第9話「私はもう、あの家の人間ではありません」
密書を受け取ってから、三日が経った。
春の終わり。
カルーサの朝は日増しに明るくなり、港には夏を待つ商船がひしめいている。
三日間、考えた。
朝の帳簿作業の合間に。
昼の取引先回りの道すがらに。
夜、バルコニーから海を眺めながら。
そして——答えは出た。
机に向かい、便箋を広げた。
ペンを取る。
書き出しは決まっていた。
「エーリヒさん。お手紙、確かに拝読いたしました」
ここまでは迷わなかった。
次の一文に、ペンが止まる。
……いや。
止めてはいけない。
三日間で出した答えを、そのまま書く。
「私はもう、フォーレンスの人間ではありません。レクセンドの行政を支えるのは、今そこにいる方々の務めです」
書いた。
文字はまっすぐだった。
手は震えていない。
続けた。
「ただ、通商条約の交渉に関して、少しだけお力になれることがあります。同封の別紙をご活用ください」
別紙を三枚、別に用意した。
一枚目。ヴェルディア語の外交慣用表現のうち、通商交渉で頻出するもの二十語。
二枚目。ヴェルディア側の交渉担当官の特徴と、過去の交渉で有効だった言い回し。
三枚目。条約更新の際に絶対に譲ってはいけない三つの条項の解説。
十年の経験を、三枚に凝縮した。
三冊の引き継ぎ資料と同じだ。
私にできることは、知識を形にして残すこと。
最後の一文を書く。
「これが、私にできる最後のことです。どうかご自愛ください」
ペンを置いた。
封をして、配達人に託した。
*
昼過ぎ。
港の桟橋に出た。
海が青い。
春の海は冬よりも色が深く、白い波頭が陽光にきらめいている。
潮風が吹いた。
三つ編みが揺れる。
返事を出した。
終わった——はずなのに、胸の奥にある重さが消えない。
これでいいのだ、と思う。
正しい判断だ、と思う。
思うのに——。
「……ナディアさん」
振り向くと、カイが少し後ろに立っていた。
「……返事、出したんですか」
「ええ」
「……良かったんですか」
良かったのか。
少し考えた。
「わかりません」
正直に答えた。
「でも、正しかったとは思います」
カイは黙って、私の隣に来た。
桟橋の柵に並んで立つ。
潮風が二人の間を抜けていく。
しばらくして——カイが口を開いた。
「……俺は」
声が低い。
「俺は、あんたがここにいてくれて——」
言葉が、途切れた。
長い沈黙。
波の音だけが聞こえる。
カイの横顔を見た。
唇が薄く開いたまま、閉じられない。
言葉を探しているような——見つからないような。
私は——待った。
急かさなかった。
でも、言葉は来なかった。
カイが小さく息を吐き、視線を海に戻した。
言い切れなかったのだろう。
この人はいつもそうだ。
大切なことほど、言葉にならない。
だから代わりに——私が言った。
「私も、ここにいたいと思っています」
カイの肩が、小さく震えたのが見えた。
それ以上は何も言わなかった。
潮風が吹いた。
白い帆が、港に並んでいた。
*
同じ頃——レクセンド王都、宰相府。
ナディアの返書は、急使の馬に託されて五日後にエーリヒの手に届いた。
カルーサから王都まで馬車なら十日の道のりだが、急を要する書簡には乗り継ぎの早馬が使われる。
エーリヒはそれを読み、しばらく動かなかった。
「私はもう、フォーレンスの人間ではありません」
予想していた答えだった。
予想していたからこそ、それでも頼んだのだ。
別紙三枚を確認した。
ヴェルディア語の慣用表現、交渉担当官の特徴、譲ってはいけない条項。
三枚の紙に込められた知識の密度に、エーリヒは息を呑んだ。
——この人は、断りながらも、手を差し伸べている。
返書の内容を、宰相に報告しなければならなかった。
*
オスヴァルトの執務室。
エーリヒが返書の概要を伝えると、オスヴァルトの顔が険しくなった。
「あの女は国を見捨てるのか」
声が低い。
怒りが滲んでいる。
エーリヒは——口を開いた。
「見捨てたのではありません」
オスヴァルトの目がこちらを向いた。
「手放されたのは、我々のほうです」
一瞬の沈黙。
オスヴァルトの唇が引き結ばれた。
何か言い返そうとして——言わなかった。
「……別紙は」
「三枚。ヴェルディアとの通商交渉に必要な情報が記されています」
「使えるのか」
「はい。これがあれば——最低限の返答は可能です」
オスヴァルトは片手で額を押さえた。
「……やれ」
それだけ言って、窓の外を見た。
エーリヒには、その横顔が何を考えているのか、やはり読めなかった。
*
その夜。
宰相邸の一室で、リゼット・マルーアは一人、引き継ぎ資料を広げていた。
油灯の明かりの下。
三冊の資料を、最初から読み直していた。
一冊目。外交文書の翻訳手順。
ヴェルディア語の慣用表現の一覧を開き、隣に辞書を置く。
一語ずつ、辞書と照らし合わせる。
わからない言葉がある。
辞書を引く。
それでもわからないものは、注釈を読む。
遅い。
一ページ進むのに、何十分もかかる。
四カ月前、一ページ目で固まったあの日から——リゼットは、少しずつこの資料と向き合ってきた。
最初は圧倒された。
次に挫折しかけた。
それでも——もう一度開いた。
今日は三十二ページ目にいる。
一冊目は二百ページ以上あるのだから、まだ序盤だ。
爪を口元に運びかけて——自分で気づいた。
手を下ろした。
噛んでいる暇はない。
翌日の朝。
エーリヒがナディアの別紙を元に起草した返答書を、リゼットのもとに持ってきた。
「リゼット様。ヴェルディアへの返答書の清書をお願いできますでしょうか。……前の奥方様の別紙に基づいた内容です」
リゼットは受け取り、読んだ。
完全には理解できなかった。
でも——三十二ページ分の知識が、断片的に内容を補った。
「ここの一文。『相互恵益の精神に基づき』——これは引き継ぎ資料の十四ページにあった表現ですね」
エーリヒの目が、わずかに見開かれた。
「……ええ。その通りです」
リゼットは便箋を取り、清書を始めた。
字は、ナディアの端正さには遠く及ばない。
でも——丁寧に書いた。
一文字ずつ。
清書が終わったのは、深夜だった。
翌日、返答書はヴェルディアへ発送された。
完璧な外交文書ではなかった。
だが——最悪の事態、条約の破棄だけは避けられた。
リゼットはそのことを知ったとき、小さく息を吐いた。
「あの方が残してくれた資料がなければ、何もできませんでしたけれど」
誰に言うでもなく、呟いた。
——でも、一歩目は踏み出した。
そう思うことは——許されるだろうか。
油灯の明かりが、引き継ぎ資料の表紙を照らしていた。




