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30を過ぎた俺に、モテ期という都市伝説は来なかった  作者: 松原 透


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10/14

10 モテ期は、やっぱり来なかった

 その日、ホームに良子ちゃんの姿はなかった。


 いつもの時間。いつもの場所。

 八時の電車が近づいてくるアナウンスが流れても、あの制服姿は現れなかった。


 風邪でも引いたのだろうか。

 それとも、何かあったのか。


 ポケットからスマホを取り出したのだが、連絡先は交換していない。

 女子高生の連絡先を三十過ぎの男が聞くのは、いくらなんでもまずいだろうと思っていたからだ。今になって、それを少しだけ後悔した。

 同じ制服を着た生徒がいるから、学校が休みというわけではないようだ。


 電車がホームに滑り込んでくる。

 俺は一本だけ見送って、それでも来なかったので、次の電車に乗った。


 同じ車両の、いつもの場所。

 良子ちゃんだけでなく、いつも俺を睨んでいたあの男子高校生の姿も、どこにもなかった。

 一緒に通うようになって、ずいぶん経つ。

 休むときは、いつも前の日に電車の中で教えてくれていた。でも、昨日は何も言っていなかった。

 何事もなければいいのだが……




  * * *




 昼休み。

 俺のデスクの上には、弁当箱がひとつもなかった。


 良子ちゃんの弁当がないのは、朝会えなかったから当然だ。

 だが、先輩の弁当まで届かないのは、味見役を始めてから初めてのことだった。


 どうしたものかとコンビニに向かおうとしたところで、社長室に呼ばれた。


「座れ」


 革張りのソファに腰を下ろすと、先輩は向かいに座り、テーブルの上に一通の封筒を置いた。

 真っ白な、厚手の封筒。金色の箔押しで、二羽の鳥が向かい合って描かれている。

 初めて見るものに、俺は首を傾げる。


「今日は、弁当の代わりにこれだ」


「……これは?」


「開けてみろ」


 先輩は腕を組んで、窓の外を見ている。

 耳が、ほんのりと赤い。


 封を開ける。

 中から出てきたのは、二つ折りのカードだった。


 ――結婚式のご案内。


 心臓が、どくんと大きく跳ねた。


 結婚式。先輩の。

 食べさせたい相手がいる、と言っていた。あの弁当の練習は、このためだったのか。


 カードを開く。

 新婦の欄に、「吉沢静」の文字。

 そして、新郎の欄には――。


『白川 猛男』


「…………猛兄ちゃん?」


 声が、勝手に漏れていた。


 白川猛男。

 母方の、三つ年上の従兄弟だ。


 子供の頃、夏休みになると、母の実家がある田舎に親戚一同が集まった。

 山と田んぼしかない場所で、俺はいつも猛兄ちゃんの後ろをついて回っていた。


 川への飛び込み方を教えてくれたのも、猛兄ちゃんだった。

 カブトムシの取れる木を教えてくれたのも。

 近所の悪ガキにいじめられて泣いていた俺の前に立って、「俺の弟に何しやがる」と、三人まとめて追い払ってくれたのも。

 あの頃から、猛兄ちゃんは誰よりも強かった。


 俺たちは、顔がよく似ていた。

 親戚のおばさんたちからは、いつも「本当の兄弟みたいねえ」と笑われていた。

 ただ、中学に上がった頃から、猛兄ちゃんは空手や合気道といった武術を始めて、どんどん体が大きくなっていった。

 最後に会ったのは、いつだっただろう。祖母の法事だったか。あの頃にはもう、首と肩の境目がわからないくらいの体つきになっていた。


 社会人になって、前の会社で働き詰めになってから、親戚の集まりにはすっかり顔を出さなくなっていた。


「……知ってたんですか。先輩、猛兄ちゃんのこと」


「知ってたも何も……それを見ればわかるだろ」


 先輩は、俺の手の中の招待状を顎で示してから、ようやくこちらに顔を向けた。

 その顔は、見たこともないくらい真っ赤だった。


「婚約して、もう一年になる」


「い、一年!?」


「お前が勤めていた会社が潰れたことは、猛男さんから聞いた。お前が普段からどんな生活をしていたのかも聞いているよ。それで『あいつ、たぶん誰にも頼れずに一人で抱え込んでるから、静さん、気にかけてやってくれないか』って」


 猛兄ちゃんの口真似は、ちっとも似ていなかった。

 ハンバーガーショップで、偶然出会ったと思っていた。

 先輩は、あの日、俺を探していたのか。


「どこで知り合ったんですか? いくら何でも接点がないと思うんですけど。いや、猛兄ちゃんはジムのトレーナーだし……まさか、そこで?」


「……それは」


 先輩は気まずそうに目を逸らした。


「三年前、駅前でな。お前だと思って、後ろから声をかけたんだ。『おい、遠山!』って」


「……え」


「振り返ったら、お前の顔をした、ゴリラみたいな男が立っていた」


 ゴリラ。

 婚約者を、ゴリラ。……まあ、言いたいことはわからなくもない。

 それに猛兄ちゃんなら、先輩の拳を食らっても、平気な顔で笑っていそうだ。


「人違いだと謝ったら、『よく言われます』って、笑ってな。それが、最初だ」


 先輩は、両手で顔を覆った。


「……そこから先は、聞くな」


 聞きたくても、聞けなかった。

 俺の頭の中で、これまでの出来事が、すごい勢いで巻き戻されていたからだ。


「あの、先輩。ひとつずつ確認させてください」


「……なんだ」


「ハンバーガーショップで、俺がお世辞を言ったら、もじもじしてたのは」


「あの顔で、真顔で『きれいだ』とか言うからだ。猛男さんは、そういうことは言ってくれない」


「会社の前で、ビンタしたのは」


「あの顔で『大好きな先輩』とか言うからだ。心臓に悪い」


「社長室で、もう一発ビンタしたのは」


「あの顔で『好きですよ』とか言うからだ。心臓に悪い」


 全部、顔だった。

 俺ではなく、俺の顔の向こうにいる、猛兄ちゃんだった。


「……飲み屋街に行くなって、GPSで見張ってたのは」


「お前、自分の顔をよく見てから言え。あの顔で夜の飲み屋街をうろうろされてみろ。『吉沢さんの婚約者さん、昨日キャバクラの前で見かけたわよ』なんて噂が立ったら、どうしてくれる」


「出張で、同じ部屋だったのは」


「どうせ親戚になるんだ。気にする相手でもないだろう。……それに、あの夜、ちゃんと話そうと思ってたんだ。猛男さんとのこと。ビールを開けたら、寝てしまったが」


「……弁当の、薄情者っていうのは」


 先輩は、ぐっと唇を噛んだ。


「猛男さんと、約束してたんだ。『達也に食わせて、あいつが美味いって言ったら、俺にも作ってくれ』って。あいつは昔から、嘘のつけない舌をしてるから、って。……それなのに、いざ持っていこうとしたら、お前が他所の弁当を嬉しそうに食べてたから」


 味見役。

 俺は、文字どおりの味見役だったのだ。


 ふと、入社初日のことを思い出した。

 廊下で俺を上から下まで値踏みするように眺めていた、柳部長。

 社長室で、何度もちらちらと俺を見ていた女性社員。


「……まさか、会社の人たちも」


「総務の皆は知ってる。結婚式の準備も、ほとんど総務が手伝ってくれているからな。お前を初めて見たときは、皆、猛男さんにそっくりだと大騒ぎだった」


 あの、生暖かい視線は。

 ヒソヒソ声の、「社長があれだけ目をかけてるのに」は。


 全部、社長の未来の義理の従兄弟を見守る目だったのだ。


「来月だ。……来てくれるな?」


 先輩が、少しだけ不安そうな顔で俺を見る。

 俺は、カードに書かれた二人の名前を、もう一度見つめた。


 白川猛男。吉沢静。


 あの頃、俺の前に立って悪ガキを追い払ってくれた背中と。

 大学の春、迷子みたいだった俺の腕を掴んで引っ張っていってくれた手。


 ――なんだ。

 お似合いじゃないか。


「行きますよ。絶対に」


 そう答えると、先輩は、心の底からほっとしたように笑った。

 それは、今まで見た中で一番、綺麗な笑顔だった。


 その笑顔は、俺に向けられたものではない。

 わかっていた。わかっていたはずなのに。

 胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。




  * * *




 定時で会社を出て、商店街へ向かう。

 良子ちゃんのことが気になっていた。せめて、店主さんに様子を聞いておきたい。


 ガラスの引き戸を開けると、いつもの声が店内に響いた。


「いらっしゃいませー!」


 カウンターの向こうに、エプロン姿の良子ちゃんが立っていた。

 元気そうだった。いや、いつも以上に、元気そうだった。


「あっ、遠山さん!」


「良子ちゃん。よかった、今朝いなかったから心配したよ。体調でも悪かったの?」


「あ……そ、それは、その……」


 良子ちゃんは、急にもじもじと指先をいじり始めた。

 頬が、ほんのりと赤い。


「ごめんなさい。今朝から、一人で……じゃなくて、その、一緒に乗ってくれる人がいて。一本早い電車に乗ったんです」


「一緒に?」


「それと、あの……お弁当のことなんですけど」


 良子ちゃんは、深々と頭を下げた。


「これからは、もう作れなくなっちゃいました。ごめんなさい」


「え、いや、それは全然いいんだけど……何かあったの?」


「か、か、彼氏が……」


 良子ちゃんの声が、どんどん小さくなっていく。


「他の男の人にお弁当作るのは、嫌だって……言われて……」


 ――彼氏。


 良子ちゃんの視線が、ちらりと店の外へ向いた。

 つられて振り返ると、ガラス戸の向こう、商店街の街灯の下に、学ランの男子が一人、所在なさげに立っていた。


 見覚えがあった。

 毎朝、八時の電車の同じ車両で、ものすごい目つきで俺を睨んでいた、あの男子だ。


「同じクラスの、高瀬くんっていうんです」


 良子ちゃんは、真っ赤になって言った。


「ずっと、気になってて。でも、あの事件があってから八時の電車に乗れなくなって、高瀬くんと同じ電車に乗れなくなっちゃって。……遠山さんが一緒に乗ってくれるようになって、やっと、またあの電車に乗れるようになったんです」


 毎朝、ホームで挙動不審だった良子ちゃん。

 駅に着くたびに「あ」と声を漏らしていた良子ちゃん。

 弁当を渡すときに、吊り革を握りしめて窓の外ばかり見ていた良子ちゃん。


 全部、同じ車両に乗ってくる、高瀬くんを見ていたのか。


「高瀬くん、遠山さんのこと、最初はすごく誤解してたみたいで……。でも、ちゃんと説明したら、わかってくれました。それで、昨日……」


 そこから先は、言葉にならなかったらしい。

 良子ちゃんは両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んでしまった。


 店の外で、高瀬くんがこちらに向かって、ぎこちなく頭を下げた。

 俺も、つられて頭を下げる。


 厨房の奥から、店主がねじり鉢巻きの頭をぬっと出した。

 その顔は、なぜか苦虫を百匹くらい噛み潰したようだった。


「……お客さん。あんたなら、まだ許せたんだがな」


 それは、いったいどういう意味ですか。


「遠山さん、本当に、本当にありがとうございました!」


 立ち上がった良子ちゃんは、涙ぐみながら、満面の笑みで言った。


「遠山さんって、なんだか……お父さんみたいでした!」


 ――お父さん。


 俺は、笑顔で「よかったね」と答えた。

 ちゃんと、笑えていたと思う。


 店を出ると、高瀬くんが良子ちゃんを迎えにきたところだった。

 二人は並んで、商店街の明かりの中を歩いていく。

 手が触れそうで触れない距離で、何度もお互いの顔を見ては、慌てて逸らしている。


 俺は、その背中を見送ってから、反対方向へ歩き出した。




  * * *




 アパートに着いた頃には、すっかり日が暮れていた。


 鍵を開けて、部屋に入る。

 ダイニングのテーブルには、ラップのかかった晩ご飯が置いてあった。奥の部屋の引き戸の向こうからは、いつものようにキーボードの音が聞こえてくる。


 カタカタ、カタカタ。


 俺は鞄を床に置いて、椅子に座った。

 ご飯に手をつける気になれず、テーブルに突っ伏す。


 先輩の「心臓に悪い」は、俺の顔の向こうの猛兄ちゃんに向けられたものだった。

 良子ちゃんの朝の挙動不審は、同じ車両の高瀬くんに向けられたものだった。

 二人とも、最初から最後まで、俺のことなんて見ていなかった。


 勘違いだと、自分に言い聞かせていた。

 モテ期なんて都市伝説だと、笑い飛ばしていた。

 それでも、ほんの少しだけ。本当にほんの少しだけ、期待していたのかもしれない。


 ――三十を過ぎた俺に、モテ期は来なかった。


「……モテ期なんて、やっぱり、来なかったな」


 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。


 その瞬間。

 引き戸の向こうで、キーボードの音が、ぴたりと止まった。

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