第6話「三通の催促状」
ナディア・フォーレンスが宰相邸を去って、二カ月が経った。
早春。
王都の雪は溶けたが、空はまだ重い灰色をしている。
レクセンド宰相府の執務室。
朝の光が窓から差し込む前に、机の上には三通の封書が並んでいた。
一通目。隣国ヴェルディアの紋章。
二通目。東の島国タルーアの在レクセンド大使館の印。
三通目。南方連合の外交官名義の書簡。
エーリヒは三通を並べて見つめ、片眼鏡の位置を直した。
すべて、外交上の催促状だった。
ヴェルディアとの通商条約。
更新期限が一カ月後に迫っているのに、交渉文書の返答がなされていない。
タルーアの大使館。
定期報告会議の日程調整を三度打診しているが、宰相府から回答がない。
南方連合。
外交使節の受け入れ手続きが滞っている。
三通に共通するのは、「返答をいただけない場合、遺憾ながら——」という一文だった。
二カ月前まで、こうした文書はすべてナディア・フォーレンスが処理していた。
受信、翻訳、内容の分析、返答の起草、宰相への報告、そして発送。
一つの文書につき五つの工程。
それを四カ国語で。
年間で何百通。
エーリヒはこの二カ月、引き継ぎ資料を頼りにヴェルディア語の解読を進めていた。
辞書と慣用表現の一覧を照らし合わせ、一文ずつ訳す。
だが、外交文書には慣用表現だけでは読み解けない含意がある。
言葉の裏にある政治的な意図。
句読点の打ち方一つに込められた圧力の度合い。
それを正確に読み取るには——十年の経験が必要だった。
エーリヒにはその経験がない。
ナディアの隣で働いてはいた。だが、翻訳の中身を見ていたのではない。完成した文書を清書し、発送していただけだ。
二カ月かけて、そのことを痛いほど思い知らされていた。
*
午後。
宰相オスヴァルトが執務室に現れた。
「催促状はどうなっている」
「三通、すべて外交上の苦情です。ヴェルディアの通商条約の件が最も急を要します」
「翻訳は」
「進めておりますが、外交文書の翻訳精度に確信が持てません。誤訳があれば——」
「外部の翻訳者は」
「何度も申し上げておりますが、機密文書を——」
「前の妻が一人でできたことが、なぜ府全体でできない」
オスヴァルトの声が、執務室に低く響いた。
眉間の皺が深い。
苛立ちを隠そうともしていなかった。
エーリヒは、片眼鏡を直す手を止めた。
「——前の奥方様は、十年かけてその能力を築かれたのです」
自分の声が、思ったより大きかった。
オスヴァルトが沈黙した。
「四カ国語の習得。各国の外交慣行の理解。社交界の人脈構築。帳簿管理の暗号化。すべてこの府の中で、十年の歳月をかけて身につけられたものです。それを数週間で代替することは——誰にもできません」
言い切った。
自分でも驚いていた。
十年間、この宰相に反論したことは一度もなかった。
オスヴァルトの目が、一瞬だけ揺れた。
だが次の言葉は——。
「……わかった。引き続き対応しろ」
それだけだった。
踵を返し、執務室を出ていく。
扉が閉まった。
エーリヒは椅子に座り直し、深く息を吐いた。
通じなかった——とは思わなかった。
あの一瞬の目の揺れ。
この宰相なりに、何かが届いた……のかもしれない。
確証はなかった。
*
同じ頃。
宰相邸の応接間では、リゼット・マルーアが青い顔をしていた。
今月の夜会。
招待客の席次を決める際に、侯爵家と伯爵家の序列を取り違えた。
引き継ぎ資料の二冊目には注釈がある。
「レクセンド宮廷の席次は爵位だけでなく、家門の創設年次と現当主の宮中席次を加味して決定する」——と。
その注釈を読み落としていた。
侯爵家からの抗議は厳しかった。
「先代の宰相夫人であればありえない失態です」
その言葉が、まだ耳に残っている。
リゼットは応接間で一人、引き継ぎ資料を開き直していた。
爪を無意識に口元へ運びかけ——止めた。
噛んでいる場合ではない。
席次表の項目を、一つずつ読み直す。
注釈を一つも読み落とさないように。
*
深夜。
執務室にはエーリヒとオスヴァルトだけが残っていた。
油灯の明かりが二人の影を壁に映している。
領地帳簿の解読作業。
エーリヒが処理できた三領地分の報告書を、オスヴァルトが黙読している。
残り五領地分は、まだ手つかずだった。
長い沈黙の後——オスヴァルトが口を開いた。
「——あれは、最初からこうなることを見越していたのか」
声が低かった。
苛立ちではなく——もっと別の、重いものが混じった声だった。
「いいえ」
エーリヒは即答した。
「前の奥方様は……この国が困らないよう、資料を残されました。ただ、あの方の十年を数週間で引き継ぐことは——」
「——誰にもできない、か」
オスヴァルトが窓の外を見た。
春の夜。星は見えない。厚い雲が空を覆っている。
エーリヒには、この宰相の横顔が何を考えているのか、読めなかった。
十年仕えてきたが——この人の本当の感情を読み取れたことは、一度もない。
*
翌日。
オスヴァルトがリゼットを呼んだ。
「ナディアの実家に連絡を取る。あの女の居場所を——」
リゼットが口を開いた。
「あの方はブランシェ男爵家のご三女です」
「知っている」
「ブランシェ男爵家は三年前に断絶しております。当主のご逝去の後、後継者がおらず、爵位は返上されました」
オスヴァルトの手が止まった。
三年前。
「……連絡先は」
「ございません。ご実家はもう、存在いたしませんので」
リゼットの声は平坦だった。
社交界の令嬢として、貴族の家系情報は把握している。それが自然な知識だった。
エーリヒは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
三年前に実家が断絶。
つまりナディア・フォーレンスは——結婚六年目の時点で、すでに退路がなかった。
頼る実家がない。
帰る場所がない。
それでも——あの人は、七年かけて自分で退路を作った。
引き継ぎ資料を三冊残し、離縁届を先に出し、振り返らずに去った。
……あの人は、どれほど孤独だったのだろう。
エーリヒは片眼鏡の位置を直した。
指はもう、震えなかった。




