第5話 初めて眠れた騎士団長
礼拝堂の扉が、ひとりでに軋んだ。
ぎい、と。
古い金具が泣くような音だった。
玄関広間にいた全員が、息を止める。
騎士たちの手が、反射的に剣の柄へ伸びた。
ガレスは薬箱を抱えたまま、低く舌打ちする。
「またか……」
「また?」
リリアが聞き返すと、ガレスは険しい顔で礼拝堂へ続く廊下を睨んだ。
「あの扉は、誰も触れとらんのに夜中に鳴る。開くことはない。だが、鳴る。まるで中の何かが、外へ出たがっているようにな」
白い子狼が、リリアの腕の中で小さく震えた。
額の月の紋は、もう消えている。
けれど毛並みの奥にある雪の香りが、不安に揺れていた。
リリアはそっと子狼を抱き直す。
「大丈夫。今は行かないわ」
自分に言い聞かせるような声だった。
ノアが礼拝堂の方から目を離さずに言う。
「今日は近づかない。リリアと守護獣の治療が先だ」
「当然じゃ」
ガレスは即答した。
「団長、お前さんもな」
「私は後でいい」
「よくないわい。三日寝とらん顔をしておる」
「二日だ」
「変わらん」
あまりにも自然なやり取りに、リリアは少しだけ目を瞬かせた。
辺境騎士団長というから、もっと近寄りがたい人物だと思っていた。
実際、ノアの立ち姿は隙がなく、言葉も少ない。
けれど、ガレスの叱責を受け流す横顔には、どこか慣れた気配があった。
この人は、周りから大切にされている。
そう感じた。
「薬室へ行くぞ。娘さん、歩けるか?」
「はい。大丈夫です」
答えた直後、リリアの膝から力が抜けかけた。
慌てて踏みとどまる。
黒い蔓をほどいた時から、身体の奥が熱を持ったように重かった。
そこへ雨に濡れ、緊張し続けたせいで、思った以上に消耗していたらしい。
ノアが即座に手を伸ばした。
「無理をするな」
「す、すみません」
「謝ることではない」
彼はそう言うと、リリアが抱いている子狼へ視線を落とした。
「守護獣を預かる」
リリアは一瞬迷った。
子狼がノアに噛みついたという話を思い出したからだ。
だが、ノアは無理に手を伸ばさなかった。
リリアの返事を待っている。
その態度に、胸の奥が少しだけ緩む。
「この子が嫌がらなければ……」
リリアは子狼へ顔を近づけた。
「ノア様に、少しだけ抱っこしてもらえる? あなたのことを心配している人よ」
子狼は青い目でノアを見た。
数秒。
それから、渋々というように鼻を鳴らす。
ノアは慎重に子狼を受け取った。
まるで壊れやすい宝物に触れるような手つきだった。
子狼は少し身じろぎしたが、牙は剥かなかった。
カイルが目を丸くする。
「団長、噛まれてませんね」
「黙れ」
「はい」
リリアは小さく笑ってしまった。
笑った直後、自分の頬が緩んでいることに気づいて、胸が詰まる。
神殿を追い出されて、まだ半日も経っていない。
婚約を破棄され、役立たずと笑われ、行き場をなくした。
それなのに、こんなふうに笑える瞬間がある。
それが少し、不思議だった。
薬室は玄関広間から東棟へ進んだ先にあった。
広い部屋ではない。
壁一面に棚があり、乾燥薬草の束や瓶詰めの軟膏、粉薬がぎっしり並んでいる。
だが、リリアは部屋に入った瞬間、眉をひそめた。
「……湿気が多いです」
ガレスが振り返る。
「分かるか」
「はい。乾燥薬草の香りが重くなっています。特に、そこの棚の奥……月眠草でしょうか。少し蒸れています」
リリアが指さすと、ガレスは目を見開いた。
すぐに棚の奥から束を取り出す。
青みがかった細い葉の薬草は、一見きちんと乾燥しているように見えた。
だが束をほどくと、中心部分がわずかに黒ずんでいる。
「本当じゃ……。昨日確認した時は無事だったはずだが」
「この部屋、夜になると冷えますか?」
「ああ。石壁が冷える。朝には瓶が汗をかくほどだ」
「それなら、月眠草は上の棚より、布で包んで木箱に入れたほうがいいです。香りが逃げやすいので、湿気を吸うと眠りの効き目が濁ります」
言い終えて、リリアははっとした。
また勝手に口を出してしまった。
「あ、すみません。私、つい……」
「謝るな」
ガレスの声は強かった。
怒られると思って身を縮めたリリアは、驚いて顔を上げる。
老薬師は、黒ずんだ月眠草を悔しそうに見つめていた。
「こちらが気づかんかったことを教えてくれたんじゃ。謝られては、わしの立つ瀬がない」
「……でも、私は正式な薬師ではありません」
「薬草が傷んでいることも分からん正式な薬師より、傷みに気づく下働きのほうがよほど役に立つ」
その言葉に、リリアの胸が小さく震えた。
神殿では、正式でないことがすべての否定だった。
けれどここでは、結果を見てくれる。
見えない仕事を、仕事として扱ってくれる。
「ありがとうございます」
リリアは小さく頭を下げた。
「礼は後じゃ。まず手首を出しなさい」
ガレスは椅子を引き、リリアを座らせた。
ノアは子狼を柔らかな布の上に寝かせる。
子狼はリリアの近くがいいのか、布の上で身体を丸めながらも、じっと彼女を見ていた。
リリアが手首を差し出すと、ガレスは薬液を染み込ませた布でそっと拭った。
「痛むぞ」
「はい」
分かっていても、消毒液が触れた瞬間、リリアは肩を跳ねさせた。
「っ……」
ノアがわずかに動く。
しかし手を出しはしない。
ただ、リリアが耐えられるよう、静かにそばに立っていた。
それがありがたかった。
大丈夫かと何度も聞かれるより、痛がるなと叱られるより、ただそばにいてくれることが。
ガレスは黒い痕を観察し、低く唸った。
「呪いそのものは抜けかけておる。だが、痕が残っとるな。数日は熱が出るかもしれん」
「この子は?」
リリアは自分の手首より先に、子狼を見た。
ガレスは苦笑する。
「自分より守護獣様か」
「だって、この子のほうが深く巻かれていましたから」
子狼が、くうんと鳴いた。
ガレスは子狼の傷も確かめ、眉間に皺を寄せる。
「傷は浅くないが、命には届いておらん。ただ、呪いの残り香……いや、残滓がある。普通の解呪薬では薄めるのが精一杯じゃな」
リリアは無意識に鼻先へ意識を集中した。
子狼からは、まだ焦げた蔓の匂いがする。
けれど、先ほどよりは薄い。
それに、薬室にある薬草の中で、いくつか合いそうな香りがあった。
「ガレス様」
「ガレスでいい。様はいらん」
「では、ガレスさん。この子に、月眠草と銀葉ミント、それから……棚の右上にある甘い香りの根を少し使えませんか」
「甘い香りの根?」
ガレスは棚を見上げる。
「蜜根か?」
「名前は分かりません。でも、優しく温める香りがします。月眠草だけだと眠りが深くなりすぎるかもしれないので、銀葉ミントで呪いの焦げを散らして、蜜根で身体を安心させるほうが……」
途中で言葉が弱くなる。
また、感覚で話している。
ガレスはしばらくリリアを見ていた。
そして、にやりと笑った。
「面白い」
「え?」
「やってみよう」
「いいんですか?」
「守護獣様は、あんたの香りに一番落ち着いておる。わしが下手に強い薬を使うより、その感覚に乗ったほうがよさそうじゃ」
信じてもらえた。
その事実に、リリアは一瞬、言葉を失った。
ノアが静かに言う。
「必要なものを言ってくれ」
「では……小さな鍋と、お湯を。沸かしたてではなく、少し冷ましたものがいいです。あと、清潔な布と、できれば蜂蜜を少し」
「カイル」
「すぐに!」
カイルが走って出ていく。
薬室の中が、一気に動き始めた。
ガレスは薬草を出し、ノアは火鉢の位置を整える。
別の騎士が布を運び、侍女らしき女性が小瓶の蜂蜜を持ってくる。
リリアは戸惑いながらも、手を動かした。
月眠草は少しだけ。
銀葉ミントは葉先を中心に。
蜜根は削りすぎない。
薬草を混ぜるたび、香りの層が変わる。
眠り。
清涼。
ぬくもり。
そこに、リリアは自分の鞄から、神殿を出る時に持っていた乾燥白露草を一片だけ加えた。
澄んだ朝露の香りが、ふわりと立つ。
薬室の空気が、少しだけ軽くなった。
「……いい香りですね」
侍女がぽつりと言った。
彼女の目元にも、濃い疲れがある。
「この城に来てから、初めて息がしやすい気がします」
その言葉に、他の騎士たちも小さく頷いた。
リリアは驚いて周囲を見る。
自分はただ、子狼のために香りを整えただけだ。
けれど、その香りは部屋にいる人々にも届いているらしい。
ガレスが腕を組んで唸る。
「これは……薬効だけでは説明がつかんな」
ノアも黙って香草湯を見ていた。
リリアは小皿に少量を取り、冷ましてから子狼の鼻先へ近づける。
「少しだけ飲める?」
子狼は香りを嗅ぎ、ぺろりと舐めた。
もう一度。
さらにもう一度。
やがて小皿の中身を、ゆっくり飲み干す。
リリアは胸を撫で下ろした。
「よかった」
子狼は布の上で丸くなり、細い息を吐いた。
その身体から、焦げた匂いがまた少し薄くなる。
代わりに、雪の香りと、温められた薬草の香りが混じった。
「眠れそうです」
リリアが言うと、ガレスは子狼の呼吸を確かめて頷いた。
「たしかに落ち着いとる。熱も上がっておらん」
薬室に安堵が広がった。
ノアの肩からも、ほんの少し力が抜ける。
その瞬間、リリアは彼から強い焦げた香りを感じた。
子狼のものとは違う。
黒い蔓の呪いではない。
もっと内側にある、焼き切れそうな疲労の香り。
長く眠れず、気を張り続けた人の香り。
「ノア様」
「なんだ」
「……少しだけ、座っていただけませんか」
ノアが眉を動かす。
「私は問題ない」
「問題あります」
言ってから、リリアは自分の声に驚いた。
ノアも少し驚いたようだった。
カイルが口元を押さえている。
ガレスはにやにやしていた。
リリアは頬が熱くなるのを感じながらも、言葉を続けた。
「この部屋で一番、焦げた灯芯のような香りがします。ずっと眠っていない人の匂いです」
「また匂いか」
ノアの口調はそっけない。
けれど、馬鹿にしている響きではなかった。
リリアは頷く。
「はい。今のノア様は、倒れる一歩手前の香りがします」
「団長、座りましょう」
カイルが即座に言った。
「うるさい」
「リリアさんに一票です」
侍女も小さく手を上げる。
「私もです」
ガレスは笑いながら椅子を引いた。
「満場一致じゃな。座れ、団長」
ノアはしばらく抵抗するように立っていた。
しかし、子狼が布の上から顔を上げ、じっと彼を見た。
まるで、お前も言うことを聞け、とでも言うように。
ノアは小さく息を吐き、椅子に座った。
「少しだけだ」
「はい。少しだけでいいです」
リリアは香草湯をもう一杯分、薄く作り直した。
子狼用より月眠草を減らす。
銀葉ミントも控えめにする。
代わりに、蜜根をほんの少し増やした。
強制的に眠らせるのではなく、張りつめた神経をほどく香りにする。
リリアは器をノアへ差し出した。
「苦かったら、蜂蜜を足します」
「薬なら苦くても飲む」
「これは薬というより、香草茶です」
「香草茶」
ノアは少しだけ不思議そうに繰り返した。
それから器を受け取り、口をつける。
薬室が静まった。
ノアは一口飲み、しばらく黙った。
「……甘い」
「すみません。蜜根を入れすぎましたか?」
「いや」
彼はもう一口飲んだ。
「悪くない」
悪くない。
それだけの言葉なのに、リリアの胸にじんわりと温かいものが広がった。
誰かに、自分の整えた香りを否定されずに受け取ってもらえる。
それだけで、こんなにも嬉しい。
ノアは器を空にすると、椅子にもたれた。
「これで満足か」
「はい。あとは、少し目を閉じてください」
「眠るつもりはない」
「眠れなくても、目を閉じるだけでいいです」
「……分かった」
ノアは渋々目を閉じた。
薬室に、香草茶の柔らかな香りが満ちている。
雨音。
火鉢の小さな音。
子狼の寝息。
リリアはそっと息を吐いた。
ノアのまとう焦げた灯芯の香りが、少しずつ弱まっていく。
代わりに、冷たい森に朝が差し込むような、静かな香りがした。
五分。
十分。
誰も声を出さなかった。
やがて、ノアの呼吸が深くなる。
肩の力が抜け、眉間の皺が薄くなる。
カイルが目を見開いた。
「……寝てる」
ガレスが口元に指を当てる。
「静かにせい」
ノアは眠っていた。
椅子に座ったまま。
剣を腰に下げたまま。
それでも確かに、深く、穏やかに眠っていた。
薬室にいた騎士たちが、信じられないものを見るような顔をする。
侍女の目には、うっすら涙が浮かんでいた。
「団長が……眠ってる」
「いつ以来だ」
「少なくとも、私がこの城に来てから初めて見ました」
小さな囁きが広がる。
リリアは眠るノアを見つめた。
閉じた目元の疲労は濃い。
それでも、眠っている顔は思ったより若く、少しだけ無防備に見えた。
この人も、ずっと戦っていたのだ。
眠れないまま。
疲れても倒れず。
誰かを守るために。
リリアは胸の奥が痛くなった。
「よかった……」
小さく呟いた時、ガレスがリリアを見た。
その目は、先ほどまでの好奇心とは違っていた。
驚きと、確信。
「娘さん」
「はい」
「あんた、本当にただの下働きか?」
リリアは答えられなかった。
ずっと、そうだと思ってきた。
薬草園の下働き。
香り係。
役立たず。
でも今、ノアは眠っている。
神獣は穏やかに息をしている。
薬室の人々は、少しだけ楽そうに呼吸している。
リリアが整えた香りで。
「……分かりません」
正直に答えた。
「でも、私にできることがあるなら、やりたいです」
ガレスは満足そうに頷いた。
「なら、まずは休め。あんたも限界の匂いがする」
「え?」
「薬草のことばかり見とる者は、自分の根が乾いていることに気づかん。そういう顔じゃ」
リリアは言い返せなかった。
その時、眠っているはずのノアが、かすかに口を動かした。
「……リリア」
名前を呼ばれた。
寝言だったのかもしれない。
けれど、その声は不思議なほど優しかった。
リリアの胸が、どきりと跳ねる。
白い子狼も顔を上げ、青い瞳を細めた。
その額に、淡い月の紋が再び浮かぶ。
同時に、部屋の奥の棚で、リリアの木箱がかすかに震えた。
母の香炉石が、箱の中で淡く光っている。
そして、玄関広間の方からまた、あの音が聞こえた。
ぎい、と。
封鎖された礼拝堂の扉が、もう一度、軋んだ。




