第3話「宰相府、崩壊の始まり」
ナディア・フォーレンスが宰相邸を去って、三日が経った。
朝。
レクセンド王都、宰相府の執務室。
筆頭書記官エーリヒ・ヴァイスは、机の上に置かれた封書を見つめていた。
隣国ヴェルディアの紋章が刻まれた封蝋。
通商条約の更新に関する、先方からの問い合わせだろう。
開封し、中の文書に目を通して——手が止まった。
ヴェルディア語だった。
当然だ。ヴェルディアからの文書なのだから、ヴェルディア語で書かれている。
問題は、今この府内にヴェルディア語を読める人間がいないということだ。
エーリヒは片眼鏡の位置を直した。
癖だった。焦ると、つい銀縁に指が伸びる。
ナディア・フォーレンスは、四カ国語を扱った。
ヴェルディア語、タルーア語、南方連合公用語、カルーサ自治語。
翻訳者を雇っていたわけではない。
彼女が、一人で。
すべての外交文書を、原語で読み、翻訳し、返答を起草していた。
それを「宰相夫人の務め」として。
エーリヒは十年間、彼女がそうしている姿を隣で見てきた。
見てきたのに——引き止めなかった。
三日前の廊下。
彼女が微笑んで言った言葉が、まだ耳に残っている。
「エーリヒさん。あとはお願いいたします」
あの瞬間、何か言うべきだった。
けれど、何を言えたというのか。
宰相が決めた離縁だ。
一介の書記官に、覆す権限はない。
——権限がないことを言い訳にして、口を閉じた。
それが事実だった。
*
午後。
執務室に、新妻リゼット・マルーアが姿を見せた。
蜂蜜色の巻き髪が揺れる。大きな青い目。
華やかな容姿が、書類の山が積まれた薄暗い執務室には場違いに見えた。
「エーリヒさん。今月の夜会の準備状況を確認したいのですが」
声は丁寧だった。
上流階級の令嬢らしい言葉遣い。
エーリヒは一瞬、どう答えるべきか迷った。
「……恐れ入りますが、夜会の準備は前の奥方様がすべてお一人で」
リゼットの目が大きく開いた。
「一人で? 招待客リストは?」
「前の奥方様の……お手元に」
「席次表は?」
「同じく」
「料理の手配先、楽団の選定は」
「すべて、前の奥方様が」
リゼットの唇がわずかに開いたまま、閉じなかった。
エーリヒは机の引き出しから、革表紙の資料を取り出した。
三冊のうちの二冊目。
夜会・社交行事の年間計画と段取り。
「こちらに、前の奥方様が引き継ぎ資料を残されています」
リゼットが受け取り、一ページ目を開いた。
年間の社交行事一覧。
整然とした筆跡で、月ごとの行事名、招待客の範囲、格式の基準が記されている。
その数——四十七件。
リゼットのページをめくる手が止まった。
「……これを、一人でやっていたの?」
声が小さくなっていた。
エーリヒは答えなかった。
答える必要がなかった。
四十七という数字が、すべてを語っていた。
*
夕刻。
エーリヒは三冊目の引き継ぎ資料を開いた。
領地帳簿の管理方式と暗号解読の手引き。
ナディアは帳簿を独自の方式で暗号化していた。
税収の数字を特定の法則で変換し、外部の人間が見ても意味を読み取れないようにしてある。
引き継ぎ資料には、その変換法則が段階的に解説されている。
エーリヒは会計の知識がある。法則そのものは理解できた。
問題は、量だった。
八つの領地。
四半期ごとの報告書。
一領地あたり十数ページの帳簿を暗号から復元し、集計し、報告書にまとめる。
ナディアは、それを一人で、毎四半期ごとにやっていた。
エーリヒが全力で取り組んでも、一日で処理できるのは一領地分がせいぜいだった。
三領地分を終えた時点で日が暮れ、残り五領地分が手つかずのまま机に積まれている。
四半期報告の提出期限は、もう過ぎていた。
*
夜。
執務室の扉が開いた。
宰相オスヴァルト・フォーレンスが入ってくる。
「外交文書の翻訳はまだか」
苛立った声だった。
眉間に深い皺が刻まれている。
「申し訳ございません。翻訳できる者がおりません」
「外部の翻訳者を雇え」
「外交機密文書を外部に委託するわけにはまいりません。情報漏洩の——」
「なんとかしろ」
オスヴァルトはそれだけ言って、踵を返した。
扉が閉まる。
エーリヒは片眼鏡を直した。
指が微かに震えていた。
「なんとかしろ」。
あの方はいつもそう言う。
そして「なんとかなった」のは——ナディア・フォーレンスがいたからだ。
十年間、「なんとかしていた」のは、彼女だった。
それをこの宰相は——。
エーリヒは首を振った。
今は怒りに時間を使う余裕がない。
*
深夜。
執務室にはエーリヒだけが残っていた。
油灯の明かりが、積み上げられた書類の山を照らしている。
三冊の引き継ぎ資料のうち、一冊目を改めて開いた。
外交文書の翻訳手順と各国の礼法。
ナディアの筆跡は端正だった。
インクの太さが一定で、文字の間隔が定規で測ったように揃っている。
ヴェルディア語の慣用表現の一覧。
タルーア語の敬称の使い分け。
南方連合の外交書簡における禁句集。
どれも、長年の実務経験がなければ書けない内容だった。
ページをめくるたびに、彼女がこの府でどれだけの仕事を——声もなく、感謝もされず——続けていたかが伝わってくる。
最後のページに辿り着いた。
余白の右下に、一文だけ書かれていた。
「この国の外交が滞りなく続くことを願っております。——ナディア」
エーリヒは片眼鏡を外した。
目を閉じた。
油灯が揺れている。
芯の燃える小さな音だけが、深夜の執務室に響いていた。
——引き止めるべきだった。
権限がないことは、言い訳にならない。
わかっている。
今さら、わかっている。
エーリヒは目を開け、片眼鏡をかけ直した。
ヴェルディアからの文書を、もう一度手に取る。
読めない言葉が並んでいる。
だが、引き継ぎ資料の慣用表現一覧と照らし合わせれば——時間はかかるが、解読の糸口くらいは掴めるかもしれない。
油灯の芯を替え、新しい紙を引き寄せた。
この府に残った人間にできることは、これしかない。




