第7話「名前を呼ぶ声」
離縁から三カ月が経った。
春。
カルーサの港には毎日穏やかな日差しが降りそそぎ、通りには色とりどりの花が売られるようになった。
朝。
カイが事務室に入ってきた。
左肩の包帯はもう外れている。
動きは以前よりわずかに硬いが、護衛の仕事に支障がない程度まで回復した——と医者は言った。
「おはようございます、カイさん」
「……おはようございます」
「左肩の具合はいかがですか」
「……大丈夫です」
「『大丈夫です』は信用しません」
カイの目がわずかに見開かれた。
「嵐の夜にも、同じことを仰いましたね。歯を食いしばりながら」
彼は何も言わなかった。
「痛いときは痛いと言ってください。それが約束です」
沈黙。
「……わかりました」
小さな声だった。
でも、嘘の「大丈夫です」よりずっと信用できる声だった。
*
午後。
港の商人組合で、三件目の定期取引の契約書に署名した。
南方連合産の織物を北の内陸諸国に卸す小口の仲介。
利幅は薄いが、安定した取引だ。
ブランシェ商会の名前が、少しずつカルーサの商人たちの間で通るようになっていた。
「帳簿が丁寧な商会」。
そう言われている、とグレンから聞いた。
宰相府時代の癖が、思わぬ形で評判になっている。
品質記録を箱ごとにつける。
取引の履歴を日付と品目と相手先で三重に管理する。
支払いの遅延がない。
当たり前のことだ。
でも、当たり前を当たり前にやる商会が珍しいらしい。
商人組合を出ると、カイが入口で待っていた。
「お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
二人で港沿いの道を歩いて商会に戻る。
夕暮れ。
西の空が橙色に染まり、港の海面に光が散っている。
歩きながら、カイが珍しく口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
足を止めた。
カイが自分から質問するのは、初めてだった。
「ええ、どうぞ」
「あんた——あなたは、レクセンドの宰相夫人だったと聞いた」
グレンから聞いたのだろう。
「ええ」
「なぜ……こんな小さな商会を」
声に悪意はなかった。
純粋な疑問。
なぜ国を動かす立場にいた人間が、港町の小さな商会に身を置いているのか。
夕暮れの海を見た。
「大きな家の中で、名前のない仕事をするのが私の十年でした」
口に出して、初めて気づいた。
名前のない仕事。
そうだ。
外交文書を訳しても、夜会を仕切っても、帳簿を管理しても——それは「宰相夫人の務め」であって、「ナディアの仕事」ではなかった。
誰も、私の名前で呼ばなかった。
「ここでは、私の名前で仕事ができます」
カイは黙っていた。
しばらくして、低い声が聞こえた。
「……俺も、名前を失くした人間です」
え、と思った。
カイは港の柵に背を預け、夕焼けの海を見ていた。
「……元は、レクセンドの近衛騎士でした。下級の」
驚いた。
この人がレクセンドの——。
「三年前。上官が領地の税金を横領しているのを知って、告発しました」
声は淡々としていた。
でも、短い文の間に挟まる沈黙が長い。
「……逆でした。俺が横領したことにされた。証拠が偽造されて、除隊。騎士の名も剥がされた」
冤罪。
「宰相府に嘆願書を出しました。真実を調べてほしいと」
嘆願書——。
「……握りつぶされたと、思っていました」
その言葉に、記憶の底が揺れた。
三年前の冬。
宰相府に届いた嘆願書。
近衛騎士団の下級騎士が除隊処分の不当性を訴えたもの。
私は——あの嘆願書を読んでいる。
「……三年前の冬、近衛騎士の除隊に関する嘆願書」
カイの顔がこちらを向いた。
「確かに目を通しました。調査を指示しました」
記憶を辿る。
あの時期は——離縁の準備が佳境だった。
グレンとの手紙のやり取り、資金の最終確認、商会用の物件の選定。
宰相府の通常業務に加えて、退路の整備を同時に進めていた。
嘆願書の調査は、確かに指示した。
だが——その後の結果を追う余裕がなかった。
「申し訳ありません。最後まで見届けることができませんでした」
カイは首を横に振った。
「……あなたは、読んでくれた」
「え?」
「握りつぶされたと思っていた。読んでくれた人がいたと知ったのは——カルーサに来てからです」
「……グレンさんに、護衛を頼まれたとき。あんたが元宰相夫人だと聞いた。それで——あの嘆願書のことを思い出した」
茶菓子は——だから。
「……あの嘆願書を読んでくれた人に、何かしたかった。でも……何をすればいいかわからなかった」
言葉にならない恩義を、毎朝の焼き菓子に込めていた。
「では——偶然ではなかったのですね」
カイの耳が赤くなった。
「……すみません」
「謝らないでください」
声が柔らかくなっていた。
自分で気づいた。
「嬉しかったんです」
毎朝、戸口にあった焼き菓子。
干し果実の酸味。蜂蜜の甘さ。
誰かが自分のことを気にかけてくれている——その事実が、どれほど温かかったか。
宰相府の十年間、誰も私に茶菓子を届けてはくれなかった。
「——カイ」
呼んだ。
「さん」を落とした。
意識して、落とした。
壁を一枚、自分の手で下ろした。
カイが目を見開いた。
夕焼けの光の中で、彼の表情が——初めて、はっきりと動いた。
驚きと、それから——もう一つ、名前のつかない何か。
「……ナディア、さん」
ぎこちない声だった。
名前を呼び合う。
それだけのことなのに。
潮風が、二人の間を吹き抜けた。
夕焼けが海に溶けていく。
橙色の光の中で、カイの耳がまだ赤いのが見えた。
——今度は、夕日のせいだとは思わなかった。




