06 なぜ同じ部屋なんだ
今回の出張は、地方にある取引先の施設を見て回る視察が目的で、誰かと商談をする予定はない。
気楽な出張のはずだった。
なのに、電車から新幹線に乗り換えても、先輩のテンションは一向に低いままだった。
学生時代、サークルの皆で旅行に出かけたときは、新幹線の中でトランプ大会が始まり、先輩が一番騒いでいた。
さすがに今はあそこまでのテンションでなくてもいい。でも、もう少し何か話すことくらいあると思うのだけど。
「先輩、もしかして寝不足だったりします?」
「ああ……そうでもなくない」
どっちなんだよ。
ややこしいうえに、なんだか棘のある言い方だ。
昨日あれだけ怒っていたし、理由はわからないけれど、ここは俺が謝っておくべきなのだろうか。
とはいえ、「何に対して謝ってるんだ」と聞き返されたら、答えに詰まる。
「……どうぞ」
鞄から、出がけに駅の売店で買ったお菓子を取り出して、封を開けて差し出してみた。
先輩の好きな、チョコのかかったプレッツェルだ。学生時代、部室に常備されていたやつ。
先輩はちらりとそれを見て、フンと鼻を鳴らし、窓のほうへそっぽを向いた。
これで少しは機嫌が直るかと思ったのだが、これはかなりまずい。
どうすれば機嫌が戻るんだ?
いつものようにおだてれば解決しそうな気もする。だが、なぜか今日に限っては、それをやると取り返しのつかない失敗をする予感がした。
「……お前は」
「は、はい」
「いや……なんでもない」
新幹線という閉鎖的な空間の中で、気まずい時間だけが流れていく。
結局、ほとんど会話のないまま、目的地の駅に到着した。
先輩は俺のほうを見ることもなく、スタスタとホームを歩いていく。俺はその後を追いかけることしかできなかった。
いくつかの施設を訪問している間、先輩は普段どおりに近い状態に戻っていた。
先方の担当者とにこやかに挨拶を交わし、鋭い質問を投げかけ、的確にメモを取っていく。
仕事中の先輩は、やっぱりすごい。
だが――俺に話しかけてくることは、一度もなかった。
* * *
日が暮れて、今日泊まるビジネスホテルに着いた。
フロントでチェックインを済ませるまでは、特に問題はなかった。
問題は、渡されたカードキーが一枚しかなかったことだ。
シングルが二部屋――ではなく、ツインの部屋がひとつ。
つまり、ひとつの部屋に、シングルベッドが二つ並んでいる。
どう考えても、何かがおかしい。
『初めての出張だけど、社長と仲良くね』
出発前、柳部長はにこにこしながらそんなことを言っていた。
だが、今はとてもじゃないが、仲良くできるような状況ではない。
ようやく一人になって一息つけると思っていたのに、先輩と同じ部屋って、どうなっているんだ?
部長は、こうなることを知っていて、あんなことを言ったのか?
もしそうだとしたら、人間関係のトラブルを避けるという意味でも、絶対にありえない采配だろう。
経費削減にしたって、限度がある。
「ふぅ……。今日は、すまなかった」
部屋に入るなり、先輩はそう言ってベッドに倒れ込んだ。
「ああ、いえ。俺は全然」
仰向けになった先輩は、目を閉じて大きく息を吐いている。
……なんというか、刺激が強い。
少し短めのタイトスカートが、際どいところまでずり上がっている。見えそうで、見えない。
俺はできるだけそちらを見ないように視線を逸らしながら、窓際のほうへ移動して荷物を下ろした。
「そ、その……なんで、同じ部屋なんですか?」
窓の外の夜景を見たまま、恐る恐る尋ねる。
「……お前と、だったからな」
先輩は目を閉じたまま、ぽつりとそう言った。
どういう意味なんだろう。
確かに、学生時代からよく知る間柄ではある。
だが、先輩は女性だ。普通なら、別々の部屋を取るはずだ。
例えば、俺たちが特別な関係なら、話は別だけど――。
って、何を考えてるんだ、俺は!
この状況のせいで、余計な考えが浮かんでしまう自分が恥ずかしい。
先輩はきっと、俺のことを弟分くらいにしか思っていないから、気にしていないだけだ。そうに決まっている。
「悪い……少し、一人にさせてもらえるか?」
「わかりました。何かあったら、連絡ください」
スマホと財布を持っていることを確認して、軽く頭を下げてから部屋を出た。
ドアが閉まる直前、先輩が何か小さく呟いた気がしたが、聞き取れなかった。
さて、これからどうするかな。
明日も視察がある。それまでに、先輩が元気になってくれるといいんだけど。
……本当に、一体何がどうなっているんだ?
* * *
「もうすぐ夏休みだね」
「……そうだね。楽しみだね」
放課後の教室。
友達の言葉に相づちを打つものの、良子の表情からは、楽しみにしている様子はまったく感じられなかった。
頬杖をついて窓の外をぼーっと眺め、何度もため息を漏らしている。
良子の親友である立花明日香は、「重症だね」と小さく呟いた。
その声すら、良子の耳には届いていない。
あの日以来、怖くてたまらなかった朝八時の電車。
達也が隣にいてくれるようになってから、その電車は、恐怖よりも期待のほうが大きい場所に変わっていた。
憂鬱でしかなかった朝が、待ち遠しくなった。同じ車両の、いつもの場所にその姿を見つけるたびに、胸が高鳴った。
しかし、今日は達也が出張でいない。
一人で八時の電車に乗る勇気は、まだなかった。結局、以前と同じ遅い電車に乗った。
あの姿がいるはずがないとわかっているのに、車内をつい見回してしまう。
たった一日。学校までの、ほんの短い電車の時間。
それでも、会えないというだけで、こんなにも寂しい。
「おーい。どしたー?」
明日香に頭をぐらぐらと揺すぶられて、良子はようやく我に返った。
「え、あ、ごめん。聞いてなかった」
「ぼーっとして。またあの、おじ……お兄さんのことでも考えてたの?」
良子は両手で顔を隠して、ぶんぶんと首を横に振った。
耳まで真っ赤になっている。わかりやすすぎる。
明日香は、友人として応援するべきかどうか、頭を悩ませていた。
良い人だ、と良子は言う。
でも、相手は大人だ。大人なら、いい人のふりをすることぐらい簡単にできる。
優しくして、油断させて――なんて話は、ニュースでいくらでも見る。
「……まあ、よく考えて行動したほうがいいよ。あんたが良くても、向こうからしたら犯罪なんだからね」
「そ、そんなことわかってるよ! そういうことは、ほら……ちゃんと、付き合ってからだよね」
その返事に、明日香は返す言葉を失った。
窓の外、遠い遠い空を見上げる。
この子は、わかっているのだろうか。
たとえ付き合っていようが、本人同士が合意していようが、ダメなものはダメなのだということを。
それを今口にしたところで、果たして通じるかどうかわからない。
だから明日香は、ひとまず現実から目を逸らすことにした。
――でも、もしあの「お兄さん」が、本当にいい人なら。
本当に、良子のことを大事に思ってくれている大人なら。
そういう人は、きっと、良子が傷つくようなことは絶対にしないはずだ。
明日香は、そう信じることにした。
* * *
「あ、あの……先輩?」
ホテルの近くのファミレスで二時間粘ったが、一向に電話は鳴らなかった。
仕方なく、俺は一度ホテルに戻ってきた。
部屋の明かりは、すべて消えていた。
スマホのライトを頼りに、そろそろと中へ進んでいく。
先輩は、すでに眠っていた。
布団を頭まで被って、すうすうと規則正しい寝息を立てている。
そして、空いているほうのベッド――つまり、俺が寝るはずのベッドの上には、無造作に脱ぎ捨てられたものが散らばっていた。
スーツのジャケット。ブラウス。タイトスカート。
そして……下着。
……これを、どうしろと?
スーツはまだいい。ハンガーにかけてやればいい。
だが、下着を俺が触るのは、色々とまずい。どう考えてもまずい。
時刻は、二十三時。
俺だってそろそろ寝たい。だが、これを放置したまま、同じベッドで寝られるほどの勇気はない。
そうだ、トングのようなものがあれば……って、ビジネスホテルにそんなものがあるはずもない。
それに、トングで掴んだところで、間接的に触れていることに変わりはない。
考えろ。考えるんだ、俺。
この状況でも、どこかに打開策はあるはずだ。あるはずなんだが……。
気づけば俺の視線は、寝ている先輩と、ベッドの上の下着とを、交互に行ったり来たりしていた。
考えるな。そういうことを考えると、理性の崩壊につながる。
ここは撤退だ。
俺は自分の鞄だけ回収して、どこか別の場所で夜を明かすことにした。
できるだけ息を殺して、部屋の中をゆっくりと進む。
――ガタッ。
足元で何かを蹴飛ばした音がして、思わず声が漏れそうになった。
ご、ゴミ箱か……。
なんで、こんな通路の真ん中に置いてあるんだ?
壁際に置いてあった鞄をそっと持ち上げ、ドアのほうへ向かおうとした、そのとき。
「う、うーん……」
先輩の声に驚いて、反射的にスマホのライトをそちらへ向けてしまった。
先輩が、布団を抱きかかえるようにして寝返りを打っていた。
はだけた布団の隙間から、白い肩と、すらりとした背中のラインが、ライトの光の中にくっきりと浮かび上がる。
……ライトさえ向けなければ、何も見えなかったのに。
俺は、心の底から後悔した。
なぜ、先輩の服がそこにあるのか。
いくら先輩でも、脱いだ服をあんなふうに放り出したまま寝るだろうか?
もしかして、先輩は……俺を?
一歩、また一歩と、足が勝手に先輩のほうへ向かっていく。
心臓の鼓動が、うるさいくらいに高鳴る。
ち、違う。そうじゃない。
そんなことが、あるはずがない。
そうだ。先輩は疲れていて、着替える途中でそのまま寝てしまったんだ。そうに違いない。
今日の先輩はずっと元気がなかった。きっと、相当疲れていたんだ。
俺は頭をぶんぶんと振って、部屋から逃げ出した。
閉めたドアに背中を預けて、そのままずるずると座り込む。
今目を閉じたら、さっきの光景が瞼の裏に浮かんでしまう。
子供の頃以来、俺は廊下で体育座りをしていた。
男の悲しい性に立ち向かうべく、目をカッと見開いたまま、何度も大きく深呼吸を繰り返す。
ホテルの廊下の非常灯が、やけに眩しかった。




