第4話 呪われ古城の香り
辺境騎士団の馬車は、王都から北へ北へと進んだ。
雨は止まない。
車輪が泥を跳ね、窓の外では灰色の森が流れていく。
王都の整えられた並木道とは違い、北の街道は荒れていた。ところどころ石畳が剥がれ、深い轍には濁った水が溜まっている。
リリアは馬車の隅で、白い子狼を膝に抱えていた。
子狼は外套にくるまれ、浅い寝息を立てている。
脇腹の傷には、騎士団が持っていた応急用の布が巻かれていた。
先ほどまで震えていた身体は、少しだけ温かい。
「よかった……」
リリアが小さく呟くと、子狼の耳がぴくりと動いた。
眠っているのに、まるで返事をしたみたいだった。
向かいの席には、辺境騎士団長ノア・レーヴェンが座っている。
雨に濡れていた黒髪は軽く拭われていたが、まだ少し湿っていた。
灰色の瞳は鋭い。けれど、リリアを見る目に、神殿の人々のような嘲りはない。
それが逆に、リリアを落ち着かなくさせた。
「あの……本当に、私まで乗せていただいてよかったのでしょうか」
「君の手首に呪痕が残っている」
ノアは短く答えた。
「守護獣を助けた者を、傷ついたまま雨の中に置いていく理由はない」
「でも、私は……身元もはっきりしない者です」
「名は聞いた」
「リリア・エルム、という名前だけです」
「それで十分だ」
あまりにも当然のように言われて、リリアは言葉に詰まった。
神殿では、名前よりも肩書きが大切だった。
聖香師見習い。
神官騎士。
神官長。
聖女候補。
リリアにあったのは、正式な肩書きではなく、香り係という呼び名だけ。
けれどノアは、リリアという名前を聞いただけで、十分だと言った。
胸の奥に、慣れない温かさが生まれる。
「……ありがとうございます」
リリアは頭を下げた。
ノアは少しだけ視線をそらす。
「礼を言うのはこちらだ。守護獣を助けてくれた」
「この子は、やっぱり神獣なのですか?」
リリアは膝の上の子狼を見る。
白銀の毛。
青い瞳。
額に一瞬だけ浮かんだ月の紋。
神殿の古書に描かれていた神獣に、確かに似ていた。
ノアは数秒だけ沈黙した後、静かに頷いた。
「黒森の守護獣だと伝えられている。もっとも、我々が姿を確認できたのは数日前が初めてだ」
「数日前……」
「ああ。古城周辺で魔獣の動きが急に荒くなった。森の奥に調査隊を出したところ、この子の気配を見つけた。だが、追跡中に黒い呪縛の反応が出て、見失った」
「それで、探していたんですね」
「間に合わないかと思った」
ノアの声は淡々としていた。
けれど、その指がわずかに握られているのをリリアは見た。
この人は、感情を表に出すのが得意ではないのだろう。
そう思った瞬間、子狼が薄く目を開けた。
青い瞳がノアを見て、それからすぐにリリアの胸元へ顔を押しつける。
ノアの眉がわずかに動いた。
「……ずいぶん懐かれているな」
「懐いている、のでしょうか」
「少なくとも、私にはそんな顔をしない」
「そうなんですか?」
「噛まれた」
リリアは思わず子狼を見た。
子狼は知らんぷりをするように、目を閉じている。
ノアの隣に座っていた若い騎士が、必死に笑いを堪えて肩を震わせた。
「団長、あれは仕方ありませんよ。近づいた瞬間、ものすごい顔で威嚇されてましたし」
「カイル」
「はい、黙ります」
若い騎士、カイルは姿勢を正した。
だが口元は笑っている。
騎士団というものは、もっと張りつめた場所だと思っていた。
神殿騎士のように、常に規律と面目を重んじるものだと。
けれど、この馬車の中には少し違う空気がある。
疲れている。
警戒もしている。
それでも、どこか人の温度があった。
リリアは子狼の背をそっと撫でた。
指先に、まだ黒い呪いの焦げ臭さが残っている。
けれどその下にある雪の香りは、少しずつ澄んできていた。
「この子、まだ呪いが残っています」
リリアが呟くと、ノアの視線がこちらに向いた。
「分かるのか」
「はい。傷そのものより、香りの奥に焦げたようなものが残っていて……うまく言えないのですが、黒い蔓が完全に消えたわけではない気がします」
言ってから、リリアは身を縮めた。
また変なことを言ってしまった。
香りがどうとか。
焦げたようなものが残っているとか。
神殿なら、ここで笑われる。
感覚だけで物を言うなと叱られる。
けれど、馬車の中は静かだった。
誰も笑わない。
カイルも、ノアも、他の騎士たちも、真剣にリリアの言葉を聞いている。
ノアが低く言った。
「古城に着いたら、その感覚を薬師に伝えてくれ」
「信じてくださるのですか?」
思わず聞いてしまった。
ノアはわずかに目を細める。
「君は、黒い呪縛を解いた。こちらの魔術師が触れることもできなかったものをだ」
「それは、たまたまかもしれません」
「たまたまで守護獣の呪縛は解けない」
淡々とした声だった。
だからこそ、言葉がまっすぐ届いた。
リリアは膝の上で手を握る。
赤く腫れた手首には、黒い痕が薄く残っている。
痛みはまだあった。けれど不思議と、先ほどより怖くはなかった。
「……ありがとうございます」
「礼は、古城で治療してからでいい」
ノアは窓の外へ目を向けた。
「もうすぐ着く」
その言葉の通り、森の向こうに黒い影が見え始めた。
最初は、山かと思った。
けれど近づくにつれ、それが巨大な城壁だと分かる。
黒い石で築かれた古城。
高い塔。
厚い城門。
雨雲の下に沈むその姿は、王都の大神殿とはまるで違っていた。
美しい、というより重い。
荘厳、というより寂しい。
長い時間、誰かを待ち続けて疲れ果てた巨人のように、古城は黒森の入口に立っていた。
その周囲に、薄い霧が漂っている。
リリアは思わず窓に近づいた。
「……匂う」
口からこぼれた言葉に、ノアが反応する。
「何がだ」
「冷たい石の匂いと、湿った森の匂い。それから……古い香炉の灰みたいな匂いがします」
胸の奥がざわつく。
雨に濡れた古城から漂ってくる香りは、ただ古びているだけではなかった。
閉じ込められた空気。
眠れない夜。
誰かが泣いた後の、冷えた部屋。
枯れた薬草。
そして、黒く焦げた呪いの匂い。
それらが幾重にも重なっている。
リリアは無意識に子狼を抱く腕に力を込めた。
子狼もまた、古城へ近づくほど落ち着かなくなっていた。
耳を伏せ、尻尾を丸め、リリアの胸元に顔を押しつける。
「大丈夫」
リリアは小さく囁いた。
「私も少し怖いけど、一緒にいるわ」
子狼が、くうんと鳴いた。
馬車が城門をくぐる。
重たい門が閉じる音が、雨の中に響いた。
中庭には騎士たちが慌ただしく集まっていた。
傷を負った者。
眠そうに目元をこする者。
雨具を着たまま荷を運ぶ者。
皆、疲れている。
リリアはすぐに分かった。
この古城には、休めている人がほとんどいない。
香りが尖っているのだ。
汗と鉄と薬草の匂い。
それ自体は騎士団なら当然だろう。
けれど、その奥にあるべき眠りの香りがない。
夜に身体を休め、朝に目覚める人の柔らかな匂いが、あまりにも薄い。
代わりに、焦げた灯芯のような香りが漂っている。
無理に目を開け続けた時の、疲れた心の匂い。
馬車の扉が開いた。
ノアが先に降り、リリアへ手を差し出す。
「足元が悪い」
「あ、ありがとうございます」
リリアは子狼を抱いたまま、慎重に馬車を降りた。
ぬかるんだ石畳に足を置いた瞬間、古城全体の香りが一気に鼻へ流れ込んできた。
「っ……」
思わずよろめく。
ノアがリリアの肩を支えた。
「大丈夫か」
「はい……少し、香りが強くて」
「香り?」
「この城……ずっと眠れていない人の匂いがします」
周囲の騎士たちが、ぴたりと動きを止めた。
リリアははっとする。
また言ってしまった。
初対面の人々の前で、眠れていない匂いがするなどと。
失礼だったかもしれない。
「あの、すみません。変な意味ではなくて――」
「当たってる」
カイルがぽつりと言った。
彼は雨に濡れた髪をかき上げ、苦笑する。
「ここ一月、まともに眠れてる奴のほうが少ないです。眠っても悪夢を見るし、起きても身体が重い。団長なんて、三日連続で寝てないこともありますし」
「カイル」
「事実でしょう」
ノアが軽く睨むと、カイルは肩をすくめた。
リリアはノアを見る。
三日連続で眠っていない。
そう聞いて初めて、彼の目元に薄い影があることに気づいた。
背筋はまっすぐで、声も乱れない。だから分かりにくい。
でも彼もまた、疲れている。
この古城の誰よりも、濃い焦げた灯芯の匂いをまとっていた。
「ノア様も……眠れていないのですか」
「慣れている」
答えになっていない答えだった。
リリアは少しだけ眉を寄せた。
慣れていいことではない。
そう言いかけたが、今の自分が口を出していいのか迷った。
その時、中庭の奥から怒鳴り声が飛んできた。
「団長! 守護獣様は見つかったのか!」
大きな薬箱を抱えた老人が、雨の中を走ってくる。
白髪交じりの髭。
丸い眼鏡。
腰には薬草袋がいくつも下がっている。
年齢のわりに足取りは速いが、途中でぬかるみに足を取られて転びかけた。
「ガレス、走るな」
「走らずにいられるか! こちとら心臓が止まるかと思って――」
老人はリリアの腕の中の子狼を見て、言葉を止めた。
そして次の瞬間、膝から崩れ落ちそうな勢いで近づいてくる。
「守護獣様!」
子狼はびくりと震え、リリアの胸元へさらに顔を隠した。
老人、ガレスは手を伸ばしかけ、ぴたりと止める。
「……おや」
彼の視線が、子狼からリリアへ移った。
「そのお嬢さんは?」
「リリア・エルム。守護獣の呪縛を解いた」
ノアが説明すると、中庭にいた騎士たちがざわめいた。
ガレスの目が丸くなる。
「呪縛を? この娘さんが?」
「香りを整えたそうだ」
「香り……?」
ガレスは怪訝そうに眉をひそめた。
リリアの肩が少しこわばる。
やはり、変に思われる。
だがガレスは笑わなかった。
代わりに、リリアの手首を見た途端、表情を険しくした。
「その痕を見せなさい」
「あ、はい」
リリアは子狼を抱えたまま、手首を差し出す。
黒い蔓に巻かれた痕は、赤黒く腫れていた。
その周囲に、細い蔓の模様のようなものがうっすら浮かんでいる。
ガレスは眼鏡を押し上げ、低く唸った。
「呪い返しを受けとる。早く中へ。守護獣様も、この娘さんも、雨に当てておく場合ではない」
そう言ってから、彼はふとリリアの鞄に目を留めた。
鞄の口から、乾燥薬草を包んだ布が少し覗いている。
「娘さん、薬草を扱うのか」
「はい。王都の神殿薬草園で、下働きをしていました」
「下働き?」
ガレスの眉が跳ね上がる。
「守護獣様の呪縛を解く下働きがあるか」
あまりにも不満そうに言われて、リリアは瞬きをした。
怒られているのに、なぜか胸が少し温かい。
神殿では、下働きのくせに出過ぎたことをするなと言われた。
ここでは、下働きの一言に、ガレスのほうが納得していない。
「ともかく中だ。団長、客室より先に薬室へ。いや、守護獣様は温めねばならん。湯も沸かせ! 清潔な布もだ!」
「分かった」
ノアが短く返事をし、騎士たちが一斉に動き出す。
その速さに、リリアは驚いた。
神殿では、何かを変えるには許可が必要だった。
香炉を替えるにも、聖水を汲み直すにも、上の判断を待たなければならなかった。
でもここでは、必要だと分かればすぐに動く。
荒れている。
疲れている。
けれど、誰かを助けるための動きは早い。
古城の中へ入ると、冷たい空気が頬に触れた。
広い玄関広間。
黒い石壁。
古い紋章旗。
壁際には鎧が並び、天井からは鉄の灯りが吊るされている。
王都の大神殿のような華やかさはない。
だが、ここには別の美しさがあった。
無骨で、傷だらけで、それでも立ち続けている美しさ。
ただ――。
「……これは」
リリアは足を止めた。
玄関広間の奥から、ひどく濃い匂いが流れてくる。
焦げた薬草。
錆びた水。
眠れない夜。
それに、古い血のような匂い。
まるで城全体の奥底で、何かが腐らずに燃え続けているみたいだった。
子狼が低く唸る。
ノアが振り返った。
「どうした」
リリアは広間の奥を見つめた。
長い廊下の先。
閉ざされた扉の向こう。
そこから、呪いの香りが濃く漂っている。
「奥に……何かありますか」
ノアの顔つきが変わった。
「礼拝堂がある」
「礼拝堂……」
「三十年前から封鎖されている。古城の呪いが始まった場所だと言われている」
リリアの背筋に冷たいものが走った。
やはり。
この城の香りは、どこか一箇所から広がっている。
神殿の温室で感じた焦げた匂い。
白い子狼に絡んでいた黒い蔓の匂い。
王都の聖香に混じっていた、あの濁り。
全部が、どこかで繋がっている気がした。
リリアは胸元の木箱を抱きしめる。
中の香炉石が、かすかに温かくなった。
ノアが一歩近づく。
「リリア」
「はい」
「君には、この城がどう感じる」
その問いに、周囲の騎士たちも、ガレスも息を潜めた。
笑われていない。
試されてもいない。
ただ、必要とされている。
リリアはゆっくりと息を吸った。
冷たい石。
濡れた鉄。
疲れた人々。
眠れない夜。
守りたいのに守りきれない焦り。
そして、その奥にある、黒く焦げた呪い。
けれど、完全に腐ってはいない。
雨上がりの土の下で、まだ芽吹こうとしている薬草の香りがある。
この城は、死んでいない。
まだ、助けを求めている。
リリアはノアを見上げた。
「この古城は、苦しんでいます」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「でも、まだ終わっていません。奥のほうに、焦げた香りがあります。たぶん、呪いの中心に近いものです。でも……その下に、まだ生きている香りもあります」
ノアの灰色の瞳が、わずかに揺れた。
「生きている香り?」
「はい」
リリアは腕の中の子狼をそっと撫でた。
「整えれば、きっと戻ります。薬草園も、人も、この城も」
言ってから、リリアは胸が震えた。
なぜそんなことを断言できたのか、自分でも分からない。
けれど、香りがそう言っていた。
ここにはまだ、戻れるものがある。
失われていないものがある。
ノアは長い間、黙っていた。
やがて彼は、静かに口を開く。
「なら、教えてくれ」
「え?」
「君には、何が匂う?」
神殿で何度も笑われた言葉。
香りがする。
香りが違う。
香りが乱れている。
けれど今、ノアはそれを笑わずに聞いた。
教えてくれ、と。
リリアの胸の奥で、冷えて固まっていた何かが、少しだけほどけた。
彼女は小さく頷いた。
「……はい。私に分かることなら」
その瞬間、腕の中の白い子狼が顔を上げた。
額の月の紋が、淡く光る。
同時に、閉ざされた礼拝堂のほうから、かすかな音が聞こえた。
ぎい、と。
誰も触れていないはずの古い扉が、ひとりでに軋んだ。




