第5話「嵐の夜の選択」
大口取引から十日が経った。
早春。
カルーサの空は毎日青く、潮風は日ごとに温かくなっていた。
——はずだった。
その日の昼過ぎから、空の色が変わった。
西の海上に黒い雲が湧き、港の旗がちぎれそうなほど風が強まった。
グレンが商会に駆け込んできたのは、夕方だった。
「季節外れの大嵐じゃ。今夜から明朝にかけて、高波が出る」
「倉庫は?」
「第三埠頭の倉庫は海面から近い。浸水するかもしれん」
第三埠頭の倉庫。
あの大口取引の香辛料——丁子、肉桂、胡椒——十二箱が、そこに保管されている。
北方への出荷は五日後の予定だった。
まだ倉庫にある。
「高所の倉庫に移す時間は」
「今夜中にやれれば間に合う。じゃが——」
グレンが窓の外を見た。
すでに雨が叩きつけ始めている。
風が建物の壁を揺らしていた。
「嵐の中で荷を運ぶのは危険じゃ。人夫は集めるが、無理はさせられん。明朝まで待てば——」
「待てません」
声が、自分でも思ったより鋭かった。
「あの荷を失えば、ブランシェ商会は最初の大口取引で信用を失います。タルーアの商人にも、北方の卸先にも顔向けできなくなる」
グレンが黙った。
商売人としての判断はわかっている。
荷の損失と人命を天秤にかければ、答えは明らかだ。
でも——。
「私が行きます。様子を見て、運べそうなら運ぶ。無理なら戻る」
「一人で行くつもりか」
「いえ——」
「……俺が行きます」
声は、背後からだった。
振り返ると、カイが立っていた。
いつから事務室にいたのか。
腕を組み、いつもの無表情で——けれど、目だけはまっすぐこちらを見ていた。
「護衛の仕事ですから」
*
嵐の港は、昼間とは別の場所だった。
雨が横殴りに降り、足元の石畳が川のように水を流している。
灯りは風で消え、あるのは稲光だけだった。
第三埠頭の倉庫に着くと、すでに海水が床に滲み出していた。
くるぶしほどの深さ。
まだ浅い。だが、波が来るたびに水位が上がっている。
「グレンが手配した人夫が三人、来ています」
カイが倉庫の奥を指した。
濡れた外套の男たちが、香辛料の木箱の前で待機している。
「高所の第一倉庫まで運ぶ。距離は港を挟んで二百歩ほど」
「わかりました。一箱ずつ、二人がかりで」
十二箱。
二人一組で運んで、六往復。
嵐の中で、どれだけ時間がかかるかわからない。
考えるより先に、体が動いた。
木箱の取っ手を掴む。
カイがもう片方を持った。
雨の中を走った。
*
八箱を運び終えたとき、風がさらに強まった。
倉庫の水位はすでに膝下まで上がっていた。
木箱が浮きかけている。
九箱目を運び出そうとしたとき——。
頭上で、軋む音がした。
倉庫の梁だ。
古い木材が、嵐の風圧で悲鳴を上げている。
「——ッ」
音が変わった。
軋みではなく、裂ける音。
上を見た。
梁の一本が、斜めにずれている。
落ちる。
そう思った瞬間、横から衝撃が来た。
体が押された。
水の中に倒れ込む。
冷たい海水が顔にかかり、一瞬、何も見えなくなった。
背後で——重い音。
木材が落ちた音だった。
水を払って顔を上げると、倒れている人影があった。
カイだった。
落下した梁の破片が、彼の左肩の上に乗っている。
「カイさんっ」
這うようにして駆け寄った。
人夫たちが梁の破片を持ち上げてくれた。
カイの左肩。
鎖骨の近く——古い刀傷があった場所のすぐ横が、赤く腫れ始めている。
左腕がだらりと下がっていた。
「……大丈夫、です」
嘘だ。
声が、歯を食いしばった隙間から漏れるような声だった。
「なぜ——」
声が震えた。
自分の声が震えていることに、驚いた。
十年間、泣かなかった。怒鳴らなかった。声を荒らげなかった。
なのに——。
「なぜそんなことを」
カイが、水に濡れた顔で、初めて私をまっすぐ見た。
逸らさずに。
「……あんたが、死んだら困る」
敬語が消えていた。
目が真剣だった。
表情の乏しい顔に——初めて、はっきりとした感情が浮かんでいた。
……何の感情なのかは、わからない。
でも——この人は、本気で私を庇ったのだ。
九箱目を含む残りの四箱は、人夫たちが運んでくれた。
十二箱すべてが、高所の第一倉庫に収まった。
荷は、守られた。
*
翌朝。
嵐は明け方に去った。
カルーサの空は嘘のように晴れ、潮風が洗い上げたように澄んでいた。
カイは商会の二階に寝かせた。
グレンが手配した医者の見立ては、左肩の打撲と筋の損傷。
骨は折れていないが、当分左腕は動かせない。
私は寝台の傍らに座り、医者が残した薬を布に取った。
「失礼します」
カイの左肩に、布を当てる。
彼の肌は冷たく、打撲の跡が紫色に変わり始めていた。
カイは天井を見たまま動かなかった。
「……すみません。片腕では護衛に——」
「カイさん」
遮った。
言葉を選ぶ余裕がなかった。
選んでいたら、言えなくなりそうだったから。
「私は——助けてください、と言うべきでした」
カイの目がこちらに動いた。
「一人で倉庫に行こうとした私が間違っていました。グレンさんも止めてくれた。あなたも来てくれた。なのに、私は——」
十年間の癖だ。
一人でやる。一人で抱える。
誰かに頼ることは、弱さだと思っていた。
宰相府で、そうしなければ生きていけなかったから。
一度目の人生では、頼る先がなくて死んだから。
だから二度目は、自分の力で——。
でも、その「自分の力」に固執した結果、目の前の人が怪我をした。
「助けてくださいと言えなかったのは、私の弱さです。申し訳ありません」
長い沈黙があった。
カイは天井を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……俺も」
声が、いつもより低かった。
「俺も、一人でやろうとして失敗した人間です」
何のことかは、わからなかった。
彼の過去に何があったのか、私は知らない。
でも——その一言が、妙に胸に沁みた。
同じ種類の失敗をした人間が、ここにいる。
一人でやろうとして、痛い目を見た人間が。
「……そうですか」
それだけ答えた。
それ以上は聞かなかった。
彼が話したいときに話せばいい。
窓の外で、嵐の去った海がきらきらと光っていた。




