第1話 香り係の婚約破棄
王都大神殿の朝は、いつも香りから始まる。
夜明け前に摘んだ白露草。
乾燥棚で三日寝かせた月桂花。
祈祷室の奥でしか育たない銀葉ミント。
それらを決められた順番で乳鉢に入れ、細かく砕き、温めた聖水を一滴ずつ垂らす。
ふわり、と清らかな香りが立ちのぼった。
雨上がりの森のような、澄んだ香り。
疲れた心をほどき、乱れた魔力を鎮めるための、王都神殿自慢の聖香。
けれど――。
「……違う」
リリア・エルムは、思わず手を止めた。
鼻先をかすめたのは、清らかな香りの奥に隠れた、ごく薄い焦げ臭さだった。
普通の者なら気づかない。
たぶん、この場にいる神官たちも、薬草師たちも、誰一人として気づかない。
けれどリリアには分かる。
この聖香は、整っていない。
香りの底が、わずかに濁っている。
「白露草が強すぎる……? いえ、違う。これは、聖水のほうが――」
「リリアお姉さま?」
甘い声が背後から響いた。
リリアが振り返ると、白と金の神官服をまとった義妹、セシリアが立っていた。
艶やかな金髪を結い上げ、胸元には聖香師見習いの徽章。
その周囲には若い神官たちが数人、当然のように付き従っている。
セシリアはリリアの手元を覗き込み、わざとらしく首を傾げた。
「また香りを嗅いでいるだけですの? 今日は祝福式の本番ですわよ。そんな地味な確認に時間をかけていたら、皆さまの迷惑になります」
「セシリア、この聖香、少しおかしいわ。奥に焦げたような匂いがあるの。聖水か、香炉の銀膜が傷んでいるのかもしれない」
リリアはできるだけ穏やかに言った。
祝福式は、王都の有力貴族も集まる大切な儀式だ。
聖香に乱れがあれば、祝福の祈りそのものに影響する。
小さな違和感でも、放っておくわけにはいかない。
だがセシリアは、くすりと笑った。
「焦げた匂い? 私には、とても良い香りに感じますけれど」
「でも――」
「リリアお姉さまは、昔から少し大げさですわね。香り係だからって、香りのことなら何でも分かるつもりですの?」
周囲の神官たちが小さく笑う。
リリアは唇を結んだ。
香り係。
それが、王都大神殿でのリリアの呼び名だった。
正式な聖香師ではない。
薬草師でもない。
祈祷を任される神官でもない。
薬草を摘み、乾かし、配合し、香炉を磨き、祈祷室の空気を整えるだけの下働き。
それが、リリアの仕事だと皆は思っている。
実際、リリア自身もそう思おうとしていた。
けれど、香りの乱れだけは分かる。
薬草が嫌がっている時。
水が淀んでいる時。
空気に魔力の棘が混ざっている時。
言葉にできない何かが、いつも香りとしてリリアに届いた。
「セシリア、お願い。せめて香炉を取り替えさせて。今ならまだ間に合うわ」
「まあ」
セシリアの目が、すっと冷たくなる。
「今日の聖香は、私が調合したものですのよ」
「……分かっているわ」
「それを、あなたが欠陥品だと言うのですか?」
「そうじゃない。ただ、何かが――」
「リリア」
低い声が割って入った。
リリアの胸が、きゅっと縮む。
神官騎士エルヴィン・ローゼン。
リリアの婚約者だった。
銀の鎧に白い外套。
神殿を守る騎士として、彼は今日の祝福式にも警護役として立っている。
かつては、リリアが薬草で指を切れば心配してくれた。
雨の日には、温室まで傘を差して迎えに来てくれた。
けれどいつからだろう。
エルヴィンの視線は、リリアではなく、セシリアのほうへ向くようになった。
「今日は大切な式だ。余計な騒ぎを起こすな」
「でも、エルヴィン様。このまま焚けば、祝福に乱れが出るかもしれません」
「君は聖香師ではないだろう」
その一言は、刃のようにまっすぐだった。
リリアの指先から、すっと力が抜ける。
「……はい」
「セシリアは正式に認められた聖香師見習いだ。君のように感覚だけで物を言う者とは違う」
周囲の空気が、少しだけ和らいだ。
それは安心ではない。
リリアが黙ったことへの、露骨な安堵だった。
また香り係が騒いだ。
また役立たずが余計なことを言った。
そんな声が、聞こえなくても分かる。
リリアはそっと乳鉢を置いた。
「……出過ぎたことを申しました」
「分かればいい」
エルヴィンは短く告げると、セシリアへ柔らかな目を向けた。
「セシリア、準備を続けてくれ。君の聖香なら問題ない」
「はい、エルヴィン様」
セシリアは頬を染め、リリアにだけ見える角度で微笑んだ。
勝ち誇った笑みだった。
リリアは胸の奥に重い石を抱えたまま、香炉台の横へ下がった。
神殿の鐘が鳴る。
祝福式が始まった。
大広間には、王都の貴族たちが集まっている。
白大理石の床。
高い天井。
色硝子から差し込む朝の光。
その中央で、セシリアが銀の香炉を掲げた。
リリアが毎朝磨いていた香炉だ。
銀膜に傷がつかないよう、布の種類まで変えて手入れしてきた。
セシリアは優雅に一礼し、香炉の蓋を開ける。
清らかな香りが、広間いっぱいに広がった。
貴族たちが感嘆の息を漏らす。
「なんて澄んだ香り……」
「さすがセシリア様だ」
「若くして神殿に認められた才女と聞いたが、噂以上だな」
称賛の声が、次々と上がる。
リリアは黙って見つめていた。
香りは美しい。
表面だけなら、完璧に近い。
けれど、その奥にある。
焦げた匂い。
濡れた灰のような、嫌な気配。
やはり、おかしい。
その時だった。
香炉から立ちのぼる白い煙が、一瞬だけ黒く濁った。
「っ!」
リリアは反射的に前へ出た。
「香炉を止めてください!」
広間が静まり返る。
セシリアの顔から、笑みが消えた。
「リリアお姉さま?」
「その聖香は危険です! 今、煙が黒く――」
「何を言っているのですか」
セシリアは震える声を出した。
けれどその瞳は、泣きそうに潤んでいるだけではない。
リリアを追い落とす機会を見つけた、鋭い光があった。
「私の祝福式を、台無しにするおつもりですか?」
「違うわ。私はただ、本当に煙が――」
「リリア!」
エルヴィンがリリアの腕を掴んだ。
強い力だった。
「いい加減にしろ」
「エルヴィン様、離してください。今ならまだ――」
「貴族たちの前で、セシリアに恥をかかせる気か?」
「恥の問題ではありません! 聖香が乱れているんです!」
リリアの声が、広間に響いた。
自分でも驚くほど強い声だった。
エルヴィンの眉が、険しく寄る。
セシリアは胸元を押さえ、ふらりとよろめいた。
「ひどい……。お姉さまは、私が聖香師に選ばれたことがそんなに悔しいのですね」
「セシリア、違う」
「だって、いつもそうでしたわ。薬草園でも、私が褒められるたびに、お姉さまは難しい顔をして……。今日だって、私の聖香に難癖をつけて……」
ざわり、と貴族たちが騒ぎ始める。
「嫉妬か?」
「婚約者殿の前で見苦しい」
「香り係が聖香師に口を出したのか」
言葉が刺さる。
ひとつ、またひとつ。
リリアはそれでも、香炉から目を逸らせなかった。
黒い濁りは、もう見えない。
だが香りの底には、確かに残っている。
あれを放っておけば、いつか必ず大きな歪みになる。
「私は、香りを整えていただけです」
リリアは震える声を押さえながら言った。
「けれど……その香りが崩れたら、何が起きるかは知っています」
その瞬間。
エルヴィンの顔から、わずかに迷いが消えた。
代わりに浮かんだのは、冷たい決意だった。
「リリア・エルム」
彼は広間の中央で、はっきりと告げた。
「君との婚約を、ここに破棄する」
息が止まった。
音が遠のく。
リリアは、エルヴィンを見つめた。
「……え?」
「以前から考えていた。君は神殿にふさわしくない。感情的で、協調性がなく、セシリアの才能を妬んでばかりいる」
「私は、妬んでなんか……」
「今日の騒ぎが決定打だ」
エルヴィンはリリアの腕を離した。
まるで汚れたものに触れていたかのように。
「君のような地味な女は、聖女候補であるセシリアのそばにも、神官騎士である私の隣にもふさわしくない」
セシリアが小さく息を呑む。
だがその口元は、ほんの少しだけ上がっていた。
リリアは胸に手を当てた。
痛い。
けれど、涙は出なかった。
涙より先に、身体の奥が冷えていく。
ああ、そうか。
この人はもう、私の言葉を聞くつもりがないのだ。
リリアはゆっくりと頭を下げた。
「……承知しました」
その声が自分のものとは思えないほど、静かだった。
エルヴィンが一瞬だけ目を見開く。
もっと取り乱すと思っていたのかもしれない。
泣いて縋ると思っていたのかもしれない。
でも、リリアにはもう分かっていた。
ここで何を言っても、香りは届かない。
腐った花に、いくら澄んだ水を与えても、根が腐っていれば咲けないのと同じだ。
「リリアお姉さま……」
セシリアが悲しげに近づいてくる。
「どうか、これ以上ご自分を惨めにしないでくださいませ」
リリアはセシリアを見た。
その甘い香水の奥に、昨日までなかった匂いが混じっている。
焦げた砂糖のような、嘘の匂い。
「セシリア」
「はい?」
「今日の聖香は、もう焚かないほうがいいわ」
セシリアの頬がひくりと動いた。
「まだそんなことを――」
「私が間違っているなら、それでいい。でも、香炉だけは替えて。お願い」
リリアは最後に、それだけを言った。
自分の名誉のためではない。
エルヴィンに分かってほしいからでもない。
ただ、この神殿に集まった人々に、何かが起きてほしくなかった。
けれど、返ってきたのは冷笑だった。
「連れて行け」
エルヴィンが命じる。
神殿騎士が二人、リリアの前に立った。
「リリア・エルム。祝福式を妨害した罪により、本日をもって薬草園の職務を解く。追って正式な処分を下すまで、大神殿への立ち入りを禁ずる」
ざわめきの中、リリアはもう一度だけ広間を見た。
白い煙。
輝く祭壇。
寄り添うエルヴィンとセシリア。
そして、その奥に沈む、ほんのわずかな黒い香り。
誰も気づかない。
誰も、信じない。
リリアは静かに背を向けた。
大広間の扉が開く。
朝の光が、冷たく差し込んだ。
外へ出る直前、リリアは胸の奥で小さく呟いた。
――どうか、何も起きませんように。
それは、彼女がこの神殿に捧げた最後の祈りだった。
大神殿の裏手にある薬草温室は、いつもなら白露草の香りで満ちている。
リリアが毎朝、誰よりも早く窓を開け、水を替え、香りが淀まないよう整えていた場所。
だがその朝。
リリアが神殿の門を出た、その直後。
温室の一番奥で、祝福式に使うはずだった白い聖花が一輪、音もなく揺れた。
花弁の端が、黒く染まる。
次の瞬間。
ぽとり、と。
腐り落ちた花びらが、湿った土の上に沈んだ。




