10 モテ期は、やっぱり来なかった
その日、ホームに良子ちゃんの姿はなかった。
いつもの時間。いつもの場所。
八時の電車が近づいてくるアナウンスが流れても、あの制服姿は現れなかった。
風邪でも引いたのだろうか。
それとも、何かあったのか。
ポケットからスマホを取り出したのだが、連絡先は交換していない。
女子高生の連絡先を三十過ぎの男が聞くのは、いくらなんでもまずいだろうと思っていたからだ。今になって、それを少しだけ後悔した。
同じ制服を着た生徒がいるから、学校が休みというわけではないようだ。
電車がホームに滑り込んでくる。
俺は一本だけ見送って、それでも来なかったので、次の電車に乗った。
同じ車両の、いつもの場所。
良子ちゃんだけでなく、いつも俺を睨んでいたあの男子高校生の姿も、どこにもなかった。
一緒に通うようになって、ずいぶん経つ。
休むときは、いつも前の日に電車の中で教えてくれていた。でも、昨日は何も言っていなかった。
何事もなければいいのだが……
* * *
昼休み。
俺のデスクの上には、弁当箱がひとつもなかった。
良子ちゃんの弁当がないのは、朝会えなかったから当然だ。
だが、先輩の弁当まで届かないのは、味見役を始めてから初めてのことだった。
どうしたものかとコンビニに向かおうとしたところで、社長室に呼ばれた。
「座れ」
革張りのソファに腰を下ろすと、先輩は向かいに座り、テーブルの上に一通の封筒を置いた。
真っ白な、厚手の封筒。金色の箔押しで、二羽の鳥が向かい合って描かれている。
初めて見るものに、俺は首を傾げる。
「今日は、弁当の代わりにこれだ」
「……これは?」
「開けてみろ」
先輩は腕を組んで、窓の外を見ている。
耳が、ほんのりと赤い。
封を開ける。
中から出てきたのは、二つ折りのカードだった。
――結婚式のご案内。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
結婚式。先輩の。
食べさせたい相手がいる、と言っていた。あの弁当の練習は、このためだったのか。
カードを開く。
新婦の欄に、「吉沢静」の文字。
そして、新郎の欄には――。
『白川 猛男』
「…………猛兄ちゃん?」
声が、勝手に漏れていた。
白川猛男。
母方の、三つ年上の従兄弟だ。
子供の頃、夏休みになると、母の実家がある田舎に親戚一同が集まった。
山と田んぼしかない場所で、俺はいつも猛兄ちゃんの後ろをついて回っていた。
川への飛び込み方を教えてくれたのも、猛兄ちゃんだった。
カブトムシの取れる木を教えてくれたのも。
近所の悪ガキにいじめられて泣いていた俺の前に立って、「俺の弟に何しやがる」と、三人まとめて追い払ってくれたのも。
あの頃から、猛兄ちゃんは誰よりも強かった。
俺たちは、顔がよく似ていた。
親戚のおばさんたちからは、いつも「本当の兄弟みたいねえ」と笑われていた。
ただ、中学に上がった頃から、猛兄ちゃんは空手や合気道といった武術を始めて、どんどん体が大きくなっていった。
最後に会ったのは、いつだっただろう。祖母の法事だったか。あの頃にはもう、首と肩の境目がわからないくらいの体つきになっていた。
社会人になって、前の会社で働き詰めになってから、親戚の集まりにはすっかり顔を出さなくなっていた。
「……知ってたんですか。先輩、猛兄ちゃんのこと」
「知ってたも何も……それを見ればわかるだろ」
先輩は、俺の手の中の招待状を顎で示してから、ようやくこちらに顔を向けた。
その顔は、見たこともないくらい真っ赤だった。
「婚約して、もう一年になる」
「い、一年!?」
「お前が勤めていた会社が潰れたことは、猛男さんから聞いた。お前が普段からどんな生活をしていたのかも聞いているよ。それで『あいつ、たぶん誰にも頼れずに一人で抱え込んでるから、静さん、気にかけてやってくれないか』って」
猛兄ちゃんの口真似は、ちっとも似ていなかった。
ハンバーガーショップで、偶然出会ったと思っていた。
先輩は、あの日、俺を探していたのか。
「どこで知り合ったんですか? いくら何でも接点がないと思うんですけど。いや、猛兄ちゃんはジムのトレーナーだし……まさか、そこで?」
「……それは」
先輩は気まずそうに目を逸らした。
「三年前、駅前でな。お前だと思って、後ろから声をかけたんだ。『おい、遠山!』って」
「……え」
「振り返ったら、お前の顔をした、ゴリラみたいな男が立っていた」
ゴリラ。
婚約者を、ゴリラ。……まあ、言いたいことはわからなくもない。
それに猛兄ちゃんなら、先輩の拳を食らっても、平気な顔で笑っていそうだ。
「人違いだと謝ったら、『よく言われます』って、笑ってな。それが、最初だ」
先輩は、両手で顔を覆った。
「……そこから先は、聞くな」
聞きたくても、聞けなかった。
俺の頭の中で、これまでの出来事が、すごい勢いで巻き戻されていたからだ。
「あの、先輩。ひとつずつ確認させてください」
「……なんだ」
「ハンバーガーショップで、俺がお世辞を言ったら、もじもじしてたのは」
「あの顔で、真顔で『きれいだ』とか言うからだ。猛男さんは、そういうことは言ってくれない」
「会社の前で、ビンタしたのは」
「あの顔で『大好きな先輩』とか言うからだ。心臓に悪い」
「社長室で、もう一発ビンタしたのは」
「あの顔で『好きですよ』とか言うからだ。心臓に悪い」
全部、顔だった。
俺ではなく、俺の顔の向こうにいる、猛兄ちゃんだった。
「……飲み屋街に行くなって、GPSで見張ってたのは」
「お前、自分の顔をよく見てから言え。あの顔で夜の飲み屋街をうろうろされてみろ。『吉沢さんの婚約者さん、昨日キャバクラの前で見かけたわよ』なんて噂が立ったら、どうしてくれる」
「出張で、同じ部屋だったのは」
「どうせ親戚になるんだ。気にする相手でもないだろう。……それに、あの夜、ちゃんと話そうと思ってたんだ。猛男さんとのこと。ビールを開けたら、寝てしまったが」
「……弁当の、薄情者っていうのは」
先輩は、ぐっと唇を噛んだ。
「猛男さんと、約束してたんだ。『達也に食わせて、あいつが美味いって言ったら、俺にも作ってくれ』って。あいつは昔から、嘘のつけない舌をしてるから、って。……それなのに、いざ持っていこうとしたら、お前が他所の弁当を嬉しそうに食べてたから」
味見役。
俺は、文字どおりの味見役だったのだ。
ふと、入社初日のことを思い出した。
廊下で俺を上から下まで値踏みするように眺めていた、柳部長。
社長室で、何度もちらちらと俺を見ていた女性社員。
「……まさか、会社の人たちも」
「総務の皆は知ってる。結婚式の準備も、ほとんど総務が手伝ってくれているからな。お前を初めて見たときは、皆、猛男さんにそっくりだと大騒ぎだった」
あの、生暖かい視線は。
ヒソヒソ声の、「社長があれだけ目をかけてるのに」は。
全部、社長の未来の義理の従兄弟を見守る目だったのだ。
「来月だ。……来てくれるな?」
先輩が、少しだけ不安そうな顔で俺を見る。
俺は、カードに書かれた二人の名前を、もう一度見つめた。
白川猛男。吉沢静。
あの頃、俺の前に立って悪ガキを追い払ってくれた背中と。
大学の春、迷子みたいだった俺の腕を掴んで引っ張っていってくれた手。
――なんだ。
お似合いじゃないか。
「行きますよ。絶対に」
そう答えると、先輩は、心の底からほっとしたように笑った。
それは、今まで見た中で一番、綺麗な笑顔だった。
その笑顔は、俺に向けられたものではない。
わかっていた。わかっていたはずなのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。
* * *
定時で会社を出て、商店街へ向かう。
良子ちゃんのことが気になっていた。せめて、店主さんに様子を聞いておきたい。
ガラスの引き戸を開けると、いつもの声が店内に響いた。
「いらっしゃいませー!」
カウンターの向こうに、エプロン姿の良子ちゃんが立っていた。
元気そうだった。いや、いつも以上に、元気そうだった。
「あっ、遠山さん!」
「良子ちゃん。よかった、今朝いなかったから心配したよ。体調でも悪かったの?」
「あ……そ、それは、その……」
良子ちゃんは、急にもじもじと指先をいじり始めた。
頬が、ほんのりと赤い。
「ごめんなさい。今朝から、一人で……じゃなくて、その、一緒に乗ってくれる人がいて。一本早い電車に乗ったんです」
「一緒に?」
「それと、あの……お弁当のことなんですけど」
良子ちゃんは、深々と頭を下げた。
「これからは、もう作れなくなっちゃいました。ごめんなさい」
「え、いや、それは全然いいんだけど……何かあったの?」
「か、か、彼氏が……」
良子ちゃんの声が、どんどん小さくなっていく。
「他の男の人にお弁当作るのは、嫌だって……言われて……」
――彼氏。
良子ちゃんの視線が、ちらりと店の外へ向いた。
つられて振り返ると、ガラス戸の向こう、商店街の街灯の下に、学ランの男子が一人、所在なさげに立っていた。
見覚えがあった。
毎朝、八時の電車の同じ車両で、ものすごい目つきで俺を睨んでいた、あの男子だ。
「同じクラスの、高瀬くんっていうんです」
良子ちゃんは、真っ赤になって言った。
「ずっと、気になってて。でも、あの事件があってから八時の電車に乗れなくなって、高瀬くんと同じ電車に乗れなくなっちゃって。……遠山さんが一緒に乗ってくれるようになって、やっと、またあの電車に乗れるようになったんです」
毎朝、ホームで挙動不審だった良子ちゃん。
駅に着くたびに「あ」と声を漏らしていた良子ちゃん。
弁当を渡すときに、吊り革を握りしめて窓の外ばかり見ていた良子ちゃん。
全部、同じ車両に乗ってくる、高瀬くんを見ていたのか。
「高瀬くん、遠山さんのこと、最初はすごく誤解してたみたいで……。でも、ちゃんと説明したら、わかってくれました。それで、昨日……」
そこから先は、言葉にならなかったらしい。
良子ちゃんは両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んでしまった。
店の外で、高瀬くんがこちらに向かって、ぎこちなく頭を下げた。
俺も、つられて頭を下げる。
厨房の奥から、店主がねじり鉢巻きの頭をぬっと出した。
その顔は、なぜか苦虫を百匹くらい噛み潰したようだった。
「……お客さん。あんたなら、まだ許せたんだがな」
それは、いったいどういう意味ですか。
「遠山さん、本当に、本当にありがとうございました!」
立ち上がった良子ちゃんは、涙ぐみながら、満面の笑みで言った。
「遠山さんって、なんだか……お父さんみたいでした!」
――お父さん。
俺は、笑顔で「よかったね」と答えた。
ちゃんと、笑えていたと思う。
店を出ると、高瀬くんが良子ちゃんを迎えにきたところだった。
二人は並んで、商店街の明かりの中を歩いていく。
手が触れそうで触れない距離で、何度もお互いの顔を見ては、慌てて逸らしている。
俺は、その背中を見送ってから、反対方向へ歩き出した。
* * *
アパートに着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
鍵を開けて、部屋に入る。
ダイニングのテーブルには、ラップのかかった晩ご飯が置いてあった。奥の部屋の引き戸の向こうからは、いつものようにキーボードの音が聞こえてくる。
カタカタ、カタカタ。
俺は鞄を床に置いて、椅子に座った。
ご飯に手をつける気になれず、テーブルに突っ伏す。
先輩の「心臓に悪い」は、俺の顔の向こうの猛兄ちゃんに向けられたものだった。
良子ちゃんの朝の挙動不審は、同じ車両の高瀬くんに向けられたものだった。
二人とも、最初から最後まで、俺のことなんて見ていなかった。
勘違いだと、自分に言い聞かせていた。
モテ期なんて都市伝説だと、笑い飛ばしていた。
それでも、ほんの少しだけ。本当にほんの少しだけ、期待していたのかもしれない。
――三十を過ぎた俺に、モテ期は来なかった。
「……モテ期なんて、やっぱり、来なかったな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
その瞬間。
引き戸の向こうで、キーボードの音が、ぴたりと止まった。




