↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30を過ぎた俺に、モテ期という都市伝説は来なかった  作者: 松原 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/14

11 初めて踏み込まれた夜

 引き戸が、静かに開いた。


 顔を上げると、ジャージ姿の七瀬先輩が立っていた。

 分厚い眼鏡を額に押し上げて、テーブルに突っ伏している俺を、じっと見下ろしている。


「……ご飯、冷めてるよ」


「すみません。今はちょっと、後で食べます」


「だめよ。今、食べて」


 七瀬先輩は、テーブルに置いてあった皿を電子レンジに入れた。

 ブーンという低い音が、静かな部屋に響く。


 珍しいこともあるものだ。

 同居を始めてから、七瀬先輩が自分から聖域を出てきて、俺に何かを言いつけたのは初めてだった。

 俺がいつ帰ってきても、いつ寝ても、ご飯を食べようが食べまいが、口を出してきたことは一度もなかったのに。


 チン、と音が鳴る。

 温め直された生姜焼きと、ほうれん草の胡麻和えと、味噌汁が、俺の前に並べられた。


 七瀬先輩は、向かいの椅子を引いて腰を下ろした。

 頬杖をついて、俺が箸を持つのを待っている。


「……いただきます」


 生姜焼きを口に運ぶ。

 いつもの味だった。美味かった。

 美味いのに、なぜか、喉の奥がつかえて、うまく飲み込めなかった。

 用意されていたお茶で、無理やり流し込む。


「何か、あった?」


 七瀬先輩が、ぽつりと聞いた。


「……聞かないんじゃなかったんですか。居候だから、俺の生活には口出ししないって」


「聞こえちゃったから。モテ期がどうとか」


 聞こえていたのか。

 俺は箸を置いて、小さく息を吐いた。


「それに、そんな顔をしてたら、放っておけないでしょ」


 顔色……か。

 どうせ、隠すようなことでもない。

 俺は、今日あったことを話した。


 大学時代の先輩が、俺の従兄弟と結婚すること。

 先輩がこれまで顔を赤くしていたのも、ビンタをしたのも、全部、俺の顔が従兄弟に似ていたからだったこと。

 毎朝一緒に電車に乗っていた女子高生には彼氏ができて、もう弁当は作れないと言われたこと。

 最後に、「お父さんみたいでした」と言われたこと。


 七瀬先輩は、相づちも打たずに、黙って聞いていた。


「……勘違いだって、わかってたつもりなんです。モテ期なんて都市伝説だって、自分で言ってましたし」


 俺は、自嘲気味に笑った。

 七瀬先輩は、ただ俺を見ているだけだった。


「でも、ほんの少しだけ、期待してたのかもしれません。もしかしたら、って。……三十過ぎて、情けない話ですよね。結局、誰も俺のことなんて見てなかった。ちょっとだけ浮かれていただけですよ」


 しばらく、沈黙が続いた。


「まだ残っているよ。食べ終えてから、少し話をしましょう」


「はい」


 あまり箸は進まなかったが、ゆっくりと食べていく。

 冷蔵庫の低い唸り声だけが、部屋に響いている。


 夕食を食べ終えると、食器は七瀬先輩がキッチンに持っていく。

 冷蔵庫から、ビールを持って戻ってきた。

 二つともプシュと口を開けて、一つを俺の前に置く。


 今はあまり飲みたいとは思えないのだが……

 七瀬先輩は、息をつくこともなくグイグイ飲んでいく。

 ダンと音を立てて、ビールの缶を置く。


「ねえ、遠山くん……そもそも、なんでモテたいの?」


「なんでって……」


 言葉に詰まる。

 なんで、と聞かれても困る。モテたいのに、理由なんているのだろうか。

 モテるというのは、好意を持たれていることだ。男ならそう思われたいのは普通じゃないのか?


「誰かに好かれたら、嬉しいじゃないですか」


「うん。嬉しいね」


 七瀬先輩は、あっさりと頷いた。


「でも、私は――モテることを考えるより、誰かを好きになるほうが、何倍もいいと思うな」


「誰かを好きに、なる……」


 そうは言うけど、俺は今まで誰とも付き合ったこともない。

 気がつけばもう三十を過ぎたおっさんだ。


「別に人でなくてもいいのよ。私がこの部屋に持ち込んだもの、全部そうだよ。誰にも頼まれてないし、誰にも好かれてない。でも、好きなものがあるって、それだけで毎日楽しい。家賃を払うの忘れるくらいにね」


 それは、自慢げに言うことではないと思う。

 でも、七瀬先輩の目は、少しも冗談を言っているようには見えなかった。

 好きだから、毎日毎日パソコンと向き合い、楽しんでいる。


「でも……好きになっても、好きになってもらえなかったら、意味ないじゃないですか」


 気づけば、口からそんな言葉がこぼれていた。


「七瀬先輩のときみたいに」


 言ってしまってから、しまったと思った。

 十五年前の、図書室の告白。七瀬先輩にとっては、思い出したくもない話かもしれない。


 だが、七瀬先輩は眉ひとつ動かさなかった。

 代わりに、少しだけ首を傾げて、まっすぐに俺を見た。


「んー。それって――遠山くんは、相手が自分のことを好きになってくれさえすれば、誰だっていいの?」


 息が、止まった。


 好きになってくれさえすれば、誰でもいい。

 違う、と言いたかった。

 でも、言えなかった。


 ハンバーガーショップで、先輩がもじもじしたとき。

 電車で、良子ちゃんが俺の裾を掴んだとき。

 ホテルで、同じ部屋になったとき。

 俺は、その相手が誰なのかよりも先に、「もしかして」と思わなかったか。

 「俺のことを好きなのかもしれない」と、それだけを考えていなかったか。


 俺は、誰かを好きになろうとしていたんじゃない。

 誰かに好かれることを、待っていただけだ。


「じゃあさ……遠山くん、好きです。養ってください」


 七瀬先輩は、ビールの缶を両手で握ったまま、さらりとそう言った。


「冗談はやめてくださいよ……。今のは、話の流れで言っただけじゃないですか」


「そっか……」


 七瀬先輩は、缶の縁を指でなぞりながら、小さく笑った。


「でも、遠山くんには、ちゃんと言っておきたかったから」


 七瀬先輩は、そう言って立ち上がった。

 聖域に戻るのかと思ったら、奥の部屋から何かを持って戻ってきた。


 深緑色の、擦り切れたブックカバーの文庫本。

 図書室で、七瀬先輩がいつも読んでいた、あの本だった。


「十五年前の話、してもいい?」


 七瀬先輩は、本をテーブルの上に置いて、椅子に座り直した。


「高校のときの私、覚えてるでしょ。生徒会長で、図書委員で、成績も良くて、いつも静かに本を読んでる、真面目で凛とした七瀬先輩」


「……はい」


「あれね、全部、作り物」


 あっさりと、七瀬先輩は言った。


「うち、親が厳しくてさ。いい子でいなきゃいけなかったの。成績は一番、生徒会長もやって、恥ずかしくない娘でいなさいって。だから、学校の私は、私が作った虚像。七瀬桜子っていう役を、三年間演じてただけ」


 七瀬先輩は、文庫本のブックカバーを、指先でそっと撫でた。


「でも、高一のときに、この本に出会っちゃった。古本屋の、百円のワゴンの中で。……人生、変わったよね」


 出会い。

 いつか聖域で、七瀬先輩が言っていた言葉を思い出す。

 出会いは大切にしたい、と。


「学生だから、お小遣いも少ないし、親にばれたら終わりだし。本当に好きなものは、こうやってブックカバーで隠して、図書室の隅っこでこっそり読むことしかできなかった。窓際の席を選んでたのも、後ろから覗かれないようにするため」


 図書室の窓際。

 夕日に透ける長い黒髪。ページをめくる綺麗な指先。

 俺が何ヵ月も見つめ続けていた、あの光景の正体が、それだった。


「遠山くんが告白してくれたとき、正直、嬉しかったのは本当。だけど……」


 七瀬先輩は、少しだけ目を伏せた。


「遠山くんが好きなのは、私が作った虚像のほうだって、わかってた。生徒会長の七瀬桜子。物静かな文学少女の七瀬桜子。……本当の私は、ブックカバーの中身のほうなのに」


「だから、断ったんですか」


「うん。偽物の私で付き合っても、いつかバレて、がっかりされるだけだもん。だったら、最初から断ったほうがいいでしょ」


 十五年前の『ごめんね』の意味が、ようやくわかった。

 あの人は、俺を振ったんじゃない。

 俺が恋をしていた虚像を、俺のために、壊さずにおいてくれたのだ。


「それで、十五年経って、本物の私はこうなりました」


 七瀬先輩は、両手を広げてみせた。

 ジャージに、ぼさぼさの髪に、額に押し上げた分厚い眼鏡。

 背後の引き戸の隙間からは、壁一面の二人の男たちが覗いている。


「家賃半年滞納して、追い出されて、後輩の家に転がり込んで、部屋を推しで埋め尽くして。……ね? がっかりしたでしょ」


「そんなこと……」


「じゃあ、聞くけど。さっきの私の告白、どうして冗談にしたの?」


 七瀬先輩は、俺の言葉を遮った。

 その声は静かで、責めるような響きは少しもなかった。


 誰かに好かれることを待っていたはずの俺が、目の前で「好き」と言われて、真っ先に冗談だと決めつけた。

 その矛盾を、七瀬先輩は見逃してはくれなかった。


「今のあなたは、私に抱いてた幻想が無くなったから、今は好きでもなんでも無いのでしょ?」


 また、言葉が出てこなかった。


 ファミレスで、図書室の七瀬先輩がひび割れていく音を聞いた。

 聖域を見て、その幻想がガラガラと崩れ落ちていくのを感じた。

 確かに、俺が十五年間大事に抱えてきた「七瀬先輩」は、もうどこにもいない。


 なら、俺は今、目の前のこの人のことを――。


「……答えなくていいよ」


 俺が黙っていると、七瀬先輩は、ふっと笑った。

 図書室の窓際の、あの静かな微笑みとは違う。

 けれど、ファミレスで見た気の抜けた笑顔とも、少し違う気がした。


「意地悪な質問だったね。ごめん」


 七瀬先輩は立ち上がり、文庫本をテーブルの上に残したまま、引き戸のほうへ歩いていく。


「あ、その本、置いていくね。十五年越しの答え合わせ。見ても見なくても、遠山くんの自由」


「……七瀬先輩」


 呼び止めた声に、七瀬先輩は振り返らなかった。

 そのまま、聖域へ戻っていく。

 引き戸が、静かに閉まる。


 キーボードの音は、聞こえてこなかった。




  * * *




 俺は、しばらくテーブルの上の文庫本を見つめていた。


 深緑色の布のブックカバー。

 角が擦り切れて、白っぽくなっている。十五年分、何度も何度も読み返された跡だ。


 この前は、手を伸ばせなかった。

 開けてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がしたからだ。


 でも、もう変わってしまった。

 ――いや、違う。

 とっくの昔に変わっていたのに、俺が見ようとしなかっただけだ。


 ブックカバーに指をかけて、そっとめくる。


 表紙には、学ランを着た二人の男子生徒が描かれていた。

 夕暮れの図書室で、一冊の本を挟んで、指先が触れ合いそうな距離で見つめ合っている。


 ――図書室で、だった。


 思わず、声を出して笑ってしまった。

 十五年間、ずっと、難しい純文学だと思っていた。

 あの静かな横顔は、こんなものを読みながら、心の中で悶えていたのか。


 笑いながら、ぱらぱらとページをめくる。

 余白のあちこちに、小さな鉛筆の書き込みがあった。

 『尊い』『ここ好き』『泣いた』。

 十五年前の、まだ少し丸い文字。それが、少しずつ大人びた字に変わりながら、何度も何度も重ねられている。


 十五年間、ずっと、同じものを好きでいた人の字だった。


 俺は、本を閉じた。


 テーブルの上には、空になった皿と、飲みかけのビールが二つ。

 七瀬先輩の缶は、いつの間にか空になっていた。あの人が、あんなに勢いよく酒を飲むのを見たのは初めてだった。


 毎朝、味噌汁の匂いで目が覚める。

 俺が帰る頃には、ラップのかかった晩ご飯が置いてある。

 洗濯物は畳まれていて、部屋には埃ひとつない。

 灰色だった俺の顔に、少しずつ血の気が戻ってきた。


 初めてこの部屋に来た夜、ベッドを譲ったら、驚いた顔で「ありがと」と言った。

 次の日の朝、毛布一枚で寝た俺に、「体は大丈夫なの?」と聞いてきた。

 弁当を断ったら、それ以上は何も言わずに、朝と夜の野菜を増やしてくれた。

 俺の生活には口出ししないと言いながら、俺の生活を、誰よりも支えてくれていた。


 図書室の七瀬先輩は、もういない。

 でも、俺のすぐそばにいたのは、虚像なんかじゃない、ありのままの七瀬桜子。


 ジャージ姿で、ぼさぼさの髪で、推しのために家賃を滞納して。

 それでも、もやしのレパートリーが百あって、誰に頼まれなくても俺の顔色を心配して。

 十五年間、ずっと同じ本を好きでい続けた人。


 ――今は好きでもなんでも無いのでしょ?


 あの問いに、さっきは答えられなかった。

 でも、今なら、わかる気がする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。