表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「引き継ぎ資料は三冊です」——宰相夫人を十年やって捨てられた私、港町で貿易商を始めたら元夫の国が静かに詰んでいく  作者: 月代


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/8

第1話「引き継ぎ資料は三冊です」


油灯が揺れるたびに、羽根ペンの影が便箋の上を滑る。


冬の夜。

レクセンド王都、宰相邸の書斎。


私は最後の一文を書き終え、ペンを置いた。


ヴェルディア語の外交文書。

通商条約の更新に関する返答書の翻訳。

本来なら来週の仕事だけれど、来週、私はもうここにいない。


「……これで終わり」


声に出すと、思いのほか軽かった。


机の上には革表紙の分厚い資料が三冊、角を揃えて積んである。


外交、社交、帳簿。

十年分の仕事を、三冊にまとめた。


正確に言えば、三冊にしか収まらなかった、というべきだろう。

頭の中にしかなかった手順を書き起こすのに二カ月かかった。

それでもまだ、書ききれなかったことがある。


右手の薬指に嵌めた金の指輪を、無意識に親指で撫でた。


十年。

この指輪を嵌めてから、ちょうど十年になる。



   *



書斎の扉が開いた。


ノックはなかった。

この家でノックなしに入ってくるのは一人しかいない。


「ナディア。話がある」


夫——レクセンド王国宰相、オスヴァルト・フォーレンス。


金髪を後ろに撫でつけた長身の姿が、油灯の光を背にして立っている。

眉間の皺がいつもより深い。

けれど目は合わせない。視線は私の肩のあたりを漂っている。


私は椅子から静かに立ち上がった。


「はい」


彼が口を開くまでに、少しだけ間があった。


「——リゼット・マルーアを正妻に迎える。お前との婚姻は解消する」


一拍。


予想通りの言葉だった。


半年前から夜会のたびに伯爵令嬢リゼットの名を耳にしていた。

侍女たちの囁き。他家の夫人たちが私に向ける、あの憐れむような視線。

気づかないほうが難しかった。


「長年の貢献には感謝している」


オスヴァルトの声は、外交の席で使う声と同じだった。

感情のない、形だけの敬意。


十年の結婚生活で、私はこの声をよく知っている。

他国の使節に条約の破棄を告げるとき、彼はいつもこの声を使う。


つまり、私は今、破棄される条約と同じ扱いをされている。


可笑しい、と思った。

胸が痛むかと身構えていたのに、最初に浮かんだのは可笑しさだった。


「ええ。存じておりました」


私は微笑んだ。

練習した微笑みではない。本当に、少しだけ可笑しかったのだ。


オスヴァルトの眉が動いた。


「……何を、だ」


「離縁届は二週間前に提出済みです。王宮からの受理通知は昨日届きました」


書斎の空気が固まった。


沈黙。


油灯の芯が、ぱちり、と爆ぜる。


「——二週間前だと?」


「ええ」


彼の顔から表情が消えた。

眉間の皺ではなく、完全な空白。

私が十年見てきた中で、初めて見る顔だった。


この人は、自分が宣告する側だと思っていたのだろう。

私が泣くか、怒るか、すがるか。

そのどれかを想定して、この書斎に入ってきた。


でも——申し訳ないけれど。


「引き継ぎ資料は三冊です」


私は机の上の革表紙を指し示した。


「一冊目は外交文書の翻訳手順と各国の礼法。ヴェルディア語、タルーア語、南方連合公用語、カルーサ自治語の四言語に対応しています」


オスヴァルトは動かない。


「二冊目は夜会・社交行事の年間計画と段取り。今年度は四十七件。招待客の格付け、席次表の原則、料理と楽団の手配先を記載しました」


まだ、動かない。


「三冊目は領地帳簿の管理方式と暗号解読の手引き。八領地分の四半期報告の書式と、私が使っていた暗号化の手順を解説しています」


ようやく、オスヴァルトが口を開いた。


「……そこまで、準備していたのか」


「ええ。七年前から」


彼の唇が薄く開いたまま、言葉が出ない。


七年。

あなたと結婚して三年目の冬から、私はこの日のために動いていた。


その意味を、この人は今、理解しようとしている。

——たぶん、理解しきれないまま、私は出ていくことになるだろうけれど。


私は左手で金の指輪を外した。


薬指に、十年分の窪みが残っている。

白く日焼けしていない肌が、指輪の形を覚えていた。


指輪を、三冊の資料の隣に置く。


小さな金属音が、静かな書斎に響いた。


「——どうぞ、お元気で」


柔らかい声だった。

十年の最後にかける言葉としては、あまりにも軽い。

でも——重い言葉は、もう全部あの三冊に書いた。


外套を取り、書斎を出た。



   *



廊下は暗かった。


壁に等間隔で掛けられた油灯の明かりが、長い影を引いている。

この廊下を、何千回歩いただろう。

朝の光の中を。真夜中の暗がりの中を。


十歩ほど進んだところで、角から人影が現れた。


筆頭書記官エーリヒ。

銀縁の片眼鏡をかけた痩身の男性。

十年間、私の指示の下で宰相府の書類を捌いてきた人。


「——奥方様」


彼は何か言おうとした。

唇が動き、けれど声にならなかった。

片眼鏡の奥の目が、微かに揺れている。


私は足を止めなかった。


「エーリヒさん。あとはお願いいたします」


微笑んで、通り過ぎた。


背後で、深く頭を下げる衣擦れの音。


振り返らなかった。


振り返ったら、何かが崩れそうだったから。



   *



宰相邸の正門を出ると、雪が降っていた。


細かい粉雪。音もなく。


外套の襟を立てた。

吐く息が白い。


右手の薬指を、無意識に撫でた。

指輪はもうない。


代わりに、十年分の窪みだけが指先に触れる。


一歩。

雪を踏む。


二歩。

振り返らない。


三歩。


——これで、一度目の私は死なずに済む。


あの記憶の中の私は、行く当てもなく、この王都の路地裏を彷徨い、冬の夜に凍えて死んだ。


今の私は、行く場所がある。

七年かけて用意した場所が。


四歩。五歩。


雪が頬に触れた。

冷たかった。


けれど——

凍える冷たさではなかった。


夜道の先に、南へ続く街道がある。

馬車の手配は三日前に済ませてある。


私は歩いた。

振り返らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ