07 弁当が二つになりそうだ
「お客様……お客様?」
肩を揺すられて目を開けると、制服姿のホテルマンが心配そうに俺を覗き込んでいた。
廊下の窓から差し込む光が眩しい。どうやら体育座りのまま、ドアにもたれて眠ってしまったらしい。
「あ……すみません。鍵を、その、閉め出されまして」
「さようでございましたか。お部屋番号を伺っても?」
まさか「中で上司が下着を放り出して寝ているので入れませんでした」とは言えない。
適当に笑って誤魔化し、ホテルマンが去るのを待ってから、俺はそっとドアノブに手をかけた。
時刻は朝六時。
さすがに先輩も、もう服くらいは着ているだろう。着ていてくれ。頼む。
「失礼しまーす……」
部屋の中は、カーテンの隙間から差し込む朝日で薄明るかった。
そして、ベッドの上には――布団を頭まで被った、大きな繭がひとつ。
「……先輩?」
「…………」
繭がもぞりと動く。
隙間から、真っ赤になった顔が半分だけ覗いた。
「お、お前……昨日の夜、戻ってきたのか?」
「ええ、一度。でも先輩が寝ていたので、廊下で寝ました」
「廊下で!?」
繭が跳ね上がった。
幸い、先輩はホテルのバスローブを着ていた。俺は胸を撫で下ろす。ついでに、隣のベッドに散らばっていたアレも、きれいさっぱり片付けられている。
テーブルの上には、ミニバーのビールの空き缶が四本。
なるほど、そういうことか。一人で飲んで、そのまま寝落ちしたわけだ。
先輩は昔から、酒に強いふりをして実はそんなに強くない。
「……その、だな」
先輩はバスローブの襟をぎゅっと掴んで、俺から目を逸らしたまま言った。
「何も、しなかったのか?」
「当たり前じゃないですか」
俺は胸を張って答えた。
ここは誠実さを示すところだ。社会人として、部下として、そして長年の後輩として。
「先輩にそんなこと、できるわけないじゃないですか。安心してください。俺、先輩のことはそういう目で見てませんから」
完璧な回答だった。
――ドスッ。
気づけば、俺はみぞおちを押さえて床にうずくまっていた。
朝日の中で、先輩が拳を握りしめて仁王立ちしている。
「シャワーを浴びてくる。覗いたら殺す」
「の、覗きませんよ……」
「覗かないのか!」
どっちなんだよ。
バスルームの扉が勢いよく閉まる。
俺は床に転がったまま、天井を見上げた。
誠実に答えたのに殴られる。
不誠実に答えても、たぶん殴られる。
この人の正解は、いったいどこにあるんだ?
* * *
二日目の視察は、昨日よりはだいぶマシだった。
先輩は相変わらず俺と目を合わせようとしないが、少なくとも「おい」とか「ああ」とか、単語での会話は成立している。
進歩だ。大きな進歩だ。
帰りの新幹線。
窓際に座った先輩は、駅弁の蓋も開けずに、じっと窓の外を眺めていた。
トンネルに入って窓ガラスが鏡になると、先輩の視線がちらちらと俺の手元に向いているのがわかった。
俺が食べている、駅弁に。
「先輩、食べないんですか?」
「……一昨日の弁当」
「はい?」
「一昨日、お前が食べていた弁当だ。あれは、誰が作った」
ああ、そのことか。
そういえば、先輩が部署に乗り込んできたのは、ちょうど俺が弁当の蓋を開けた直後だった。
女性社員の誰かが、写真を先輩に見せでもしたのかもしれない。
なるほど。わかったぞ。
社長として、社員の食生活を心配してくれていたのか。毎日コンビニ弁当だった独身の部下が、急に手作り弁当を持ってきたら、そりゃあ何事かと思う。
「あれはですね、前に電車で助けた子がいたじゃないですか。あの子、今お弁当屋さんでバイトしてて。料理の練習中なんで、俺が味見役をやってるんですよ」
「……電車の。あの、女子高生か」
「はい。最近は毎朝、通学にも付き添ってるんですけどね。まだ一人で電車に乗るのが怖いみたいで」
先輩の動きが、ぴたりと止まった。
「毎朝……?」
「ええ、毎朝」
「それで、毎晩、その弁当屋に寄って」
「よくご存じですね」
そうだった。会社のスマホにはGPSがついているんだった。
飲み屋街を避けて帰るようになってから、電話がかかってこなくなったので、すっかり忘れていた。
先輩はしばらく黙り込み、それから、ものすごく言いにくそうに口を開いた。
「達也。その子は、たぶん……」
「わかってます」
俺は頷いた。
先輩の言いたいことは、なんとなくわかる。
「恩返しのつもりなんですよね。助けてもらったのに、毎朝付き添ってもらって申し訳ないって。だから、気を遣わせないように、早く一人で乗れるようになってほしいんですけど」
「…………」
「それに、俺なんてもう三十過ぎですよ。あの子からしたら、親戚のおじさんみたいなもんです。モテ期なんて、都市伝説ですって」
はは、と笑ってみせる。
先輩は、信じられないものを見るような目で俺を見ていた。
それから、長い長いため息をついた。昨日の朝の、駅でのため息よりもさらに長い。
「お前は……本当に、昔から何も変わらないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
先輩はようやく駅弁の蓋を開けて、黙々と食べ始めた。
少しだけ、機嫌が直ったような気がする。たぶん。
「……なあ」
半分ほど食べたところで、先輩が箸を止めた。
「私も、作ってやろうか。弁当」
「え? 先輩、料理できましたっけ?」
サークルの合宿で、カレーを炭にしたのは誰だったか。
思わずそう口にしかけて、俺は慌てて飲み込んだ。が、遅かった。顔に出ていたらしい。
新幹線の中なので、さすがに拳は飛んでこなかった。
代わりに、俺の駅弁のエビフライが、先輩の箸にさらわれていった。
* * *
自宅のマンションに帰り着くなり、静はスーツのままソファに倒れ込んだ。
「……何をやってるんだ、私は」
クッションに顔を埋めて、足をばたつかせる。
同じ部屋を取らせたのは、自分だ。
経費削減もある。それに、どうせ近いうちに――と思えば、気にするような相手でもない。
話しておきたいことも、あった。ちゃんと、二人きりのときに。
それなのに。
弁当のことで頭がいっぱいになって、一日中まともに口もきけず。
夜は気合いを入れようとミニバーのビールを開けたら、気づけば朝だった。
しかも、着替えようと脱いだものを、そのままベッドに放り出して。
「あああああ……」
思い出すだけで顔から火が出る。
あいつが廊下で寝てくれて、本当に、本当に助かった。
『俺、先輩のことはそういう目で見てませんから』
「……当たり前だ。当たり前なんだが」
女として一ミリも意識されていないというのは、それはそれで腹が立つ。
静は、クッションをもう一発殴った。
テーブルの上で、スマホが震えた。
画面に表示された名前を見た途端、静の口元がふっと緩む。
慌てて咳払いをしてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし。うん、今帰ったとこ」
「出張? 普通よ、普通。……達也? ちゃんと面倒見てるわよ。飲み屋街にも行かせてないし。約束だもの」
「……お弁当? い、今、練習中。……う、うるさいわね、もう炭にはしないわよ。ちゃんと食べさせられるようになるまで、味見役だっているんだから」
「……あいつ? 相変わらずよ。あの顔で、真顔で『大好きな先輩』とか言うの。心臓に悪いったらないわ」
「……は? 妬いてるの?」
静はソファの上で膝を抱え、真っ赤になった顔を膝に埋めた。
「……ばか」
電話を切ったあとも、しばらくスマホを胸に抱えたまま、天井を見上げていた。
それから勢いよく起き上がり、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開ける。中には、缶ビールと、卵が二つ。
しばらくそれを見つめてから、静はスマホを手に取り、検索窓に打ち込んだ。
『卵焼き 焦がさない コツ』
* * *
出張明けの朝。
いつもの駅のホームに着くと、良子ちゃんがもう待っていた。
「お、おはようございますっ!」
「おはよう、良子ちゃん。この二日間、大丈夫だった?」
「は、はい! 二日とも、ちゃんと一人で乗れました。……八時の電車は、まだちょっと無理でしたけど」
そう言って、良子ちゃんは照れくさそうに笑った。
一人で乗れたのか。それは大きな一歩だ。
なんだか、自分のことのように嬉しくなる。
「すごいじゃないか。よく頑張ったね」
「えへへ……」
頭を撫でてやりたくなったが、さすがにホームのど真ん中でそれをやったら、今度こそ通報される。ぐっと堪えた。
「あ、そうだ。これ、ありがとう。美味しかったよ」
鞄から、洗っておいた弁当箱を取り出す。
可愛らしい布に包み直したそれを差し出すと、良子ちゃんはぱっと顔を輝かせた。
「ほ、本当ですか!? 卵焼き、どうでした?」
「うん、美味しかった。……強いて言うなら、ちょっとだけ塩を足すと、もっと美味しくなるかも」
「あっ……! 塩、入れ忘れてました……!」
良子ちゃんは両手で頬を押さえて、耳まで赤くなった。
うんうん、失敗は成長のもとだ。店主さんも、きっと喜ぶだろう。
「あの、遠山さん。それで、その……」
良子ちゃんが、鞄の中をごそごそと探る。
出てきたのは、この前のうさぎ柄とは違う布に包まれた、新しい弁当箱だった。
「今日の分も、作ってきました。今度は、ちゃんと塩、入れました!」
「え、今日も?」
さすがに毎日は悪い。
材料費だってかかるだろうし、高校生の朝は忙しいはずだ。
断ろうと口を開きかけた、そのとき。
「――達也」
背後から、聞き覚えのある声がした。
低く、静かで、なぜか周囲の温度が二度ほど下がったような声だった。
ゆっくりと振り返る。
そこには、スーツ姿の先輩が立っていた。
なぜか、片手に大きな紙袋を提げて。
なぜか、反対の手の指には、絆創膏が三枚も巻かれていて。
「せ、先輩? なんでこの駅に……先輩の家、反対方向ですよね?」
「た、たまたまだ」
先輩の視線が、俺の顔から、良子ちゃんの手元の弁当箱へと移る。
良子ちゃんの視線も、先輩の顔から、先輩の手元の紙袋へと移る。
ホームに、電車の到着を告げるアナウンスが流れた。
二人とも、一歩も動かない。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた列に、良子ちゃんと同じ制服の男子が立っていた。
この前、改札の向こうから俺を睨んでいた、あの男子だ。
今日も、ものすごい目つきでこちらを見ている。
……なんだ、この空気は。
前門の先輩、後門の男子高校生。俺が何をしたというんだ。
俺はただ、二人の間で立ち尽くすことしかできなかった。
朝の通勤ラッシュの喧騒の中で、なぜか俺たちの周りだけ、妙に静かだった。
ひとつだけ、確かなことがある。
――今日の昼、俺はたぶん、弁当を二つ食べることになる。




