第3話 雨の街道と白い子狼
北門を抜けた頃、空から細い雨が落ち始めた。
ぽつり、ぽつりと石畳を濡らしていた雨粒は、やがて王都の外へ続く街道を薄く煙らせるほどになった。
リリアは古い外套の襟を寄せ、鞄を胸に抱え直した。
王都の外を一人で歩くのは、いつ以来だろう。
神殿に入ってからは、ほとんど外へ出ることがなかった。
薬草の買い付けに付き添ったことはある。
祝祭日に街へ出たこともある。
けれど、それはいつも誰かの許可があり、決められた時間に戻る場所があった。
今は違う。
戻る場所は、もうない。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた声は、雨音に吸い込まれた。
北へ続く街道は、王都を離れるにつれて人通りが少なくなっていく。
昼を過ぎる頃には、すれ違う馬車もまばらになった。
リリアは道端の木陰で足を止め、管理人にもらった包みを開いた。
固いパン。
干し果物が三つ。
小さなチーズの欠片。
それは神殿にいた頃の食事に比べれば質素だったが、今のリリアには何よりありがたかった。
「いただきます」
両手を合わせ、小さくパンをかじる。
固い。
けれど、噛むほどに小麦の甘さが滲んだ。
ふと、薬草園の孤児たちの顔が浮かぶ。
神殿には、身寄りのない子どもたちを一時的に預かる小さな宿舎があった。
リリアは薬草園の手伝いに来た子どもたちに、余った果物や、香草を混ぜた温かい飲み物をよく分けていた。
あの子たちは今頃、どうしているだろう。
温室の窓は、ちゃんと開けてもらえているだろうか。
銀葉ミントは、日陰に移してもらえただろうか。
白露草の根元に、水が溜まりすぎてはいないだろうか。
考え始めると、胸が痛くなる。
「だめ。もう、私は……」
戻れない。
言葉にしようとして、リリアは唇を噛んだ。
その時だった。
風が吹いた。
雨に濡れた草の匂いに混じって、かすかに別の香りが届く。
血の匂い。
それから、焦げた羽根のような、嫌な臭い。
リリアは顔を上げた。
「……何?」
街道の先ではない。
道から少し外れた、木立の奥だ。
普通なら気づかないほど微かな匂いだった。
けれどリリアの胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
助けを求める香り。
神殿を出た時、北の空から感じたものと似ていた。
リリアは迷った。
森に入るのは危険だ。
王都周辺とはいえ、街道を外れれば獣もいる。
荷物も少なく、身を守る術もない。
けれど。
「……見過ごしたら、きっと後悔する」
リリアは包みを片づけ、鞄を肩にかけた。
ぬかるんだ草を踏み、木立の奥へ進む。
雨に濡れた枝が外套に触れた。
靴の底に泥がまとわりつく。
足元の石に何度もつまずきそうになる。
それでも、香りは少しずつ濃くなっていった。
血。
濡れた毛。
そして、黒く焦げた魔力の匂い。
「誰か、いるの……?」
リリアが声をかける。
返事はない。
代わりに、低い唸り声が聞こえた。
茂みの向こう。
大きな倒木の根元に、白いものがうずくまっている。
リリアは息を呑んだ。
子犬、ではない。
狼の子どもだ。
雪のような白い毛並み。
けれど今は雨と泥で汚れ、脇腹には赤い血が滲んでいる。
前足には黒い蔓のようなものが絡みつき、皮膚に食い込んでいた。
白い子狼は、リリアに気づくと牙を剥いた。
「グルル……」
「大丈夫」
リリアは両手を見せるようにして、ゆっくり膝をついた。
「怖がらせるつもりはないわ。傷を見せてくれる?」
子狼はさらに低く唸る。
当然だ。
痛くて、怖くて、知らない人間が近づいてきたのだから。
リリアは無理に手を伸ばさなかった。
かわりに、鞄から乾燥させた銀葉ミントと月桂花を取り出す。
道具は少ない。
聖水もない。
薬鉢もない。
けれど、温めるための小さな携帯用火打ち石と、薬草を包んだ布ならある。
リリアは近くに落ちていた平たい石を雨で洗い、薬草を指で細かく揉んだ。
ふわりと、清涼な香りが広がる。
子狼の耳がぴくりと動いた。
「痛いところに触る前に、少しだけ香りを整えるね」
返事はない。
けれど唸り声が、ほんの少しだけ弱くなった。
リリアは薬草を掌に乗せ、息を吹きかける。
香りが雨に溶ける。
銀葉ミントの青い香り。
月桂花のやわらかな甘さ。
そこに、リリアが持っていた干し果物の皮を少しだけ混ぜる。
甘い香りに警戒が和らいだのか、子狼の鼻先がぴくぴくと動いた。
「そう。いい子ね」
リリアは小さく微笑んだ。
その瞬間、自分でも驚いた。
神殿を出てから、初めて自然に笑えた気がした。
少しずつ、少しずつ距離を詰める。
子狼は唸ったが、逃げようとはしなかった。
いや、逃げられないのだ。
前足に絡んだ黒い蔓が、倒木の根にまで巻きついている。
リリアは蔓を見て、眉をひそめた。
植物ではない。
植物の形をしているだけの、呪いに近い何かだ。
焦げた羽根の匂いは、ここからしている。
「ひどい……。こんなものを巻かれていたら、痛かったでしょう」
子狼が小さく震えた。
リリアは慎重に手を伸ばす。
黒い蔓に触れた瞬間、指先に焼けるような痛みが走った。
「っ……!」
思わず手を引く。
指先が赤くなっていた。
ただの蔓ではない。
魔力を吸い上げる呪具のようなものだ。
こんなものが小さな身体に食い込んでいるなんて。
リリアの胸に、静かな怒りが灯った。
「大丈夫。必ず外すから」
子狼の青い瞳が、リリアを見た。
人の言葉が分かるはずはない。
それでも、リリアには伝わった気がした。
信じていいのか。
そう問われたような気がした。
リリアは深く息を吸う。
雨。
泥。
血。
焦げた呪い。
その奥にある、子狼自身の香りを探す。
かすかに、雪の匂いがした。
冬の朝、まだ誰にも踏まれていない新雪。
冷たくて、清らかで、少し寂しい香り。
「……見つけた」
リリアは呟いた。
黒い蔓の匂いを、子狼の香りから少しずつ切り離す。
神殿で聖香を整える時と似ていた。
強すぎる薬草を弱める。
濁った聖水を除く。
相性の悪い香りを遠ざける。
ただ、それを香炉ではなく、生き物の傷で行うだけ。
怖かった。
失敗したら、この子をもっと傷つけるかもしれない。
リリアは、香炉石の入った木箱を開けた。
欠けた銀の香炉石を取り出す。
雨に濡れた石は冷たい。
けれど、手のひらに乗せると、またほんのり温かくなった。
「お母さま……力を貸して」
祈るように囁き、リリアは香炉石を黒い蔓の近くへかざした。
淡い緑の光が、石の欠け目から滲む。
子狼が目を見開いた。
黒い蔓が、じゅう、と音を立てる。
焦げ臭さが強くなった。
「大丈夫。もう少し、我慢して」
リリアは左手で薬草を揉み、右手で香炉石をかざす。
銀葉ミントの青。
月桂花の甘さ。
干し果物の柔らかな香り。
そして、白い子狼自身の雪の匂い。
それらを重ねて、黒い蔓だけを押し出す。
「あなたの香りは、これじゃない」
リリアは静かに言った。
「こんな焦げた匂いに、負けなくていい」
ぴしり。
蔓に細い亀裂が入った。
リリアの指先が熱を持つ。
額に汗が滲む。
雨で濡れているはずなのに、身体の内側だけがひどく熱い。
ぴしり、ぴしり。
黒い蔓が割れていく。
子狼が苦しげに鳴いた。
「ごめんね、痛いね。でも、もう少しだから」
最後の一本が前足に深く食い込んでいる。
リリアは息を止め、香炉石を近づけた。
その瞬間、黒い蔓がまるで生き物のように跳ねた。
リリアの手首に巻きつこうとする。
「きゃっ!」
逃げる間もなかった。
黒い蔓がリリアの手首を締めつける。
焼けるような痛み。
視界が歪んだ。
嫌な香りが、一気に鼻を満たす。
焦げた花。
腐った水。
濡れた灰。
そして、その奥から、誰かの笑い声のようなものが聞こえた気がした。
――見つけた。
「……っ」
リリアは歯を食いしばった。
怖い。
気持ち悪い。
逃げたい。
けれど、手を引けば子狼に戻ってしまう。
リリアは震える手で香炉石を握りしめた。
「離れなさい」
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「この子は、あなたのものじゃない」
緑の光が強くなる。
黒い蔓が痙攣した。
「私だって……もう、黙って奪われるだけではいたくない」
それは、子狼に向けた言葉だったのか。
黒い蔓に向けた言葉だったのか。
それとも、神殿に残してきた自分自身に向けた言葉だったのか。
分からない。
ただ、リリアは初めて、自分の中にあった怒りを認めた。
大切なものを壊された。
積み重ねてきた日々を笑われた。
役立たずだと決めつけられた。
悲しいだけではなかった。
悔しかった。
悔しくて、たまらなかった。
「だから、離して」
香炉石の光が弾けた。
黒い蔓が、乾いた音を立てて砕け散る。
子狼の前足から、呪いの残骸が落ちた。
同時に、リリアの身体から力が抜ける。
「よかっ……た……」
膝をつきそうになったリリアの腕に、温かいものが触れた。
子狼だった。
先ほどまで牙を剥いていた白い子狼が、傷ついた身体を引きずりながら、リリアの手首を舐めている。
赤く腫れた手首。
そこに残った黒い痕。
子狼は申し訳なさそうに、くうん、と鳴いた。
「あなたが悪いんじゃないわ」
リリアはそっと子狼の頭を撫でた。
白い毛は濡れて冷たかった。
けれど、その奥に確かな温もりがある。
「よく頑張ったね」
子狼は青い目を細めた。
その瞬間、リリアの手の中の香炉石が、また淡く光った。
子狼の額に、小さな紋様が浮かぶ。
銀色の三日月のような印。
「……え?」
ただの狼ではない。
リリアにも、それだけは分かった。
神殿の古い書庫で見たことがある。
白銀の毛。
青い瞳。
月の紋。
それは、神獣の特徴として描かれていたものに似ていた。
「あなた……もしかして」
言いかけた時、遠くから馬の嘶きが聞こえた。
リリアははっと顔を上げる。
街道のほうだ。
馬車の音ではない。
複数の馬が、速く駆けてくる音。
子狼が耳を伏せ、リリアの外套の影に身を寄せた。
誰かに追われているのだろうか。
黒い蔓を巻いた者たちが、戻ってきたのかもしれない。
リリアは慌てて子狼を抱き上げようとした。
「大丈夫、隠れましょう」
だが、子狼は軽くなかった。
傷ついた小さな身体とはいえ、狼だ。
リリアの腕にはずしりと重い。
それでも何とか抱きしめ、倒木の陰へ身を寄せる。
雨音の向こうで、馬蹄が近づいてくる。
やがて、男の声がした。
「この辺りに反応があったはずだ!」
「団長、血の跡があります!」
団長。
その言葉に、リリアは息を潜めた。
茂みの向こうに、黒い外套をまとった騎士たちの影が見える。
王都の神官騎士ではない。
鎧の形が違う。
肩には、黒い翼を広げた獅子の紋章。
その中で、ひときわ背の高い男が馬から降りた。
濡れた黒髪。
鋭い灰色の瞳。
腰には長剣。
冷たい雨の中でも、その人だけは不思議と静かな熱をまとっているように見えた。
男は周囲を見回し、低い声で言った。
「神獣の気配が薄れている。急げ」
神獣。
やはり、この子狼のことだ。
リリアの腕の中で、白い子狼が小さく震える。
騎士たちは味方なのか。
それとも、またこの子を傷つける者たちなのか。
分からない。
リリアは子狼を抱く腕に力を込めた。
その時、黒髪の男がふいにこちらを向いた。
灰色の瞳が、まっすぐリリアを捉える。
「そこにいるのは誰だ」
リリアの心臓が跳ねた。
逃げられない。
隠れても無駄だ。
リリアは子狼を庇うように抱きしめたまま、ゆっくりと倒木の陰から立ち上がった。
雨に濡れた外套。
泥だらけの靴。
赤く腫れた手首。
そして、腕の中の白い子狼。
騎士たちが一斉に息を呑む。
黒髪の男の視線が、リリアの手首と子狼に向けられた。
「……君が、その呪縛を解いたのか」
リリアは迷った。
けれど、嘘をつく理由はなかった。
「たぶん……そうです」
「どうやって」
「香りを、整えました」
騎士たちが顔を見合わせる。
リリアも、自分で言ってから少しだけ恥ずかしくなった。
また、変なことを言ってしまった。
神殿で笑われたのと同じだ。
だが黒髪の男は、笑わなかった。
むしろ、息を詰めたようにリリアを見つめていた。
「香りを……?」
「はい。黒い蔓から、焦げたような匂いがしていたので。この子の香りとは違うと思って……」
男の表情が変わる。
驚き。
警戒。
そして、ほんのわずかな希望。
彼はゆっくりと剣から手を離し、雨の中で膝をついた。
リリアよりもずっと立派な騎士が、泥の上に片膝をついたのだ。
「失礼した。私は辺境騎士団長、ノア・レーヴェン」
リリアは目を瞬かせた。
辺境騎士団長。
王都から遠く離れた黒森を守る、レーヴェン辺境伯家の騎士団。
名前だけは聞いたことがある。
魔獣と呪いの森に最も近い、危険な地を守る者たち。
ノアはリリアの腕の中の子狼を見て、静かに続けた。
「その子は、我々が探していた守護獣だ。だが……」
彼の灰色の瞳が、今度はリリアに向けられる。
「君の手首の呪痕も放っておけない。よければ、我々の古城へ来てほしい」
「古城……?」
「医師と薬師がいる。雨宿りもできる。無理にとは言わない」
無理にとは言わない。
その言葉が、リリアの胸に静かに落ちた。
神殿では、誰もそんなふうに言わなかった。
命令。
否定。
決めつけ。
けれど、この人はリリアに選ばせようとしている。
リリアは腕の中の白い子狼を見た。
子狼は青い目でリリアを見上げ、小さく鼻を鳴らした。
行こう。
そう言っているように見えた。
遠くで雷が鳴る。
雨はさらに強くなっていた。
リリアは胸に抱いた木箱と、白い子狼の温もりを確かめる。
王都には戻れない。
けれど、北から呼ぶ香りはまだ続いている。
湿った森。
冷たい石。
黒く焦げた呪いの匂い。
そして、その奥にほんの少しだけ、まだ見ぬ薬草園の青い香りがした。
「……お願いします」
リリアは小さく頭を下げた。
「この子を、助けてあげたいんです」
ノアは一瞬だけ目を細めた。
それは笑みと呼ぶには淡すぎたけれど、リリアを馬鹿にするものではなかった。
「分かった」
彼は立ち上がり、リリアへ自分の外套を差し出した。
「まずは君も濡れないように。守護獣を助けた恩人を、これ以上冷やすわけにはいかない」
恩人。
その言葉に、リリアは胸の奥がきゅっと熱くなった。
役立たずではなく。
邪魔者でもなく。
恩人。
たった一言で、雨に濡れて冷え切っていた心に、温かい灯がともる。
リリアは外套を受け取り、白い子狼を抱きしめたまま、辺境騎士団の馬車へ向かった。
その背後。
倒木の根元に残った黒い蔓の欠片が、雨に打たれてじゅうと煙を上げる。
やがて欠片は泥の中へ沈み、最後にひとつだけ、焦げた花のような香りを残した。
その香りは、王都大神殿の聖香と同じものだった。




