第1話「引き継ぎ資料は三冊です」
油灯が揺れるたびに、羽根ペンの影が便箋の上を滑る。
冬の夜。
レクセンド王都、宰相邸の書斎。
私は最後の一文を書き終え、ペンを置いた。
ヴェルディア語の外交文書。
通商条約の更新に関する返答書の翻訳。
本来なら来週の仕事だけれど、来週、私はもうここにいない。
「……これで終わり」
声に出すと、思いのほか軽かった。
机の上には革表紙の分厚い資料が三冊、角を揃えて積んである。
外交、社交、帳簿。
十年分の仕事を、三冊にまとめた。
正確に言えば、三冊にしか収まらなかった、というべきだろう。
頭の中にしかなかった手順を書き起こすのに二カ月かかった。
それでもまだ、書ききれなかったことがある。
右手の薬指に嵌めた金の指輪を、無意識に親指で撫でた。
十年。
この指輪を嵌めてから、ちょうど十年になる。
*
書斎の扉が開いた。
ノックはなかった。
この家でノックなしに入ってくるのは一人しかいない。
「ナディア。話がある」
夫——レクセンド王国宰相、オスヴァルト・フォーレンス。
金髪を後ろに撫でつけた長身の姿が、油灯の光を背にして立っている。
眉間の皺がいつもより深い。
けれど目は合わせない。視線は私の肩のあたりを漂っている。
私は椅子から静かに立ち上がった。
「はい」
彼が口を開くまでに、少しだけ間があった。
「——リゼット・マルーアを正妻に迎える。お前との婚姻は解消する」
一拍。
予想通りの言葉だった。
半年前から夜会のたびに伯爵令嬢リゼットの名を耳にしていた。
侍女たちの囁き。他家の夫人たちが私に向ける、あの憐れむような視線。
気づかないほうが難しかった。
「長年の貢献には感謝している」
オスヴァルトの声は、外交の席で使う声と同じだった。
感情のない、形だけの敬意。
十年の結婚生活で、私はこの声をよく知っている。
他国の使節に条約の破棄を告げるとき、彼はいつもこの声を使う。
つまり、私は今、破棄される条約と同じ扱いをされている。
可笑しい、と思った。
胸が痛むかと身構えていたのに、最初に浮かんだのは可笑しさだった。
「ええ。存じておりました」
私は微笑んだ。
練習した微笑みではない。本当に、少しだけ可笑しかったのだ。
オスヴァルトの眉が動いた。
「……何を、だ」
「離縁届は二週間前に提出済みです。王宮からの受理通知は昨日届きました」
書斎の空気が固まった。
沈黙。
油灯の芯が、ぱちり、と爆ぜる。
「——二週間前だと?」
「ええ」
彼の顔から表情が消えた。
眉間の皺ではなく、完全な空白。
私が十年見てきた中で、初めて見る顔だった。
この人は、自分が宣告する側だと思っていたのだろう。
私が泣くか、怒るか、すがるか。
そのどれかを想定して、この書斎に入ってきた。
でも——申し訳ないけれど。
「引き継ぎ資料は三冊です」
私は机の上の革表紙を指し示した。
「一冊目は外交文書の翻訳手順と各国の礼法。ヴェルディア語、タルーア語、南方連合公用語、カルーサ自治語の四言語に対応しています」
オスヴァルトは動かない。
「二冊目は夜会・社交行事の年間計画と段取り。今年度は四十七件。招待客の格付け、席次表の原則、料理と楽団の手配先を記載しました」
まだ、動かない。
「三冊目は領地帳簿の管理方式と暗号解読の手引き。八領地分の四半期報告の書式と、私が使っていた暗号化の手順を解説しています」
ようやく、オスヴァルトが口を開いた。
「……そこまで、準備していたのか」
「ええ。七年前から」
彼の唇が薄く開いたまま、言葉が出ない。
七年。
あなたと結婚して三年目の冬から、私はこの日のために動いていた。
その意味を、この人は今、理解しようとしている。
——たぶん、理解しきれないまま、私は出ていくことになるだろうけれど。
私は左手で金の指輪を外した。
薬指に、十年分の窪みが残っている。
白く日焼けしていない肌が、指輪の形を覚えていた。
指輪を、三冊の資料の隣に置く。
小さな金属音が、静かな書斎に響いた。
「——どうぞ、お元気で」
柔らかい声だった。
十年の最後にかける言葉としては、あまりにも軽い。
でも——重い言葉は、もう全部あの三冊に書いた。
外套を取り、書斎を出た。
*
廊下は暗かった。
壁に等間隔で掛けられた油灯の明かりが、長い影を引いている。
この廊下を、何千回歩いただろう。
朝の光の中を。真夜中の暗がりの中を。
十歩ほど進んだところで、角から人影が現れた。
筆頭書記官エーリヒ。
銀縁の片眼鏡をかけた痩身の男性。
十年間、私の指示の下で宰相府の書類を捌いてきた人。
「——奥方様」
彼は何か言おうとした。
唇が動き、けれど声にならなかった。
片眼鏡の奥の目が、微かに揺れている。
私は足を止めなかった。
「エーリヒさん。あとはお願いいたします」
微笑んで、通り過ぎた。
背後で、深く頭を下げる衣擦れの音。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが崩れそうだったから。
*
宰相邸の正門を出ると、雪が降っていた。
細かい粉雪。音もなく。
外套の襟を立てた。
吐く息が白い。
右手の薬指を、無意識に撫でた。
指輪はもうない。
代わりに、十年分の窪みだけが指先に触れる。
一歩。
雪を踏む。
二歩。
振り返らない。
三歩。
——これで、一度目の私は死なずに済む。
あの記憶の中の私は、行く当てもなく、この王都の路地裏を彷徨い、冬の夜に凍えて死んだ。
今の私は、行く場所がある。
七年かけて用意した場所が。
四歩。五歩。
雪が頬に触れた。
冷たかった。
けれど——
凍える冷たさではなかった。
夜道の先に、南へ続く街道がある。
馬車の手配は三日前に済ませてある。
私は歩いた。
振り返らなかった。




