表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「引き継ぎ資料は三冊です」——宰相夫人を十年やって捨てられた私、港町で貿易商を始めたら元夫の国が静かに詰んでいく  作者: 月代


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第5話「嵐の夜の選択」


大口取引から十日が経った。


早春。

カルーサの空は毎日青く、潮風は日ごとに温かくなっていた。


——はずだった。


その日の昼過ぎから、空の色が変わった。


西の海上に黒い雲が湧き、港の旗がちぎれそうなほど風が強まった。

グレンが商会に駆け込んできたのは、夕方だった。


「季節外れの大嵐じゃ。今夜から明朝にかけて、高波が出る」


「倉庫は?」


「第三埠頭の倉庫は海面から近い。浸水するかもしれん」


第三埠頭の倉庫。

あの大口取引の香辛料——丁子、肉桂、胡椒——十二箱が、そこに保管されている。


北方への出荷は五日後の予定だった。

まだ倉庫にある。


「高所の倉庫に移す時間は」


「今夜中にやれれば間に合う。じゃが——」


グレンが窓の外を見た。

すでに雨が叩きつけ始めている。

風が建物の壁を揺らしていた。


「嵐の中で荷を運ぶのは危険じゃ。人夫は集めるが、無理はさせられん。明朝まで待てば——」


「待てません」


声が、自分でも思ったより鋭かった。


「あの荷を失えば、ブランシェ商会は最初の大口取引で信用を失います。タルーアの商人にも、北方の卸先にも顔向けできなくなる」


グレンが黙った。


商売人としての判断はわかっている。

荷の損失と人命を天秤にかければ、答えは明らかだ。


でも——。


「私が行きます。様子を見て、運べそうなら運ぶ。無理なら戻る」


「一人で行くつもりか」


「いえ——」


「……俺が行きます」


声は、背後からだった。


振り返ると、カイが立っていた。

いつから事務室にいたのか。

腕を組み、いつもの無表情で——けれど、目だけはまっすぐこちらを見ていた。


「護衛の仕事ですから」



   *



嵐の港は、昼間とは別の場所だった。


雨が横殴りに降り、足元の石畳が川のように水を流している。

灯りは風で消え、あるのは稲光だけだった。


第三埠頭の倉庫に着くと、すでに海水が床に滲み出していた。


くるぶしほどの深さ。

まだ浅い。だが、波が来るたびに水位が上がっている。


「グレンが手配した人夫が三人、来ています」


カイが倉庫の奥を指した。

濡れた外套の男たちが、香辛料の木箱の前で待機している。


「高所の第一倉庫まで運ぶ。距離は港を挟んで二百歩ほど」


「わかりました。一箱ずつ、二人がかりで」


十二箱。

二人一組で運んで、六往復。


嵐の中で、どれだけ時間がかかるかわからない。


考えるより先に、体が動いた。


木箱の取っ手を掴む。

カイがもう片方を持った。


雨の中を走った。



   *



八箱を運び終えたとき、風がさらに強まった。


倉庫の水位はすでに膝下まで上がっていた。

木箱が浮きかけている。


九箱目を運び出そうとしたとき——。


頭上で、軋む音がした。


倉庫の梁だ。


古い木材が、嵐の風圧で悲鳴を上げている。


「——ッ」


音が変わった。

軋みではなく、裂ける音。


上を見た。

梁の一本が、斜めにずれている。


落ちる。


そう思った瞬間、横から衝撃が来た。


体が押された。

水の中に倒れ込む。

冷たい海水が顔にかかり、一瞬、何も見えなくなった。


背後で——重い音。


木材が落ちた音だった。


水を払って顔を上げると、倒れている人影があった。


カイだった。


落下した梁の破片が、彼の左肩の上に乗っている。


「カイさんっ」


這うようにして駆け寄った。

人夫たちが梁の破片を持ち上げてくれた。


カイの左肩。

鎖骨の近く——古い刀傷があった場所のすぐ横が、赤く腫れ始めている。

左腕がだらりと下がっていた。


「……大丈夫、です」


嘘だ。

声が、歯を食いしばった隙間から漏れるような声だった。


「なぜ——」


声が震えた。


自分の声が震えていることに、驚いた。

十年間、泣かなかった。怒鳴らなかった。声を荒らげなかった。


なのに——。


「なぜそんなことを」


カイが、水に濡れた顔で、初めて私をまっすぐ見た。

逸らさずに。


「……あんたが、死んだら困る」


敬語が消えていた。


目が真剣だった。

表情の乏しい顔に——初めて、はっきりとした感情が浮かんでいた。


……何の感情なのかは、わからない。


でも——この人は、本気で私を庇ったのだ。


九箱目を含む残りの四箱は、人夫たちが運んでくれた。

十二箱すべてが、高所の第一倉庫に収まった。


荷は、守られた。



   *



翌朝。


嵐は明け方に去った。


カルーサの空は嘘のように晴れ、潮風が洗い上げたように澄んでいた。


カイは商会の二階に寝かせた。

グレンが手配した医者の見立ては、左肩の打撲と筋の損傷。

骨は折れていないが、当分左腕は動かせない。


私は寝台の傍らに座り、医者が残した薬を布に取った。


「失礼します」


カイの左肩に、布を当てる。

彼の肌は冷たく、打撲の跡が紫色に変わり始めていた。


カイは天井を見たまま動かなかった。


「……すみません。片腕では護衛に——」


「カイさん」


遮った。


言葉を選ぶ余裕がなかった。

選んでいたら、言えなくなりそうだったから。


「私は——助けてください、と言うべきでした」


カイの目がこちらに動いた。


「一人で倉庫に行こうとした私が間違っていました。グレンさんも止めてくれた。あなたも来てくれた。なのに、私は——」


十年間の癖だ。

一人でやる。一人で抱える。

誰かに頼ることは、弱さだと思っていた。


宰相府で、そうしなければ生きていけなかったから。

一度目の人生では、頼る先がなくて死んだから。


だから二度目は、自分の力で——。


でも、その「自分の力」に固執した結果、目の前の人が怪我をした。


「助けてくださいと言えなかったのは、私の弱さです。申し訳ありません」


長い沈黙があった。


カイは天井を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。


「……俺も」


声が、いつもより低かった。


「俺も、一人でやろうとして失敗した人間です」


何のことかは、わからなかった。

彼の過去に何があったのか、私は知らない。


でも——その一言が、妙に胸に沁みた。


同じ種類の失敗をした人間が、ここにいる。


一人でやろうとして、痛い目を見た人間が。


「……そうですか」


それだけ答えた。


それ以上は聞かなかった。

彼が話したいときに話せばいい。


窓の外で、嵐の去った海がきらきらと光っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ