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「引き継ぎ資料は三冊です」——宰相夫人を十年やって捨てられた私、港町で貿易商を始めたら元夫の国が静かに詰んでいく  作者: 月代


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第4話「南風と帳簿」


カルーサに来て、二十日が経った。


冬の終わり。

王都ではまだ雪が残っている時季だろうけれど、この港町の風はもう温かい。


朝。

事務室の机で帳簿を広げていると、グレンが扉を蹴破るように入ってきた。


「でかい話が来たぞ」


「おはようございます、グレンさん」


「おはようじゃ。で、でかい話じゃ」


彼は向かいの椅子にどかりと座り、一枚の紙を突き出した。


東の島国タルーアからの香辛料。

丁子、肉桂、胡椒——北の内陸諸国では高値で取引される品々。

それを産地から直接仕入れ、北方に卸す仲介取引の話だった。


「ハースト商会の下請けではなく、ブランシェ商会の名前で受けられる案件じゃ。タルーア側の商人はわしの古い取引先でな。信用は保証する」


ありがたい話だった。

小口の取引を三件こなしたが、まだ商会としての実績は薄い。

ここで大口を成功させれば、カルーサでの信用が一段上がる。


「ただし」


グレンが人差し指を立てた。


「相場を見る目は確かじゃろう。お前は七年間、わしと帳簿のやり取りをしとった。数字の話なら心配しとらん」


「……けれど?」


「現場は別物じゃ。品物に触って、匂いを嗅いで、色を見て——それは帳簿ではわからん」


わかっている。

宰相府で見ていたのは数字だけだ。

現物に触れたことは、一度もない。


「承知しています。教えてください」


グレンが小指の欠けた右手で顎髭を撫で、にやりと笑った。


「よう言うた。今日の昼に荷が着く。港で待っとれ」



   *



昼。


カルーサ港の第三埠頭。


タルーアから到着した商船から、木箱が次々と降ろされていく。

箱の蓋を開けると、鮮烈な香りが鼻を突いた。


「これが丁子じゃ。色が黒ずんでおるのは古い。赤みが残っとるのが新しい」


グレンが木箱の中身を掌に取って見せた。

小指の欠けた右手で、乾燥した丁子を転がす。


私はそれを受け取り、色を確かめ、匂いを嗅いだ。


確かに、紙の上の数字とは違う。

目の前にあるのは、色と匂いと温度を持った「もの」だ。


一箱ずつ、グレンの見分け方に倣って品質を記録していく。

帳簿用の記録様式は宰相府時代の応用で、すぐに組み立てられた。


「箱ごとに色と湿り具合まで書き分ける商人は、初めて見るのう」


グレンが私の記録を覗き込んで目を丸くした。


十年間、帳簿の精密さだけが私の仕事だった。

その癖が、ここでは少しだけ役に立つらしい。


全十二箱の検品を終えたとき、日はすでに傾きかけていた。



   *



検品の間、カイは私の少し後ろに立っていた。


護衛としての距離感。近すぎず、遠すぎず。


けれど途中から、彼が埠頭の荷運び人夫たちと言葉を交わしているのに気づいた。


声は小さい。

内容までは聞き取れなかったが、人夫たちの反応を見る限り、顔見知りらしい。

頷き合い、肩を叩き合っている。


検品が終わった後、カイが近づいてきた。


「……運送業者。信頼できるところを、一つ知っています」


「あなたのお知り合いですか」


「……荷運びをやっていた頃の」


三年間の港暮らしで築いた人脈か。


「助かります。ご紹介いただけますか」


「……はい。手配しておきます」


「ありがとうございます、カイさん」


カイの視線が一瞬だけ私の顔に向き——すぐに逸れた。


「……仕事です」


素っ気ない声。


でも、耳の先がわずかに色づいている。

——夕日のせいだろうか。

断定はできないけれど、前にも同じ現象を見た気がする。



   *



夕方。


事務室に戻り、帳簿をつけていた。


今日の検品結果を整理し、仕入れ値と輸送費、想定される卸値を計算する。

数字は嘘をつかない。

利益の見込みは悪くなかった。


ペンを置いたとき、事務室の入口に気配を感じた。


カイだった。


手に、布に包まれた茶菓子を持っている。


今日は——少し形が違う。

布を開くと、蜂蜜の香りがした。


「今日は蜂蜜の焼き菓子ですか」


「……ええ」


彼はそれを机の端にそっと置くと、踵を返そうとした。


「カイさん」


呼び止めた。


自分でも、少し意外だった。

十年間、誰かを茶に誘ったことなど一度もない。


「一緒にいかがですか」


カイの足が止まった。


沈黙。


三秒。五秒。


「……では」


彼が向かいの椅子に座った。


私は棚から茶葉を取り出し、湯を沸かした。

カルーサの市場で見つけた、南方の赤い茶葉。

香りが強く、蜂蜜の菓子に合いそうだと思って買ったものだ。


二つの杯に注ぐ。


湯気が立つ。


カイは杯を両手で包むようにして持ち、黙って飲んだ。


私も黙って飲んだ。


長い沈黙だった。

でも——不快ではなかった。

宰相府の食卓では、沈黙はいつも緊張を含んでいた。

ここの沈黙は、ただ静かなだけだ。


「カイさん。この港には、どれくらいお住まいですか」


「……三年ほど」


「三年。私は二十日です。ずいぶん差がありますね」


少しだけ微笑んだ。


カイの視線が動いた。


いつもは私の肩のあたりに留まっている視線が——ほんの一瞬だけ、真っ直ぐに私の目を見た。


一瞬で逸れた。


けれど、確かに目が合った。


茶の湯気越しに。

夕方の光の中で。


それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。



   *



夜。


帳簿を閉じて、二階のバルコニーに出た。


港に白い帆の船が並んでいる。

月明かりに照らされて、帆布が青白く光っている。


十年、誰かのために数字を揃えてきた。


八つの領地の帳簿。

四十七件の夜会の収支。

四カ国語の翻訳文書の管理番号。


全部、他人の数字だった。


今日つけた帳簿は、私の数字だ。


丁子の仕入れ値。輸送費の見積もり。卸値の計算。

一行一行が、私の判断で、私の名前で記したもの。


バルコニーの手すりに手を置いた。

潮風が頬に触れる。


冬の終わりの、温かい風。


帳簿はまだ薄い。

取引はまだ一つ。


でも——悪くない。


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