08 初恋の人が行き倒れていた
先に動いたのは、良子ちゃんだった。
「あ、あの……おはようございます!」
ぺこりと、深く頭を下げる。
先輩は一瞬きょとんとしてから、慌てて背筋を伸ばした。
「お、おはよう。……君が、その、弁当の」
先輩は驚いた表情で良子ちゃんを見ていた。
女子高生と言っていたけど、先輩と違って毒のない様子に驚いたのだろう。
「は、はい! 西村良子です。遠山さんには、いつもお世話になってます」
「吉沢だ。こいつの……まあ、上司だな」
二人の間に、妙な沈黙が落ちる。
良子ちゃんは少し俯き、先輩はなぜか腕を組んで俺を睨んでいる。
俺は固唾を呑んで、二人を見守った。いったい何が始まるんだ。
「あの、吉沢さん」
良子ちゃんが、意を決したように顔を上げた。
「遠山さん、顔色悪くないですか?」
「――わかる」
先輩が、ものすごい勢いで頷いた。
……顔色が悪い?
いつもと何ら変わりはないと思うのだが?
「こいつ、ずっと顔色悪いんだ。再会したときなんか、死人かと思った」
「ですよね!? 私、最初にお店に来たとき、救急車呼ぼうか本気で迷ったんです」
「わかる。わかるぞ」
先輩と良子ちゃんは何かに共感をしている。死人だの救急車だの、二人は人を何だと思っているのだろうか……でも、なんだろう。
さっきまでの凍りついた空気はどこへやら、二人は俺の顔色の悪さについて、がっちりと意気投合していた。
本人を目の前にして。せめて、本人の居ないところで言ってほしいものだ。
そうこうしているうちに、電車がホームに滑り込んできた。
「あっ、で、電車! 遠山さん、これ、お昼に食べてください! 吉沢さん、失礼します!」
良子ちゃんは俺の手に弁当を押しつけると、ドアが開いた瞬間、ものすごい勢いで車内に飛び込んでいった。
……いや、俺もその電車なんだけど。
後を追おうとして、ふと気づく。
さっき俺を睨んでいた男子高校生も、同じドアから乗り込んでいった。良子ちゃんのすぐ近くに立っている。
良子ちゃんは、なぜか吊り革を両手で握りしめて、窓の外ばかり見ていた。
まあ、同じ学校の生徒が近くにいるなら安心……で、いいのか?
電車のドアが閉まる。
ホームに取り残されたのは、俺と先輩だけだった。
「……行っちゃいましたね」
「行ったな」
先輩は、思い出したように紙袋を俺の胸に押しつけてきた。
「これ、昼に食え。そして、感想を書いて提出しろ」
「提出?」
「正直に、詳細にだ。味、見た目、食感、改善点。遠慮はいらん。忖度したら殴る」
……弁当に、レポート提出を求められたのは初めてだ。
いや、弁当二つもあるんだけど?
* * *
昼休み。
俺のデスクの上には、弁当箱が二つ並んでいた。
ひとつは、良子ちゃんの弁当。
ふたを開けると、相変わらず彩りが綺麗だった。ほうれん草の胡麻和え、きんぴらごぼう、ひじきの煮物。野菜がこれでもかと詰め込まれている。
俺の顔色は、そんなに心配されているのか。
卵焼きを一口かじる。――ちゃんと、塩味がした。ふわりと甘くて、しょっぱくて、美味しい。
もうひとつは、先輩の紙袋に入っていた弁当。
ふたを開けた瞬間、俺は言葉を失った。
黒い。
まず、卵焼きが黒い。焦げた表面が、炭化して光沢を放っている。
おにぎりは、握る力が強すぎたのか、米粒が潰れて餅のようになっていた。形は三角でも丸でもなく、なぜか正確な立方体だった。
唐揚げらしきものは、外が焦げているのに、割ってみると中がほんのり赤い。
背後から、ヒソヒソと声が聞こえてくる。
「見て。二個あるわよ」
「片方、何あれ。事故現場?」
「あっちが社長のでしょ。絆創膏、三枚巻いてたもの」
……振り返らなくても、部署中の視線が俺の手元に集まっているのがわかった。
俺は覚悟を決めて、立方体のおにぎりにかじりついた。
固い。そして、しょっぱい。おそらく塩を、良子ちゃんが入れ忘れた分まで入れたのだろう。
それでも、全部食べた。
二つとも、残さず。
唐揚げだけは、生焼けが怖かったので、給湯室の電子レンジで温め直してからにした。
食べ終わってから、言われたとおりにレポートを書いた。
卵焼きは火が強すぎる。弱火でじっくり。おにぎりは握りすぎ。三回、ふんわり。唐揚げは二度揚げ推奨。
それから最後に、一行だけ付け加えた。
『味付けの方向性は、悪くないと思います』
嘘ではない。黒い部分を除けば、確かに出汁の味がした。
レポートを社長室に届けると、先輩はそれをひったくるように受け取って、真剣な顔で読み始めた。
一行一行、指でなぞりながら。
途中で手帳を開き、何かを書き写している。
「……弱火で、じっくり、か」
「先輩、そんなに真剣にならなくても」
「真剣にもなる」
先輩は手帳から顔を上げずに、ぽつりと言った。
「できることなら、美味しいと言ってほしいだろう。半端なものは出せない」
俺は何も言えなくなった。
社長室のドアを閉めてから、廊下でしばらく立ち尽くす。
先輩が、誰かのために料理を練習している。
それが誰なのかは、わからない。わからないけれど……。
いや、まさかな。
俺はぶんぶんと首を振った。
三十を過ぎて、そんな都合のいい勘違いをしてどうする。モテ期なんて、都市伝説だ。
自分の席に戻ると、隣の女性社員が、生暖かい目で俺を見ていた。
* * *
定時で会社を出て、いつもの商店街へ向かう。
昼に弁当を二つも食べたせいで、正直あまり腹は減っていない。でも、良子ちゃんに弁当箱を返さなければいけないし、店主さんにもお礼を言いたい。
夕暮れの商店街は、買い物客で賑わっていた。
八百屋の呼び込み。焼き鳥屋から漂う煙。どこからか聞こえてくる、豆腐屋のラッパの音。
前の会社に勤めていた頃は、こんな時間に外を歩いたことなんてなかったな。
そんなことを考えながら歩いていた、そのときだった。
前方から、ふらふらと、おぼつかない足取りで歩いてくる人影があった。
大きなスーツケースを引きずっている。
上下灰色のジャージに、ぼさぼさの長い髪。分厚い眼鏡。肩には、パンパンに膨れ上がったトートバッグ。
足元を見ていない。というか、目の焦点が合っていない。
危ないな、と思って脇へ避けようとした瞬間、その人影がぐらりと傾いた。
まっすぐ、俺のほうへ。
「うわっ!?」
とっさに受け止める。
軽い。驚くほど軽かった。
衝撃で、肩のトートバッグが地面に落ちた。
中から、薄い冊子がばさばさと何冊も散らばる。表紙には、やたらと顔の整った男が二人、妙に距離の近い構図で描かれていた。
「あ、あの、大丈夫ですか!?」
腕の中の人は、ぐったりとしたまま動かない。
まさか、どこか具合が悪いのか。救急車を――。
――ぐうううううううぅぅぅぅぅぅ。
商店街の喧騒をかき消すほどの、盛大な音が鳴り響いた。
通りすがりの買い物客が、ぎょっとして振り返る。
音の発生源は、間違いなく、俺の腕の中だった。
「…………おなか、すいた」
蚊の鳴くような声だった。
ずり落ちかけた分厚い眼鏡の奥で、うつろな目がゆっくりと俺を見上げる。
その顔を見た瞬間、俺の思考が止まった。
見覚えがあった。
髪はぼさぼさで、顔色は俺よりも悪いくらいで、目の下には真っ黒なクマがある。
それでも、この顔を、俺が見間違えるはずがなかった。
高校二年の秋。
当時のことを思い返してしまう。彼女は生徒会長でもあり、凛々しく穏やかな人でもあった。
そして、放課後の図書室。
図書委員をしていた頃、窓際の席で、いつも静かに本を読んでいた、一つ上の先輩。
長い黒髪が夕日に透けて、ページをめくる指先まで綺麗で、その姿をよく見ていた。
俺は、あの人に……
「……七瀬、先輩?」
腕の中の人は、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、眼鏡の位置を指で直して、じーっと俺の顔を見つめる。
「……あー、ん?」
しばらくして、ぽん、と手を打った。
「遠山くんだ。図書室の」
覚えていたのか。
よりにもよって、「図書室の」で。
あの七瀬先輩が……
――ぐうううううぅぅぅ。
二度目の音が鳴った。
どうして七瀬先輩がと言うよりも、こんな状態の知り合いをこのままにもできそうになかった。
「……とりあえず、何か食べに行きましょうか」
「おごり?」
何でそんなに期待した目をしているのですか……
「……おごりです」
「行く」
即答だった。
俺は地面に散らばった薄い本を、なるべく表紙を見ないようにしながら拾い集めた。
多少の知識程度ならあるのだけど、七瀬先輩は変わったみたいだな。
* * *
商店街の外れにある、ファミレスに入った。
七瀬先輩は、メニューを開くなり、ものすごい速さでページをめくり始めた。
「ハンバーグセットと、カルボナーラと、ミックスグリル。ライス大盛りで。あと、ドリンクバー。それから、デザートにチョコレートパフェ」
「……一人で、ですか?」
「一人で」
店員さんが、ちらりと俺の顔を見た。
俺は小さく頷いて、自分の分はドリンクバーだけ注文した。昼の弁当二つが、まだ胃の中に居座っている。
料理が運ばれてくると、七瀬先輩は、ものも言わずに食べ始めた。
ハンバーグが消える。カルボナーラが消える。ミックスグリルのソーセージが、次々と吸い込まれていく。
まるで、早送りの映像を見ているようだった。
その様子を眺めながら、俺は、十五年前の図書室を思い出していた。
七瀬桜子。
高校の一つ上の先輩で、同じ図書委員。
いつも窓際の同じ席で、ブックカバーのかかった文庫本を静かに読んでいた。誰とも群れず、騒がず、それでいて凛としていて。
俺にとっては、物語の中から抜け出してきたような人だった。
何ヵ月もかけて勇気を振り絞って、俺は告白した。
七瀬先輩は、読んでいた本から顔を上げて、少しだけ困ったように笑った。
『ごめんね。遠山くん』
七瀬先輩は、それから何も変わった様子を見せなかった。
ただ、振られたことだけは、はっきりとわかった。
「……ぷはぁ」
気づけば、テーブルの上の皿はすべて空になっていた。
七瀬先輩は満足そうに息を吐き、チョコレートパフェの最後の一口を口に運んでいる。
「生き返ったー。三日ぶりのご飯、最高」
「三日!?」
「正確には、二日半。最後に食べたのは、塩」
「塩……」
何がどうなったら、そうなるんだ。
「あの、七瀬先輩。それで……いったい何があったんですか? その荷物は」
俺は、通路に置かれた巨大なスーツケースに目をやった。
七瀬先輩は、ドリンクバーのメロンソーダをずずっと吸ってから、あっけらかんと言った。
「追い出された」
「……はい?」
「アパート。家賃、半年溜めてたら、今朝、大家さんに鍵を替えられちゃった。荷物はこれだけ持ち出せたけど、あとはトランクルームを貸してくれて……私のお宝もあと三ヶ月しか無いの」
「は、半年……? なんでまた、そんなに」
「沼ってね、一度入ると抜け出せないのよ」
七瀬先輩は、何を言っているのだろうか?
さっき道に散らばったあの薄い本と、関係があるのだろうか。あるんだろうな。たぶん。
七瀬先輩だったら、静先輩みたいにバリバリと仕事をしていてもおかしくはないだろう。
生徒会長の時も、立派だったし……現実と言うか、今目の前にいるのは紛れもなく七瀬先輩である。
俺の中の、図書室の窓際で本を読む七瀬先輩の姿が、音を立ててひび割れていく。
「えっと……それで、これからどうするんですか?」
「んー」
七瀬先輩は、ストローをくわえたまま、「うんうん」と言いつつ俺の顔を見つめた。
長いこと、見つめていた。
な、なんだ。
そんなに見られると、落ち着かない。
「……ねえ、遠山くん」
「は、はい」
「今夜――泊めてくれない?」
時が、止まった。
ファミレスの喧騒が、遠くなる。
目の前で、初恋の人が、俺を見つめている。少しだけ首を傾げて、上目遣いで。
これは。
まさか、これが。
三十を過ぎて、ついに来たというのか。都市伝説だと思っていた、あの――。
「あ、床でいいから。寝袋あるし」
七瀬先輩はストローから口を離して、付け加えた。
「あと、Wi-Fiある? 今夜中に入稿しないと、死ぬの」
……ですよね。
俺はテーブルに額をつけて、長い長いため息をついた。
ひび割れた図書室の七瀬先輩が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。




