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第2話 役立たずは薬草園を去る

 神殿の門を出た瞬間、リリアは足を止めた。


 振り返れば、白亜の大神殿が朝日に照らされている。


 高い尖塔。

 金の鐘。

 磨き抜かれた大理石の階段。


 幼い頃から、ずっと見上げてきた場所だった。


 父が亡くなり、母も病で倒れ、親戚の家を転々としていたリリアを引き取ったのが、この大神殿だった。

 正確には、神殿に多額の寄進をしていたエルム家の血筋を、神殿が利用価値ありと見ただけだったのかもしれない。


 それでも、リリアは感謝していた。


 屋根がある。

 食事がある。

 薬草園で働ける。


 それだけで十分だと思ってきた。


 誰にも褒められなくても。

 誰かの功績として扱われても。

 婚約者が義妹のほうばかりを見るようになっても。


 薬草は、リリアを裏切らなかった。


 香りは、嘘をつかなかった。


 だからリリアは、毎日、温室の窓を開けた。

 聖水の瓶を磨いた。

 乾燥棚の湿度を確かめた。

 香炉の銀膜に、ほんのわずかな傷も残さないよう布を替えた。


 それが、誰にも見えない仕事だとしても。


「……戻らなきゃ」


 ぽつりと呟いてから、リリアは自分で自分の言葉に気づいた。


 戻る?


 どこへ?


 つい先ほど、大広間で婚約を破棄された。

 職務も解かれた。

 大神殿への立ち入りも禁じられた。


 けれど、薬草園にはまだリリアの私物がある。

 母の形見の古い薬草鋏。

 使い込んだ香草帳。

 温室の隅に置いた作業着。


 それに、今日の聖香の異変を考えると、温室の状態だけは確認しておきたかった。


 リリアは門番の騎士へ向き直った。


「あの、裏手の薬草園に荷物を取りに行かせていただけませんか。すぐに出ます」


 門番は気まずそうに視線を逸らした。


「命令が出ている。リリア・エルムの大神殿立ち入りは禁止だ」


「でも、薬草園には私の――」


「すまない」


 短い言葉だった。


 けれど、その声には少しだけ同情が混じっていた。


 リリアは深く頭を下げた。


「……分かりました」


 それ以上、縋ることはできなかった。


 縋れば、また惨めになる。

 それに、門番を困らせたいわけでもない。


 リリアは踵を返した。


 その時、門の奥から甲高い声が響いた。


「お待ちくださいませ、お姉さま」


 振り返らなくても分かる。


 セシリアだった。


 白い神官服の裾を揺らしながら、彼女は数人の侍女を従えて歩いてくる。

 その少し後ろには、エルヴィンもいた。


 大広間での騒ぎの後だというのに、セシリアの髪は乱れていない。

 頬にはうっすら涙の跡らしきものがあるが、瞳は澄んでいた。


 いや、澄んでいるように見せていた。


「お姉さまのお荷物を持ってまいりましたの」


 セシリアが侍女へ目配せする。


 侍女は古びた布袋を、リリアの足元へ置いた。


 置いた、というより落とした。


 中から、薬草帳の角が見えた。

 母の薬草鋏も入っている。


 よかった。


 それだけで、リリアは胸の奥が少しだけ緩んだ。


 だが次の瞬間、息を呑む。


 布袋の口から覗いていた薬草帳の表紙に、黒い染みがついていた。


「これは……」


「慌ててまとめたものですから、多少汚れてしまったかもしれませんわ」


 セシリアは悪びれもせず微笑む。


「でも、もう必要ありませんでしょう? お姉さまは薬草園を解任されたのですもの」


 リリアは布袋を拾い上げた。


 薬草帳を取り出す。

 古い革表紙に、聖香油がこぼれていた。


 それも、ただの油ではない。


 先ほどの焦げた匂いと同じ、濁った香りがする。


「この油……どこから?」


「知りませんわ。お姉さまの管理が悪かったのではなくて?」


「違う。この香りは――」


「まだ香りの話をするのか」


 エルヴィンの声が低く響いた。


 リリアは顔を上げる。


 彼は冷たい目でリリアを見ていた。


 かつて、温室でリリアの手を取って「無理をするな」と言ってくれた人と同じ人物とは思えない。


「リリア。君には失望した」


「……失望、ですか」


「ああ。今日の君は、セシリアの晴れ舞台を台無しにしようとした。嫉妬に駆られた行動だと判断されても仕方ない」


「私は、聖香の異変を伝えただけです」


「その異変とやらを証明できるのか?」


 リリアは言葉に詰まった。


 香りは確かにあった。

 だが、証明できる形では残っていない。


 黒く濁った煙も、一瞬だった。


 誰も信じない。


 誰も見ていない。


 リリアだけが気づいた。


 それは、この場所では何の意味も持たない。


「……できません」


「なら、君の思い込みだ」


 エルヴィンは一歩近づいた。


「君は昔からそうだ。薬草の声がどうとか、香りが乱れているとか、曖昧なことばかり言う。神殿に必要なのは、正式な祈祷と認められた技術だ。君のような感覚頼りの下働きではない」


 リリアの手が、薬草帳を握りしめる。


 母の字で書かれた古い記録。

 その余白に、リリアが何年も書き足してきた香りの変化。


 雨の前には白露草が青く香る。

 聖水が濁ると月桂花が苦くなる。

 祈祷室の魔力が乱れると銀葉ミントが眠る。


 全部、思い込みだったのだろうか。


 いいえ。


 違う。


 リリアは唇を噛んだ。


 自分を信じきれなくても、薬草帳に積み重ねた日々だけは嘘ではない。


「私は……神殿の皆さまに、迷惑をかけたかったわけではありません」


「結果として、迷惑をかけた」


「はい。それは、申し訳ありません」


 リリアは頭を下げた。


 悔しかった。

 情けなかった。

 それでも、祝福式を止めようとして騒ぎになったことは事実だ。


 ただ。


 頭を下げる理由を、間違えたくはなかった。


「ですが、聖香が乱れていたことについては、撤回できません」


 空気が凍った。


 セシリアの笑顔が消える。


 エルヴィンの眉間に深い皺が刻まれた。


「まだ言うのか」


「はい」


 リリアは震える声で、それでもはっきりと言った。


「私は聖香師ではありません。神官でもありません。けれど、薬草園の香りだけは、ずっと見てきました。今日の聖香は、いつもの香りではありませんでした」


「見苦しいですわ、お姉さま」


 セシリアが悲しそうに目を伏せる。


「そんなに私が憎いのですか? 私が正式な聖香師見習いになったことが、そんなに悔しいのですか?」


「憎んではいないわ」


「では、どうして私の邪魔ばかりなさるの?」


 リリアは答えられなかった。


 邪魔をしたつもりはない。

 でも、セシリアにとっては邪魔だったのだろう。


 聖香の異変を指摘されることも。

 リリアが薬草帳に記録を残していることも。

 誰も気づかないところで、香りを整え続けていることも。


 きっと全部、邪魔だった。


「もういい」


 エルヴィンが冷たく言った。


「リリア・エルム。君には本日中に神殿宿舎からも退去してもらう」


「宿舎も……ですか」


「当然だ。大神殿の名誉を傷つけた者を置いておくわけにはいかない」


 喉の奥がきゅっと狭くなる。


 職場を失うだけではない。

 住む場所も失う。


 リリアは布袋を抱え直した。


「分かりました。すぐに出ます」


 すると、セシリアが小さく声を上げた。


「ああ、そうでしたわ。お姉さま」


 彼女は侍女から小さな木箱を受け取る。


「こちらも返しておきますわね」


 木箱の中には、古びた銀の香炉石が入っていた。


 リリアの母が残したものだ。


 聖香を焚く道具としては、あまりに古く、欠けもある。

 神殿の誰も価値を認めなかった。


 だが、リリアにとっては大切なものだった。


 母が最後に握っていた、唯一の形見。


「ありがとうございます」


 リリアは手を伸ばした。


 その瞬間、セシリアの指がわずかに滑る。


 木箱が傾いた。


 香炉石が地面に落ちる。


「っ!」


 リリアはとっさに膝をついた。


 石は大理石の敷石に当たり、乾いた音を立てた。

 欠けていた端が、さらに小さく砕ける。


「あら……ごめんなさい」


 セシリアの声に、申し訳なさはなかった。


「古いものですから、壊れやすかったのですね」


 リリアは砕けた欠片を拾い集めた。


 指先が震える。


 胸の奥で、何かが熱くなった。


 泣きたいのか。

 怒りたいのか。

 自分でも分からない。


 ただ、これだけは言わなければならないと思った。


「セシリア」


「なんですの?」


「これは、私の母の形見です」


 セシリアの表情が、ほんのわずかに固まる。


 リリアは欠片を手のひらに包み、立ち上がった。


「あなたにとっては、古くて価値のない石かもしれません。けれど、私にとっては大切なものです」


「……わざとではありませんわ」


「ええ。そういうことにしておきます」


 セシリアの頬が赤くなった。


 エルヴィンが一歩前に出る。


「リリア、セシリアに失礼だ」


「失礼をしたのは、どちらでしょうか」


 自分の口から出た言葉に、リリア自身が一番驚いた。


 けれど、止まらなかった。


 ずっと飲み込んできた言葉が、香りのように胸の奥から立ちのぼってくる。


「私は役立たずだったかもしれません。正式な聖香師ではなかったかもしれません。けれど、私が毎日整えてきた薬草園も、香炉も、聖水も、皆さまが当然のように使ってきたものです」


「何が言いたい」


「どうか、大切に扱ってください」


 リリアはエルヴィンを見た。


「私がいなくなっても、薬草は生きています。香炉も、聖水も、温室の空気も。全部、雑に扱えば壊れます」


「説教のつもりか?」


「お願いです」


 リリアは深く頭を下げた。


「今日だけは、聖香を焚き続けないでください。香炉を休ませてください」


 沈黙が落ちた。


 数秒後。


 エルヴィンは鼻で笑った。


「最後まで見苦しいな」


 セシリアが小さくため息をつく。


「お姉さまは、ご自分がいなければ神殿が困るとでも思っていらっしゃるのですね」


 リリアは顔を上げた。


 そんなことは、思っていない。


 思えるほど、自信はない。


 けれど。


 香りだけは、違うと言っている。


「……失礼いたします」


 これ以上、何を言っても無駄だった。


 リリアは布袋と木箱を抱き、門から離れた。


 背後でセシリアの声が聞こえる。


「かわいそうなお姉さま。地味な仕事しかできなかったのに、それすら失ってしまうなんて」


 神官たちの忍び笑いが続いた。


 リリアは振り返らなかった。


 振り返れば、きっと泣いてしまう。


 神殿宿舎の裏口には、すでにリリアの荷物がまとめられていた。


 古い服が二着。

 作業用の靴。

 乾燥させた薬草を少し。

 母の薬草帳。

 欠けた香炉石。


 それだけだった。


 十年近く神殿にいたのに、リリアの人生は小さな鞄ひとつに収まってしまった。


 宿舎の管理人は、気まずそうに鍵を差し出さずに立っていた。


「悪いね、リリア。上からの命令で……」


「いいんです。今までありがとうございました」


「行くあてはあるのかい?」


 リリアは答えようとして、言葉に詰まった。


 ない。


 王都に親しい友人はいない。

 エルム家の親戚は、リリアが神殿に入ってから縁を切った。

 婚約者の家に頼ることなど、もうできない。


「……少し、考えます」


 リリアは笑おうとした。


 うまく笑えたかは分からない。


 管理人は何か言いたそうにして、結局、小さな包みを差し出した。


「これ、朝食の残りだけど。持っていきな」


「そんな、いただけません」


「いいから。あんた、いつも薬草園の子どもたちに余った果物を分けてただろう。これくらい、罰は当たらないよ」


 包みの中には、固いパンと干し果物が入っていた。


 リリアの目頭が熱くなる。


 神殿の全員が、リリアを見下していたわけではない。

 そう思えただけで、少しだけ息ができた。


「ありがとうございます」


 リリアは今度こそ、心から頭を下げた。


 宿舎を出ると、空は少し曇り始めていた。


 朝は晴れていたのに、遠くで雨の匂いがする。


 湿った石畳。

 馬車の車輪が残した泥。

 街路樹の青い葉。


 王都の香りが、今日はやけに遠かった。


 リリアは鞄を肩にかけ、歩き出した。


 どこへ行けばいいのかは分からない。


 けれど、少なくとも、あの神殿にはもう戻れない。


 一歩、また一歩。


 足を進めるたびに、胸の奥が痛んだ。


 エルヴィンの言葉。

 セシリアの笑み。

 砕けた香炉石の音。


 全部が、何度も頭の中で繰り返される。


 君は聖香師ではない。

 君のような地味な女はふさわしくない。

 役立たず。


 役立たず。


 役立たず。


「……違う」


 リリアは立ち止まり、小さく呟いた。


 まだ、自信を持って否定できるわけではない。


 けれど、全部が無意味だったとは思いたくなかった。


 薬草園で過ごした日々。

 香りを整え続けた時間。

 誰にも気づかれなかった小さな仕事。


 それらまで、役立たずだったとは思いたくなかった。


 リリアは胸元の木箱を抱きしめる。


 その時、箱の中の香炉石が、かすかに温かくなった気がした。


「……?」


 立ち止まって木箱を開ける。


 欠けた銀の香炉石は、何の変哲もなくそこにある。

 だが、割れ目の奥に、淡い緑の光が一瞬だけ走った。


 見間違いだろうか。


 リリアが瞬きをした時には、もう光は消えていた。


 代わりに、ふわりと懐かしい香りがした。


 母がよく淹れてくれた、薬草茶の香り。


「お母さま……?」


 返事はない。


 風が吹き、リリアの髪を揺らした。


 その風の中に、王都とは違う香りが混じっていた。


 湿った森。

 冷たい石。

 遠い獣の息。

 そして、黒く焦げた呪いの匂い。


 リリアは顔を上げた。


 王都の北門の向こう。

 雲のかかった辺境の山並みが、うっすらと見えている。


 なぜか、そちらから呼ばれている気がした。


 ――来て。


 声ではない。


 香りだった。


 助けを求めるような、弱く、細い香り。


 リリアは戸惑いながらも、北へ続く道を見つめた。


 その頃。


 王都大神殿の薬草温室では、異変が起きていた。


 リリアが毎朝開けていた窓は閉め切られ、乾燥棚の下には湿気が溜まり始めている。

 聖水瓶の縁には、薄い灰色の膜が浮かんでいた。


 誰も気づかない。


 誰も、いつもリリアがしていたことを知らない。


 温室の奥。


 祝福式に使われるはずだった白い聖花が、また一輪、黒く染まった。


 そして、ぽとりと落ちる。


 腐った花弁から、甘く焦げた匂いが立ちのぼった。


 その香りはゆっくりと温室に広がり、銀の香炉棚へ染み込んでいく。


 やがて、棚の上に並べられた聖香の瓶が、ひとつ。


 ぴしり、と小さな音を立てた。

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