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「引き継ぎ資料は三冊です」——宰相夫人を十年やって捨てられた私、港町で貿易商を始めたら元夫の国が静かに詰んでいく  作者: 月代


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第10話「白い帆の朝」


離縁から半年が経った。


初夏。

カルーサの港には強い陽差しが降り注ぎ、白い壁の建物が眩しく光っている。


今日は——特別な朝だった。


カルーサ港の第一埠頭に、一隻の商船が停泊している。


新しい帆。

真っ白な帆布が、朝の風を受けてはためいている。


ブランシェ商会の初めての国際定期航路。

カルーサからタルーアまでの香辛料直行便。


半年前にはなかった航路が、今日から動き出す。


「半年でここまでやるとは……お前の母親にも見せてやりたかったのう」


隣に立つグレンが、目を細めた。


小指の欠けた右手で顎髭を撫でている。

いつもの癖だ。


「母が生きていたら、きっと『帳簿を見せなさい』と言うでしょうね」


「……はっ。言うじゃろうな。あれはそういう女じゃった」


グレンが大声で笑った。


港に響く笑い声。

半年前に初めて聞いたときと、同じ声だ。


白い帆の船が、岸壁の綱を解かれていく。


水夫たちが帆を張る。

風をはらんで、帆布が大きく膨らむ。


この航路を築くのに、半年かかった。


グレンの人脈。タルーアの商人との交渉。北方の卸先との信頼構築。

そして——七年前から積み上げてきた、数字と信用の蓄積。


全部が、今日この一隻に集まっている。


船が桟橋を離れた。


ゆっくりと、港を出ていく。


白い帆が——朝の光に輝いている。


「……綺麗ですね」


「何がじゃ」


「帆が」


「お前は昔から、妙なところで感傷的じゃのう」


グレンが呆れたように笑い、私の背中を叩いた。


痛いくらいだった。でも——温かかった。



   *



見届けを終え、商会に戻った。


事務室の入口に、人影。


カイだった。


手に、布の包みを持っている。


「今日は何のお菓子ですか」


もう「偶然ですか」とは聞かない。三カ月前に、偶然でないことは知っている。


カイが包みを開いた。


蜂蜜の焼き菓子。


「……蜂蜜の。あんたが前に美味いと言ったやつ」


あの日——初めて二人で茶を飲んだ日。

大口取引の検品を終えた夕方。


「覚えていてくれたんですね」


カイの耳が赤くなった。


「……偶然——」


「偶然は、もう使えませんよ」


カイが口をつぐんだ。


「一緒に、いただきましょう」


二階のバルコニーに上がった。


海が見える。

出航した商船が、港の外に向かってゆっくり進んでいる。

白い帆が小さくなっていく。


二つの杯に湯を注いだ。


南方の赤い茶葉。

あの日と同じ茶。


蜂蜜の焼き菓子を分け合う。

甘い香り。


カイが杯を両手で包みながら——口を開いた。


「……一つ、言いたいことがある」


心臓が、少しだけ速くなった。


「ええ」


「前に——桟橋で、途中で止めた。あのとき言えなかったこと」


覚えている。


「俺は、あんたがここにいてくれて——」


あの日、そこで途切れた言葉。


カイが——杯を膝の上に置いた。


両手が空く。


けれどその手は、どこにも伸ばされなかった。

ただ膝の上で、微かに握られていた。


「……俺は」


声が低い。


「恩とか。仕事とか。そういうのじゃなく」


沈黙。


波の音。


「あんたの——ナディアさんの。隣にいたい」


言い切った。


最後の一語は、かすれていた。

けれど——聞こえた。確かに。


隣にいたい。


その一言が、胸の奥に落ちていった。


静かに。


深く。


目が——熱くなった。


泣かない。

十年間、泣かなかった。


でも、目の奥がじわりと温かくなるのは止められなかった。


「……私は」


声を出す。


「十年間、誰かの隣にいることの意味を忘れていました」


あの家では、隣にいることは義務だった。

「宰相夫人の務め」として隣に立ち、名前のない仕事をした。


それは——「隣にいたい」ではなかった。


「あなたが毎朝茶菓子を届けてくれるたびに、少しずつ思い出しました」


誰かが自分を気にかけてくれていること。

言葉にはならなくても、行動で示してくれること。


それが、どれほど——。


カイの手に、自分の手をそっと重ねた。


彼の手は大きかった。

温かかった。


カイの指が、微かに震えていた。


「……俺でいいんですか」


「あなたがいいんです」


カイが——息を呑んだ。


それから、ゆっくりと、重ねた手に指を絡めてきた。


不器用に。

けれど——確かに。


バルコニーの向こうに、海が広がっている。


白い帆の船は、もう港の外に出ていた。



   *



同じ頃——レクセンド王都、宰相府。


初夏の光が、執務室の窓から差し込んでいた。


エーリヒ・ヴァイスの机の上に、一通の外交文書が置かれている。


ヴェルディア語で書かれた通商条約の更新案に対する、レクセンド側の返答書。


起草したのはエーリヒだが——翻訳を担当したのは、リゼット・マルーアだった。


拙い翻訳だった。

文法の不自然な箇所がある。敬語の使い分けが甘い。


だが——内容は正確だった。


エーリヒは返答書を確認し終え、リゼットに渡した。


「よく書けています」


リゼットは苦笑した。


「まだ、あの方の足元にも及びませんけれど」


「初めて資料を開いたのが一歩目。清書ができたのが二歩目。そして今日の翻訳が三歩目です。最初の一歩から見れば、大した進歩です」


リゼットの目が、少し潤んだように見えた。


だがすぐに——唇を引き結び、頷いた。


「四歩目を、踏みます」


エーリヒは小さく頭を下げた。



   *



同じ時刻。


宰相オスヴァルトは執務室で一人、窓の外を見ていた。


初夏の空は青く、雲が高い。


何かを言おうとして——口を閉じた。


窓の向こうに、南の方角がある。



   *



カルーサ港。


朝の光の中、白い帆の商船が沖へ出ていく。


バルコニーから、それを見送る。


隣にカイがいる。


二人の間に、言葉はない。


ただ——カイの手が、私の手に触れている。


温かい手だった。


潮風が吹いた。

白い帆を膨らませて、船は水平線へ向かっていく。


引き継ぎ資料は三冊。


あの三冊で、十年分の仕事は閉じた。


でも——この港で始めた帳簿は、まだ一冊目の途中だ。


取引先は増える。航路は広がる。

帳簿のページはこれからも増えていく。


書き終わる日は——まだ来なくていい。


潮風が三つ編みを揺らした。


隣の手の温もりが、指先から伝わってくる。


白い帆が——水平線に溶けていく。


朝の光の中で。


初夏の、カルーサの港で。


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