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「引き継ぎ資料は三冊です」——宰相夫人を十年やって捨てられた私、港町で貿易商を始めたら元夫の国が静かに詰んでいく  作者: 月代


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第8話「密書」


離縁から四カ月が経った。


春の終わり。

カルーサの港には夏の気配が忍び寄り、朝から陽差しが強い。


ブランシェ商会は五件の定期取引を抱え、事務室の帳簿は順調にページを増やしていた。


その日の朝も、いつも通り——のはずだった。


配達人が持ってきた手紙の束の中に、一通だけ、見慣れない封書が混じっていた。


いや。

「見慣れない」は正確ではない。


むしろ——見慣れすぎていた。


封蝋の紋様。

宰相府の公印ではない。

個人の印。小さな鍵と羽根ペンを組み合わせた意匠。


この印を、私は十年間見てきた。


エーリヒ・ヴァイス。

筆頭書記官の個人印だ。


手が、一瞬だけ止まった。


封を切った。



   *



几帳面な筆跡。

一文字の乱れもない。


それだけで、あの人が書いたものだとわかる。


内容は——予想していたものと、予想していなかったものが混じっていた。


ヴェルディアとの通商条約の交渉が決裂寸前であること。

——予想していた。あの条約の更新交渉は、毎年私が起草していた。


夜会の失態が重なり、レクセンドの社交的信用が低下していること。

——これも、予想の範囲だった。席次表の管理だけで何年もかかる。


領地帳簿の解読が進まず、税収の把握ができていないこと。

——これも。暗号化の方式は私しか知らなかった。引き継ぎ資料に書いたが、あれを使いこなすには会計の専門知識がいる。


最後の一文だけが、予想の外にあった。


「——あなたにお戻りいただくことはできないでしょうか」


エーリヒの個人的な懇願だった。


公的な要請ではない。

宰相の命令でもない。


十年間、隣で働いた書記官が、個人の判断で、密かに送ってきた手紙。


便箋を膝の上に置いた。


長い沈黙。


右手が、無意識に薬指を撫でようとした。


——止めた。


指先が薬指に触れる寸前で、意識的に手を下ろした。


あの指輪はもうない。

あの窪みも、四カ月でほとんど消えている。


撫でるものは、もうないのだ。



   *



事務室の扉が静かに開いた。


カイだった。


今朝の茶菓子の包みを手に、入ってくる。

ここ数週間で種類が変わるようになった。同じ店で買っているなら種類は限られるはずだから、いくつかの店を回っているのだろう。

今日は干し杏子の焼き菓子のようだ。


机に包みを置いたとき、彼の動きが止まった。


私の顔を見ている。


いつもは肩のあたりを見る目が——今日は、真っ直ぐに。


「……何か、あったんですか」


短い声だった。


この人は、言葉は少ないけれど、よく見ている。

私の表情が、いつもと違ったのだろう。


便箋を折り畳みながら答えた。


「レクセンドから、手紙が来ました」


それだけ言った。


カイは何も聞かなかった。


「何が書いてあった」も。

「誰から」も。

「どうするのか」も。


ただ——いつもの椅子ではなく、私の机に近い方の椅子に座った。


いつもより、少しだけ近い距離。


その沈黙が、ありがたかった。


聞かないでくれることが。

ただ近くにいてくれることが。



   *



夜。


グレンの商会を訪ねた。


「読んでくれ」とは言わなかった。

密書の内容を口頭で伝えた。


グレンは顎髭を撫でながら聞いていた。


聞き終えて、しばらく黙った後——。


「わしは商売のことしかわからん」


「ええ」


「じゃが、一つ言えるのは——あの国はお前がいなくても回るようにならにゃいかん。それはお前が背負う荷ではない」


わかっている。


頭では。


「ええ。私も、そう思います」


そう答えた。


グレンは私の目を見た。


「……本当にそう思っとるか」


見透かされた。


「……完全には」


正直に答えた。


グレンが小さく息を吐いた。


「お前の母親もそうじゃった。手を離しても、心がなかなか離れん」


母のことを言われると、弱い。


「離れなければいけないとは、わかっています」


「いけない、じゃあない。離れていいんじゃ」


グレンの声が、珍しく静かだった。


「お前はもう十分やった。十年やった。その上で三冊の資料まで残した。これ以上何を求められる。——何も、じゃろう」


……何も。


「お前の人生は、お前のものじゃ。あの国のものではない」


わかっている。

わかっているのに——。


胸の奥に、ちくりとした痛みが残る。


理屈ではない。

十年間、あの国の裏側を支えてきた。

その十年が、簡単には割り切れない。


エーリヒの几帳面な筆跡が、目の裏にちらつく。


あの人は、一人で戦っているのだろう。

油灯の下で、読めない外交文書と格闘しているのだろう。


……でも。


「返事は、少し考えさせてください」


「ああ。急ぐことはないわ」


商会を出て、夜道を歩いた。


港の灯りが海面に揺れている。


潮風が吹いた。


四カ月前、雪の夜に宰相邸を出たときのことを思い出した。

あの夜は、振り返らなかった。


今も——振り返るつもりはない。


ただ、返事の言葉が、まだ見つからなかった。


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