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「引き継ぎ資料は三冊です」——宰相夫人を十年やって捨てられた私、港町で貿易商を始めたら元夫の国が静かに詰んでいく  作者: 月代


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第7話「名前を呼ぶ声」


離縁から三カ月が経った。


春。

カルーサの港には毎日穏やかな日差しが降りそそぎ、通りには色とりどりの花が売られるようになった。


朝。


カイが事務室に入ってきた。


左肩の包帯はもう外れている。

動きは以前よりわずかに硬いが、護衛の仕事に支障がない程度まで回復した——と医者は言った。


「おはようございます、カイさん」


「……おはようございます」


「左肩の具合はいかがですか」


「……大丈夫です」


「『大丈夫です』は信用しません」


カイの目がわずかに見開かれた。


「嵐の夜にも、同じことを仰いましたね。歯を食いしばりながら」


彼は何も言わなかった。


「痛いときは痛いと言ってください。それが約束です」


沈黙。


「……わかりました」


小さな声だった。

でも、嘘の「大丈夫です」よりずっと信用できる声だった。



   *



午後。


港の商人組合で、三件目の定期取引の契約書に署名した。


南方連合産の織物を北の内陸諸国に卸す小口の仲介。

利幅は薄いが、安定した取引だ。


ブランシェ商会の名前が、少しずつカルーサの商人たちの間で通るようになっていた。


「帳簿が丁寧な商会」。


そう言われている、とグレンから聞いた。

宰相府時代の癖が、思わぬ形で評判になっている。


品質記録を箱ごとにつける。

取引の履歴を日付と品目と相手先で三重に管理する。

支払いの遅延がない。


当たり前のことだ。

でも、当たり前を当たり前にやる商会が珍しいらしい。


商人組合を出ると、カイが入口で待っていた。


「お疲れ様です」


「……お疲れ様です」


二人で港沿いの道を歩いて商会に戻る。


夕暮れ。

西の空が橙色に染まり、港の海面に光が散っている。


歩きながら、カイが珍しく口を開いた。


「……一つ、聞いてもいいですか」


足を止めた。


カイが自分から質問するのは、初めてだった。


「ええ、どうぞ」


「あんた——あなたは、レクセンドの宰相夫人だったと聞いた」


グレンから聞いたのだろう。


「ええ」


「なぜ……こんな小さな商会を」


声に悪意はなかった。

純粋な疑問。

なぜ国を動かす立場にいた人間が、港町の小さな商会に身を置いているのか。


夕暮れの海を見た。


「大きな家の中で、名前のない仕事をするのが私の十年でした」


口に出して、初めて気づいた。


名前のない仕事。


そうだ。

外交文書を訳しても、夜会を仕切っても、帳簿を管理しても——それは「宰相夫人の務め」であって、「ナディアの仕事」ではなかった。


誰も、私の名前で呼ばなかった。


「ここでは、私の名前で仕事ができます」


カイは黙っていた。


しばらくして、低い声が聞こえた。


「……俺も、名前を失くした人間です」


え、と思った。


カイは港の柵に背を預け、夕焼けの海を見ていた。


「……元は、レクセンドの近衛騎士でした。下級の」


驚いた。


この人がレクセンドの——。


「三年前。上官が領地の税金を横領しているのを知って、告発しました」


声は淡々としていた。

でも、短い文の間に挟まる沈黙が長い。


「……逆でした。俺が横領したことにされた。証拠が偽造されて、除隊。騎士の名も剥がされた」


冤罪。


「宰相府に嘆願書を出しました。真実を調べてほしいと」


嘆願書——。


「……握りつぶされたと、思っていました」


その言葉に、記憶の底が揺れた。


三年前の冬。

宰相府に届いた嘆願書。

近衛騎士団の下級騎士が除隊処分の不当性を訴えたもの。


私は——あの嘆願書を読んでいる。


「……三年前の冬、近衛騎士の除隊に関する嘆願書」


カイの顔がこちらを向いた。


「確かに目を通しました。調査を指示しました」


記憶を辿る。


あの時期は——離縁の準備が佳境だった。

グレンとの手紙のやり取り、資金の最終確認、商会用の物件の選定。

宰相府の通常業務に加えて、退路の整備を同時に進めていた。


嘆願書の調査は、確かに指示した。

だが——その後の結果を追う余裕がなかった。


「申し訳ありません。最後まで見届けることができませんでした」


カイは首を横に振った。


「……あなたは、読んでくれた」


「え?」


「握りつぶされたと思っていた。読んでくれた人がいたと知ったのは——カルーサに来てからです」


「……グレンさんに、護衛を頼まれたとき。あんたが元宰相夫人だと聞いた。それで——あの嘆願書のことを思い出した」


茶菓子は——だから。


「……あの嘆願書を読んでくれた人に、何かしたかった。でも……何をすればいいかわからなかった」


言葉にならない恩義を、毎朝の焼き菓子に込めていた。


「では——偶然ではなかったのですね」


カイの耳が赤くなった。


「……すみません」


「謝らないでください」


声が柔らかくなっていた。

自分で気づいた。


「嬉しかったんです」


毎朝、戸口にあった焼き菓子。

干し果実の酸味。蜂蜜の甘さ。


誰かが自分のことを気にかけてくれている——その事実が、どれほど温かかったか。


宰相府の十年間、誰も私に茶菓子を届けてはくれなかった。


「——カイ」


呼んだ。


「さん」を落とした。

意識して、落とした。


壁を一枚、自分の手で下ろした。


カイが目を見開いた。


夕焼けの光の中で、彼の表情が——初めて、はっきりと動いた。


驚きと、それから——もう一つ、名前のつかない何か。


「……ナディア、さん」


ぎこちない声だった。


名前を呼び合う。

それだけのことなのに。


潮風が、二人の間を吹き抜けた。


夕焼けが海に溶けていく。


橙色の光の中で、カイの耳がまだ赤いのが見えた。


——今度は、夕日のせいだとは思わなかった。


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