09 俺の部屋が聖域になった
「へえ、ここが遠山くんの家」
スーツケースをごろごろと引きずりながら、七瀬先輩は俺のアパートの部屋をぐるりと見回した。
駅から徒歩十五分、築二十年の1DK。
前の会社に勤めていた頃は、ほとんど寝に帰るだけの場所だった。働き詰めで金を使う暇もなかったから、家具も最低限しかない。
ダイニングには小さなテーブルと椅子が二脚。奥の部屋には、ベッドと、ノートパソコンを置いた机と、衣装ケースが二つ。
それだけだ。
「……なんにもないね」
「余計なお世話です」
「物というか……生活感がない。モデルルームみたい。いや、モデルルームのほうがまだ生活感ある」
「何を言っているんですか。帰ってきたら、弁当を食べ、寝る前に風呂に入り、朝になればゴミを捨てて出社する。生活していますよここで」
「それって、ここで寝てるだけでしょ」
休みの日は……寝ていることが多いけど。
俺って普段何をしているんだ?
「七瀬先輩は奥の部屋、使ってください。ベッドもそのままどうぞ。シーツは買い替えるまで我慢してください」
「そんなの別に気にしないけど……遠山くんはどこで寝るの?」
「まあ、今日は毛布があるので、明日の帰りに布団を買ってきます。荷物は衣装ケースくらいなんで、こっちに移せば済みますし」
女性を床に寝かせて、自分がベッドで寝るわけにもいかない。
たとえそれが、寝袋を持参した人であっても。
というか、どこで寝ていたのだろう?
「遠山くん……」
七瀬先輩は、なぜか少し驚いたような顔で俺を見ていた。
「なんですか」
「ううん。……ありがと。じゃあ遠慮なく」
そう言うなり、七瀬先輩は奥の部屋の机の前に陣取り、トートバッグからノートパソコンを取り出した。
「Wi-Fiのパスワード、教えて。あと、この机借りるね。今から入稿するから、朝まで話しかけないで。あと、絶対に画面覗かないで。覗いたら、遠山くんの社会的生命も道連れにする」
「……どういう脅しですか、それ」
パスワードを書いたメモを渡すと、奥の部屋の引き戸がぴしゃりと閉められた。
その夜、俺はダイニングに敷いた毛布の中で、引き戸の向こうから聞こえてくるキーボードの音を聞きながら眠った。
カタカタ、カタカタ、カタカタ。
時々、「……尊い」とか「ここで手を……いや、まだ早い」とか、意味のわからない呟きが混じっていた。
聞かなかったことにした。
* * *
翌朝。
いい匂いで目が覚めた。
味噌汁の匂いだ。
それから、魚の焼ける香ばしい匂い。炊きたてのご飯の匂い。
実家を出てから、こんな匂いで目覚めたことなんて一度もない。
寝ぼけた頭で体を起こすと、台所に七瀬先輩が立っていた。
ジャージ姿で鍋をかき回している。
「あ、起きた? おはよう」
「お、おはようございます……え、何してるんですか」
「朝ご飯。入稿、間に合ったから。というか、体は大丈夫なの?」
テーブルの上には、焼き鮭と、ほうれん草のおひたしと、卵焼きと、豆腐とわかめの味噌汁が並んでいた。
冷蔵庫に、こんなに材料が入っていただろうか。
「冷蔵庫、ほぼ空っぽだったから、朝イチでコンビニと二十四時間スーパー行ってきた。レシート、そこに置いてあるから。……あ、お金は、遠山くんのお財布から」
「俺の財布から!?」
「だって私、お金ないし」
七瀬先輩は悪びれもせずにそう言って、お椀に味噌汁をよそった。
文句を言う気力も削がれて、とりあえず席に着く。
味噌汁をひと口すする。
……美味い。
出汁がちゃんと効いている。鮭の焼き加減も絶妙で、卵焼きはふわふわだった。
昨日、炭化した卵焼きを食べたばかりだから、余計に身に染みる。
「料理、できたんですね」
「一人暮らし長いし。お金なかったから、自炊するしかなかったの。もやしのレパートリーなら百はある」
どんな生活をしていたのかを知りたくないので、そういうことを胸を張って言うことではないと思う。
昨日といい、昔見た七瀬先輩のあの姿が幻想にすら思える。
「でね、遠山くん。提案があるんだけど」
七瀬先輩は、自分の分の味噌汁をすすってから、真面目な顔で俺を見た。
「家賃、払えないから。代わりに、家事全部やる。朝ご飯と晩ご飯と、掃除と洗濯。それで、しばらく置いてくれない?」
「しばらくって……どのくらいですか」
「お金が貯まって、次の部屋が見つかるまで。……トランクルームの期限が三ヶ月だから、それまでには、なんとか」
三ヶ月。
長いような、短いような。
困っている知り合いを、放り出すわけにもいかない。
それに、正直なところ、この味噌汁は手放しがたかった。
「……わかりました。その代わり、生活費は俺が出します。食費とか」
「やった。交渉成立」
七瀬先輩は、にへらと笑った。
図書室の窓際で見た、あの静かな微笑みとは似ても似つかない、気の抜けた笑顔だった。
「あ、お昼のお弁当も作ろうか? ついでだし」
「いえ、弁当は大丈夫です」
「え、なんで? お昼、コンビニとかでしょ?」
「いや、それが……弁当は、もうあるんですよ。二つ」
「二つ?」
七瀬先輩が、首を傾げた。
俺は、これまでの経緯をかいつまんで説明した。
電車で痴漢から助けた女子高生が、お弁当屋さんでバイトをしていて、料理の練習のために毎朝弁当を作ってくれていること。
職場の社長――大学時代の先輩が、誰かに食べさせるための料理の練習中で、その味見役をやらされていること。
だから、昼は弁当が二つあって、むしろ一つ減らしたいくらいだということ。
「……ふーん」
話を聞き終えた七瀬先輩は、卵焼きをもぐもぐと噛みながら、興味なさそうに相づちを打った。
「遠山くん、大変だね」
「大変なんですよ」
「その社長さん、誰に食べさせたいんだろうね」
「さあ。わかりません」
「ふーん」
それきり、七瀬先輩はその話題に触れなかった。
深く聞かれないのは、ありがたかった。
ただ、皿を下げるとき、七瀬先輩がぽつりと呟いた。
「でも、昼にお弁当二つ食べるなら、朝と夜はちゃんと野菜多めにしないとだね。遠山くん、顔色ひどいもん」
……やっぱり、そんなにひどいのか。
* * *
七瀬先輩との同居生活が始まって、一週間が経った。
朝は味噌汁の匂いで目が覚める。
会社に行けば、昼には良子ちゃんの野菜たっぷり弁当と、先輩の日に日に黒さが薄れていく弁当。
夜、商店街のお弁当屋さんに弁当箱を返しに寄ってから家に帰ると、テーブルには七瀬先輩の作った晩ご飯が並んでいる。
洗濯物はいつの間にか取り込まれて畳まれ、部屋の隅には埃ひとつない。
一人暮らしを始めてから、これほど人間らしい生活をしたことがあっただろうか。
変化は、思わぬところに現れた。
「――遠山さん!」
ある朝、駅のホームで、良子ちゃんが目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。
「顔色、すっごく良くなってます!」
「え、そう?」
「はい! 前は、なんていうか……灰色だったのに、今は、ちゃんと人間の色です!」
最初から人間なんだが?
ゾンビ映画のゾンビのほうが活力があるとか言わないよな?
「やっぱり、お野菜の効果ですね! 私、もっと頑張ります!」
良子ちゃんは嬉しそうに両手を握りしめた。
まさか、家で初恋の人に三食作ってもらっているとは言えない。
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
会社でも、同じことを言われた。
「遠山さん、最近顔色いいですね」
「何かあったんですか? まさか、彼女でも?」
「いやいや、ないですよ」
女性社員たちに笑って否定していると、背後で書類の束が床に落ちる音がした。
振り返ると、先輩が、なぜか固まった顔でこちらを見ていた。
「……彼女?」
「違いますって」
「そうか。……そうだよな。お前に限って」
先輩はほっとしたように息を吐いて、書類を拾い始めた。
お前に限って、とはどういう意味だ。
* * *
変化は、もうひとつあった。
奥の部屋――かつて俺の寝室だった場所が、日に日に姿を変えていく。
『遠山くん、ちょっと相談があるのだけど……』
次の日に、本棚がひとつ増えた。
『遠山くん、トランクルームのものを持って来てもいい?』
トランクルームから運び込んできたものだ。
『遠山くん、ちょっと買いたい物が……』
下着のサイトを見せられたので、使っていないクレジットカードを渡すことにした。
日に日に、七瀬先輩の部屋には何かが増えていく。
そして、それを隠そうともしないので、俺は七瀬先輩がどのような人になっていたのかを知ることになった。
やたらと顔の整った男が二人、背中合わせで立っている。
ポスターは日々増えていく。どれも、男が二人ずつだった。
戸棚のようなものには、アクリルスタンドとかいう透明な板の人形が、ずらりと並んだ。
カーテンが、いつの間にか深い紫色のものに替わっていた。
本棚は二つになり、三つになり、薄い本がぎっしりと詰め込まれていった。
そこはもう、俺の部屋ではなかった。
壁という壁が、二人の男で埋め尽くされている。紫色のカーテン越しの光が、それらを妖しく照らしていた。
ベッドの枕元には、等身大のクッションが鎮座している。描かれているのは、もちろん男だ。
「……あの、七瀬先輩」
「なに?」
部屋の主は、机に向かったまま振り返りもしない。
「ここ、一応、俺の部屋なんですけど」
「居候だから、遠山くんの生活には口出ししないよ。だから遠山くんも、この部屋には口出ししないで。ここは聖域だから」
居候という割には、態度が大きくないですか?
トランクルームが期限内に片付いてよかったとは言っていたが……中身が全部これだとは思わなかった。
「……聖域」
「そう。聖域と書いてサンクチュアリよ」
言い直しても、意味は変わらない。
「というか、七瀬先輩。トランクルームが空になったってことは……三ヶ月の期限、なくなってませんか?」
「…………」
キーボードを叩く音が、ぴたりと止まった。
「……さ、締め切り近いから。話しかけないで」
カタカタカタカタカタ。
さっきより明らかに速い音で、キーボードが鳴り始めた。
居候とはいえ、七瀬先輩は俺の生活に深く踏み込んでくることはなかった。
俺がどこで誰と何をしていようと、根掘り葉掘り聞いてはこない。
弁当の話も、あれ以来一度も出てこない。
ご飯を作って、掃除をして、洗濯をして、あとは聖域にこもってキーボードを叩いている。
適度な距離感。
それが、なんだか心地よかった。
――ふと、本棚の一番上の段に、見覚えのあるものが目に入った。
一冊だけ、他の薄い本とは違う、古びた文庫本。
色褪せた、深緑色の布のブックカバーがかけられている。角が擦り切れて、白っぽくなっていた。
見間違えるはずがない。
十五年前、図書室の窓際で、七瀬先輩がいつも読んでいた本だ。
あの頃の俺は、あのブックカバーの中身が気になって仕方がなかった。
きっと、難しい純文学か、海外の古典か何かなんだろうと思っていた。
七瀬先輩みたいな人が読む本なんだから、と。
「……それ、懐かしいでしょ」
いつの間にか、七瀬先輩が椅子ごと振り返って、俺を見ていた。
分厚い眼鏡の奥の目が、少しだけ細められている。
「高校のときに読んでたやつ。今でも、たまに読み返すの」
「覚えてます。いつも、図書室で」
「うん。やっぱり、出会いは大切にしたいからね」
出会い?
七瀬先輩は立ち上がって、本棚からその文庫本を抜き取った。
そして、俺の目の前に差し出してくる。
「気になるのなら……見てもいいよ」
ブックカバーの端に、七瀬先輩の指がかかっている。
ほんの少しめくれば、十五年間知らなかった中身がわかる。
なぜだろう。
俺は、その本に手を伸ばすことができなかった。
開けてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がした。
――いや、たぶん、もうとっくに変わっているのだ。
壁一面の二人の男たちが、無言でそう告げている気がした。
ただ、俺は自分の幻想に向き合えないだけだ。
「……また、今度にします」
「そっか」
七瀬先輩は、特に気にした様子もなく、文庫本を本棚に戻した。
そして、何事もなかったかのように机に向き直り、キーボードを叩き始める。
カタカタ、カタカタ。
引き戸を閉めて、ダイニングに戻る。
テーブルの上には、七瀬先輩が作ってくれた晩ご飯が、ラップをかけて置いてあった。
肉じゃがと、小松菜の煮浸しと、豆腐の味噌汁。
レンジで温めて、ひとりで食べる。
……美味かった。
弁当屋で夕飯を買うことも無くなった。今は、七瀬先輩が俺の生活を支えてくれている。
図書室の七瀬先輩は、こんな味噌汁を作る人だったのだろうか。
あの頃の俺は、あの人の何を見ていたのだろう。
そんなことを考えながら、俺は肉じゃがのじゃがいもを、ゆっくりと噛みしめた。




