やらせてください」


 声はまだ少し震えていた。


 けれど、はっきりしていた。


「私にできることを、やってみたいです」


 ノアは頷いた。


「頼む」


 その一言が、リリアの胸に深く染み込んだ。


 頼まれた。


 命じられたのではなく。

 利用されたのでもなく。

 信じるように、頼まれた。


 リリアは目元が熱くなるのをこらえ、小さな芽に向き直る。


「まずは、この子の周りの土を少しだけ緩めます。水は井戸水を直接使わず、一度汲んで、銀葉ミントと白露草を浸した布で香りを整えてから……」


 言葉が自然と出てくる。


 ガレスがうんうんと頷きながら聞き、ノアはすぐに必要な人手を手配した。


 カイルたち騎士も、慣れない手つきで木箱や布を運び始める。


 薬草園に、人の動きが戻っていく。


 白い子狼は小さな芽のそばに座り、まるで番をするように胸を張っていた。


 その姿が少し可笑しくて、リリアはまた笑った。


 昨日より自然に。


 ほんの少しだけ、自分の居場所ができ始めた気がした。


 けれど、その時。


 リリアが小さな芽の周囲の土を指で緩めた瞬間、土の奥から何か黒いものが覗いた。


「……これは」


 根ではない。


 細い蔓のようにも見える。


 だが、薬草の根とは香りが違う。


 焦げた花。

 腐った水。

 王都の聖香。


 あの匂いだ。


 リリアは息を呑んだ。


 土の中に、黒い根が張っている。


 一本ではない。


 小さな芽の下から、薬草園の奥へ向かって、何本も、何本も。


 まるでこの薬草園全体を、見えないところから締めつけているように。


 白い子狼が低く唸った。


 ノアが即座に剣へ手を伸ばす。


「リリア、下がれ」


 リリアは黒い根を見つめたまま、ゆっくりと呟いた。


「……この薬草園、枯れたんじゃありません」


 冷たい風が、枯れた茎を揺らす。


「ずっと、吸われていたんです」


 その言葉に応えるように、土の下の黒い根が、かすかに脈打った。

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