第2話「港町の一室から」
宰相邸を出てから、十日が経った。
馬車は南へ南へと走り、景色は変わっていった。
雪に覆われた平原が草原になり、草原が丘陵になり、丘陵の向こうに——海が見えた。
カルーサ。
南の独立自治港。
馬車を降りた瞬間、潮の匂いが鼻を突いた。
王都にはない匂いだった。
塩と魚と、どこかから漂う香辛料の甘い香り。
王都の冬を十日間かけて抜けてきた身には、この温かさが嘘のようだった。
外套を脱いで腕にかけた。
港に面した通りを歩くと、聞き慣れない言葉が飛び交っている。
カルーサ自治語、ヴェルディア語、タルーア語——。
四カ国語を扱ってきた耳には、この混沌がむしろ心地よかった。
目指す建物は、港から三本目の路地にあった。
二階建ての石造り。
壁は塩風に晒されて白っぽく、窓枠は海の色に塗られている。
小さいけれど、しっかりした造りだった。
その前に、一人の老人が腕を組んで立っていた。
白髪交じりの顎髭。日焼けした肌。
右手の小指が欠けた掌で、建物の壁を叩く。
「ようやく来おったか」
グレン・ハースト。
カルーサ最大の貿易商会「ハースト商会」の会長。
そして——亡き母の遠縁にあたる人。
「お久しぶりです、グレンさん」
「久しぶりも何もないわ。手紙じゃ月に二度はやり取りしとったじゃろう」
彼が大きな声で笑う。
この笑い声を、私は手紙越しにしか知らなかった。
実際に聞くと、港の喧噪に負けないくらい大きかった。
グレンが建物の扉を開け、中へ招き入れてくれた。
一階は広い事務室。
机が二つ、棚が三つ、暖炉がひとつ。
二階は住居になっている。
「七年前にわしが押さえておいた物件じゃ。家賃は前払い分がまだ二年残っとる」
七年前。
私がこの計画を始めた年だ。
結婚三年目の冬。
あの人が——オスヴァルトが、初めて夜会で別の女性と踊った夜。
それだけなら、よくあることだと思っただろう。
けれど私には、それとは別の理由があった。
「……グレンさん」
「ん?」
「一度目の私は、ここに辿り着けませんでした」
グレンの目が、少しだけ細くなった。
この人には話してある。
七年前、手紙で打ち明けた。
私には前の人生の記憶がある。
一度目の人生。
私は宰相夫人として十年を過ごし、離縁され、実家はすでになく、頼る先もなく——王都の路地裏で、冬の夜に凍えて死んだ。
記憶はそこで途切れている。
目を覚ましたら、結婚三年目の冬の朝だった。
夫が別の女性と踊った夜会の翌朝。
「……前の人生では、何の準備もしていなかった」
同じ結末が来るとは限らない。
でも——来るかもしれない。
だから、準備した。
宰相夫人の立場を使って、各国の貿易品の相場と需要を調べた。
グレンを通じて小口の取引を重ね、少しずつ資金と信用を築いた。
七年かけて。
「あの結末を知っているから、今度は準備した」
「わかっとるよ」
グレンが頷いた。
「お前の母親もそういう女じゃった。手を打つのが早い。わしは商売のことしかわからんが、お前の母に似た娘が凍え死ぬのを黙って見とるほど、耄碌しとらん」
胸の奥が、じわりと温かくなった。
「——ありがとうございます」
「礼はいらん。看板を出せ。今日からお前はブランシェ商会の主じゃ」
グレンが差し出したのは、木製の看板だった。
『ブランシェ商会』
フォーレンスの名前は、あの書斎に置いてきた指輪と一緒に手放した。
旧姓を冠した、私の商会。
受け取って、建物の入口に掛けた。
潮風が看板を揺らす。
……ここが、私の二度目の出発点になる。
*
初日の夜。
事務室の机に帳簿を広げた。
真新しい帳簿。まだ一行も書かれていない。
宰相府では十年間、他人の帳簿を管理していた。
八つの領地の税収、支出、予算配分。
すべて私が暗号化して記録し、四半期ごとに報告書を作成した。
今度は、自分のための帳簿。
ペンを取ろうとして——右手が止まった。
薬指。
指輪の窪みがまだ残っている。
白い肌が、もう存在しない金属の形を覚えている。
十日前、あの書斎に置いてきた。
……撫でかけて、やめた。
もう、撫でるものはない。
帳簿の一行目に、日付と開業資金の額を記した。
インクが紙に滲む。
これが、一行目。
*
翌日、グレンが一人の青年を連れてきた。
「護衛じゃ。港町は商売の街じゃが、夜はそれなりに荒い。女一人は物騒じゃからのう」
青年は、グレンの後ろに立っていた。
黒い髪を短く刈り込んでいる。
背が高い。肩幅も広い。
顔立ちは整っているのに、表情がほとんどない。
襟元から覗く鎖骨の左側に、古い刀傷のような線が見えた。
目が合った——と思ったが、違う。
彼の視線は私の肩のあたりに留まっている。
「……よろしく、お願いします」
低い声。
発言の前に、短い沈黙があった。
「ナディア・ブランシェです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「……カイ、です。カイ・ゼルニア」
グレンが「こいつは口が少ないが、腕は確かじゃ。港の荷運び人夫をやっとったから、この辺りの事情にも詳しい」と補足した。
カイは何も言わず、小さく頷いただけだった。
*
カイが護衛として初めて商会に来た日の翌朝。
商会の戸口に、布に包まれた何かが置かれていた。
しゃがんで拾い上げる。
温かい。
布を開くと、干し果実を練り込んだ小さな焼き菓子が三つ。
「……?」
誰が置いたのか、見当がつかない。
通りを見渡しても、それらしい人影はなかった。
ひとつ口に入れてみる。
甘すぎず、干し果実の酸味がほどよく効いている。
好みの味だった。
不思議に思いながらも、残りの二つは茶と一緒にいただいた。
*
夕刻。
ふと、思い出した。
「カイさん」
事務室の隅で腕を組んで立っていたカイが、微かに顔を上げた。
「毎朝、戸口に茶菓子を置いているのはあなたですか」
確証はない。
ただ、今朝の茶菓子が置かれていた時刻と、カイがこの建物の近くにいた時刻が重なる——とグレンの話から推測しただけだ。
カイの肩が、ほんの少し強張った。
目が一瞬だけ見開かれたのが見えた。
「……偶然です」
「偶然、ですか」
「……はい」
視線がまた私の肩のあたりに逃げる。
嘘が下手な人だ、と思った。
表情は動かないのに、肩と目が正直すぎる。
でも、追及する理由もない。
「では、偶然に感謝します。美味しかったです」
カイは何も答えなかった。
ただ、耳の先が——ほんの少しだけ赤くなったように見えた。
薄暗い室内のせいかもしれない。
断定はできない。
でも、少しだけ温かい気持ちになった。
*
夜。
帳簿を閉じ、二階のバルコニーに出た。
港に停泊する船の白い帆が、月明かりに浮かんでいる。
潮風が三つ編みを揺らした。
十年間、窓から見えるのは王都の石壁と灰色の空だけだった。
ここには、海がある。
風が温かい。
「——ここが、私の二度目の出発点」
声に出したのは、自分に言い聞かせるためだ。
十年、誰かのために数字を揃えてきた。
これからは、自分のために。




