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30を過ぎた俺に、モテ期という都市伝説は来なかった  作者: 松原 透


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06 なぜ同じ部屋なんだ

 今回の出張は、地方にある取引先の施設を見て回る視察が目的で、誰かと商談をする予定はない。

 気楽な出張のはずだった。

 なのに、電車から新幹線に乗り換えても、先輩のテンションは一向に低いままだった。


 学生時代、サークルの皆で旅行に出かけたときは、新幹線の中でトランプ大会が始まり、先輩が一番騒いでいた。

 さすがに今はあそこまでのテンションでなくてもいい。でも、もう少し何か話すことくらいあると思うのだけど。


「先輩、もしかして寝不足だったりします?」


「ああ……そうでもなくない」


 どっちなんだよ。


 ややこしいうえに、なんだか棘のある言い方だ。

 昨日あれだけ怒っていたし、理由はわからないけれど、ここは俺が謝っておくべきなのだろうか。

 とはいえ、「何に対して謝ってるんだ」と聞き返されたら、答えに詰まる。


「……どうぞ」


 鞄から、出がけに駅の売店で買ったお菓子を取り出して、封を開けて差し出してみた。

 先輩の好きな、チョコのかかったプレッツェルだ。学生時代、部室に常備されていたやつ。


 先輩はちらりとそれを見て、フンと鼻を鳴らし、窓のほうへそっぽを向いた。


 これで少しは機嫌が直るかと思ったのだが、これはかなりまずい。

 どうすれば機嫌が戻るんだ?

 いつものようにおだてれば解決しそうな気もする。だが、なぜか今日に限っては、それをやると取り返しのつかない失敗をする予感がした。


「……お前は」


「は、はい」


「いや……なんでもない」


 新幹線という閉鎖的な空間の中で、気まずい時間だけが流れていく。

 結局、ほとんど会話のないまま、目的地の駅に到着した。


 先輩は俺のほうを見ることもなく、スタスタとホームを歩いていく。俺はその後を追いかけることしかできなかった。


 いくつかの施設を訪問している間、先輩は普段どおりに近い状態に戻っていた。

 先方の担当者とにこやかに挨拶を交わし、鋭い質問を投げかけ、的確にメモを取っていく。

 仕事中の先輩は、やっぱりすごい。

 だが――俺に話しかけてくることは、一度もなかった。




  * * *




 日が暮れて、今日泊まるビジネスホテルに着いた。

 フロントでチェックインを済ませるまでは、特に問題はなかった。


 問題は、渡されたカードキーが一枚しかなかったことだ。


 シングルが二部屋――ではなく、ツインの部屋がひとつ。

 つまり、ひとつの部屋に、シングルベッドが二つ並んでいる。

 どう考えても、何かがおかしい。


『初めての出張だけど、社長と仲良くね』


 出発前、柳部長はにこにこしながらそんなことを言っていた。

 だが、今はとてもじゃないが、仲良くできるような状況ではない。

 ようやく一人になって一息つけると思っていたのに、先輩と同じ部屋って、どうなっているんだ?


 部長は、こうなることを知っていて、あんなことを言ったのか?

 もしそうだとしたら、人間関係のトラブルを避けるという意味でも、絶対にありえない采配だろう。

 経費削減にしたって、限度がある。


「ふぅ……。今日は、すまなかった」


 部屋に入るなり、先輩はそう言ってベッドに倒れ込んだ。


「ああ、いえ。俺は全然」


 仰向けになった先輩は、目を閉じて大きく息を吐いている。

 ……なんというか、刺激が強い。

 少し短めのタイトスカートが、際どいところまでずり上がっている。見えそうで、見えない。


 俺はできるだけそちらを見ないように視線を逸らしながら、窓際のほうへ移動して荷物を下ろした。


「そ、その……なんで、同じ部屋なんですか?」


 窓の外の夜景を見たまま、恐る恐る尋ねる。


「……お前と、だったからな」


 先輩は目を閉じたまま、ぽつりとそう言った。

 どういう意味なんだろう。


 確かに、学生時代からよく知る間柄ではある。

 だが、先輩は女性だ。普通なら、別々の部屋を取るはずだ。

 例えば、俺たちが特別な関係なら、話は別だけど――。


 って、何を考えてるんだ、俺は!


 この状況のせいで、余計な考えが浮かんでしまう自分が恥ずかしい。

 先輩はきっと、俺のことを弟分くらいにしか思っていないから、気にしていないだけだ。そうに決まっている。


「悪い……少し、一人にさせてもらえるか?」


「わかりました。何かあったら、連絡ください」


 スマホと財布を持っていることを確認して、軽く頭を下げてから部屋を出た。


 ドアが閉まる直前、先輩が何か小さく呟いた気がしたが、聞き取れなかった。


 さて、これからどうするかな。

 明日も視察がある。それまでに、先輩が元気になってくれるといいんだけど。


 ……本当に、一体何がどうなっているんだ?




  * * *




「もうすぐ夏休みだね」


「……そうだね。楽しみだね」


 放課後の教室。

 友達の言葉に相づちを打つものの、良子の表情からは、楽しみにしている様子はまったく感じられなかった。

 頬杖をついて窓の外をぼーっと眺め、何度もため息を漏らしている。


 良子の親友である立花明日香は、「重症だね」と小さく呟いた。

 その声すら、良子の耳には届いていない。


 あの日以来、怖くてたまらなかった朝八時の電車。

 達也が隣にいてくれるようになってから、その電車は、恐怖よりも期待のほうが大きい場所に変わっていた。

 憂鬱でしかなかった朝が、待ち遠しくなった。同じ車両の、いつもの場所にその姿を見つけるたびに、胸が高鳴った。


 しかし、今日は達也が出張でいない。

 一人で八時の電車に乗る勇気は、まだなかった。結局、以前と同じ遅い電車に乗った。

 あの姿がいるはずがないとわかっているのに、車内をつい見回してしまう。


 たった一日。学校までの、ほんの短い電車の時間。

 それでも、会えないというだけで、こんなにも寂しい。


「おーい。どしたー?」


 明日香に頭をぐらぐらと揺すぶられて、良子はようやく我に返った。


「え、あ、ごめん。聞いてなかった」


「ぼーっとして。またあの、おじ……お兄さんのことでも考えてたの?」


 良子は両手で顔を隠して、ぶんぶんと首を横に振った。

 耳まで真っ赤になっている。わかりやすすぎる。


 明日香は、友人として応援するべきかどうか、頭を悩ませていた。


 良い人だ、と良子は言う。

 でも、相手は大人だ。大人なら、いい人のふりをすることぐらい簡単にできる。

 優しくして、油断させて――なんて話は、ニュースでいくらでも見る。


「……まあ、よく考えて行動したほうがいいよ。あんたが良くても、向こうからしたら犯罪なんだからね」


「そ、そんなことわかってるよ! そういうことは、ほら……ちゃんと、付き合ってからだよね」


 その返事に、明日香は返す言葉を失った。

 窓の外、遠い遠い空を見上げる。


 この子は、わかっているのだろうか。

 たとえ付き合っていようが、本人同士が合意していようが、ダメなものはダメなのだということを。

 それを今口にしたところで、果たして通じるかどうかわからない。


 だから明日香は、ひとまず現実から目を逸らすことにした。


 ――でも、もしあの「お兄さん」が、本当にいい人なら。

 本当に、良子のことを大事に思ってくれている大人なら。

 そういう人は、きっと、良子が傷つくようなことは絶対にしないはずだ。


 明日香は、そう信じることにした。




  * * *




「あ、あの……先輩?」


 ホテルの近くのファミレスで二時間粘ったが、一向に電話は鳴らなかった。

 仕方なく、俺は一度ホテルに戻ってきた。


 部屋の明かりは、すべて消えていた。

 スマホのライトを頼りに、そろそろと中へ進んでいく。


 先輩は、すでに眠っていた。

 布団を頭まで被って、すうすうと規則正しい寝息を立てている。


 そして、空いているほうのベッド――つまり、俺が寝るはずのベッドの上には、無造作に脱ぎ捨てられたものが散らばっていた。


 スーツのジャケット。ブラウス。タイトスカート。

 そして……下着。


 ……これを、どうしろと?


 スーツはまだいい。ハンガーにかけてやればいい。

 だが、下着を俺が触るのは、色々とまずい。どう考えてもまずい。


 時刻は、二十三時。

 俺だってそろそろ寝たい。だが、これを放置したまま、同じベッドで寝られるほどの勇気はない。


 そうだ、トングのようなものがあれば……って、ビジネスホテルにそんなものがあるはずもない。

 それに、トングで掴んだところで、間接的に触れていることに変わりはない。


 考えろ。考えるんだ、俺。

 この状況でも、どこかに打開策はあるはずだ。あるはずなんだが……。


 気づけば俺の視線は、寝ている先輩と、ベッドの上の下着とを、交互に行ったり来たりしていた。


 考えるな。そういうことを考えると、理性の崩壊につながる。


 ここは撤退だ。

 俺は自分の鞄だけ回収して、どこか別の場所で夜を明かすことにした。


 できるだけ息を殺して、部屋の中をゆっくりと進む。

 ――ガタッ。

 足元で何かを蹴飛ばした音がして、思わず声が漏れそうになった。


 ご、ゴミ箱か……。

 なんで、こんな通路の真ん中に置いてあるんだ?


 壁際に置いてあった鞄をそっと持ち上げ、ドアのほうへ向かおうとした、そのとき。


「う、うーん……」


 先輩の声に驚いて、反射的にスマホのライトをそちらへ向けてしまった。


 先輩が、布団を抱きかかえるようにして寝返りを打っていた。

 はだけた布団の隙間から、白い肩と、すらりとした背中のラインが、ライトの光の中にくっきりと浮かび上がる。


 ……ライトさえ向けなければ、何も見えなかったのに。

 俺は、心の底から後悔した。


 なぜ、先輩の服がそこにあるのか。

 いくら先輩でも、脱いだ服をあんなふうに放り出したまま寝るだろうか?

 もしかして、先輩は……俺を?


 一歩、また一歩と、足が勝手に先輩のほうへ向かっていく。

 心臓の鼓動が、うるさいくらいに高鳴る。


 ち、違う。そうじゃない。

 そんなことが、あるはずがない。


 そうだ。先輩は疲れていて、着替える途中でそのまま寝てしまったんだ。そうに違いない。

 今日の先輩はずっと元気がなかった。きっと、相当疲れていたんだ。


 俺は頭をぶんぶんと振って、部屋から逃げ出した。


 閉めたドアに背中を預けて、そのままずるずると座り込む。

 今目を閉じたら、さっきの光景が瞼の裏に浮かんでしまう。


 子供の頃以来、俺は廊下で体育座りをしていた。

 男の悲しい性に立ち向かうべく、目をカッと見開いたまま、何度も大きく深呼吸を繰り返す。


 ホテルの廊下の非常灯が、やけに眩しかった。

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