11 初めて踏み込まれた夜
引き戸が、静かに開いた。
顔を上げると、ジャージ姿の七瀬先輩が立っていた。
分厚い眼鏡を額に押し上げて、テーブルに突っ伏している俺を、じっと見下ろしている。
「……ご飯、冷めてるよ」
「すみません。今はちょっと、後で食べます」
「だめよ。今、食べて」
七瀬先輩は、テーブルに置いてあった皿を電子レンジに入れた。
ブーンという低い音が、静かな部屋に響く。
珍しいこともあるものだ。
同居を始めてから、七瀬先輩が自分から聖域を出てきて、俺に何かを言いつけたのは初めてだった。
俺がいつ帰ってきても、いつ寝ても、ご飯を食べようが食べまいが、口を出してきたことは一度もなかったのに。
チン、と音が鳴る。
温め直された生姜焼きと、ほうれん草の胡麻和えと、味噌汁が、俺の前に並べられた。
七瀬先輩は、向かいの椅子を引いて腰を下ろした。
頬杖をついて、俺が箸を持つのを待っている。
「……いただきます」
生姜焼きを口に運ぶ。
いつもの味だった。美味かった。
美味いのに、なぜか、喉の奥がつかえて、うまく飲み込めなかった。
用意されていたお茶で、無理やり流し込む。
「何か、あった?」
七瀬先輩が、ぽつりと聞いた。
「……聞かないんじゃなかったんですか。居候だから、俺の生活には口出ししないって」
「聞こえちゃったから。モテ期がどうとか」
聞こえていたのか。
俺は箸を置いて、小さく息を吐いた。
「それに、そんな顔をしてたら、放っておけないでしょ」
顔色……か。
どうせ、隠すようなことでもない。
俺は、今日あったことを話した。
大学時代の先輩が、俺の従兄弟と結婚すること。
先輩がこれまで顔を赤くしていたのも、ビンタをしたのも、全部、俺の顔が従兄弟に似ていたからだったこと。
毎朝一緒に電車に乗っていた女子高生には彼氏ができて、もう弁当は作れないと言われたこと。
最後に、「お父さんみたいでした」と言われたこと。
七瀬先輩は、相づちも打たずに、黙って聞いていた。
「……勘違いだって、わかってたつもりなんです。モテ期なんて都市伝説だって、自分で言ってましたし」
俺は、自嘲気味に笑った。
七瀬先輩は、ただ俺を見ているだけだった。
「でも、ほんの少しだけ、期待してたのかもしれません。もしかしたら、って。……三十過ぎて、情けない話ですよね。結局、誰も俺のことなんて見てなかった。ちょっとだけ浮かれていただけですよ」
しばらく、沈黙が続いた。
「まだ残っているよ。食べ終えてから、少し話をしましょう」
「はい」
あまり箸は進まなかったが、ゆっくりと食べていく。
冷蔵庫の低い唸り声だけが、部屋に響いている。
夕食を食べ終えると、食器は七瀬先輩がキッチンに持っていく。
冷蔵庫から、ビールを持って戻ってきた。
二つともプシュと口を開けて、一つを俺の前に置く。
今はあまり飲みたいとは思えないのだが……
七瀬先輩は、息をつくこともなくグイグイ飲んでいく。
ダンと音を立てて、ビールの缶を置く。
「ねえ、遠山くん……そもそも、なんでモテたいの?」
「なんでって……」
言葉に詰まる。
なんで、と聞かれても困る。モテたいのに、理由なんているのだろうか。
モテるというのは、好意を持たれていることだ。男ならそう思われたいのは普通じゃないのか?
「誰かに好かれたら、嬉しいじゃないですか」
「うん。嬉しいね」
七瀬先輩は、あっさりと頷いた。
「でも、私は――モテることを考えるより、誰かを好きになるほうが、何倍もいいと思うな」
「誰かを好きに、なる……」
そうは言うけど、俺は今まで誰とも付き合ったこともない。
気がつけばもう三十を過ぎたおっさんだ。
「別に人でなくてもいいのよ。私がこの部屋に持ち込んだもの、全部そうだよ。誰にも頼まれてないし、誰にも好かれてない。でも、好きなものがあるって、それだけで毎日楽しい。家賃を払うの忘れるくらいにね」
それは、自慢げに言うことではないと思う。
でも、七瀬先輩の目は、少しも冗談を言っているようには見えなかった。
好きだから、毎日毎日パソコンと向き合い、楽しんでいる。
「でも……好きになっても、好きになってもらえなかったら、意味ないじゃないですか」
気づけば、口からそんな言葉がこぼれていた。
「七瀬先輩のときみたいに」
言ってしまってから、しまったと思った。
十五年前の、図書室の告白。七瀬先輩にとっては、思い出したくもない話かもしれない。
だが、七瀬先輩は眉ひとつ動かさなかった。
代わりに、少しだけ首を傾げて、まっすぐに俺を見た。
「んー。それって――遠山くんは、相手が自分のことを好きになってくれさえすれば、誰だっていいの?」
息が、止まった。
好きになってくれさえすれば、誰でもいい。
違う、と言いたかった。
でも、言えなかった。
ハンバーガーショップで、先輩がもじもじしたとき。
電車で、良子ちゃんが俺の裾を掴んだとき。
ホテルで、同じ部屋になったとき。
俺は、その相手が誰なのかよりも先に、「もしかして」と思わなかったか。
「俺のことを好きなのかもしれない」と、それだけを考えていなかったか。
俺は、誰かを好きになろうとしていたんじゃない。
誰かに好かれることを、待っていただけだ。
「じゃあさ……遠山くん、好きです。養ってください」
七瀬先輩は、ビールの缶を両手で握ったまま、さらりとそう言った。
「冗談はやめてくださいよ……。今のは、話の流れで言っただけじゃないですか」
「そっか……」
七瀬先輩は、缶の縁を指でなぞりながら、小さく笑った。
「でも、遠山くんには、ちゃんと言っておきたかったから」
七瀬先輩は、そう言って立ち上がった。
聖域に戻るのかと思ったら、奥の部屋から何かを持って戻ってきた。
深緑色の、擦り切れたブックカバーの文庫本。
図書室で、七瀬先輩がいつも読んでいた、あの本だった。
「十五年前の話、してもいい?」
七瀬先輩は、本をテーブルの上に置いて、椅子に座り直した。
「高校のときの私、覚えてるでしょ。生徒会長で、図書委員で、成績も良くて、いつも静かに本を読んでる、真面目で凛とした七瀬先輩」
「……はい」
「あれね、全部、作り物」
あっさりと、七瀬先輩は言った。
「うち、親が厳しくてさ。いい子でいなきゃいけなかったの。成績は一番、生徒会長もやって、恥ずかしくない娘でいなさいって。だから、学校の私は、私が作った虚像。七瀬桜子っていう役を、三年間演じてただけ」
七瀬先輩は、文庫本のブックカバーを、指先でそっと撫でた。
「でも、高一のときに、この本に出会っちゃった。古本屋の、百円のワゴンの中で。……人生、変わったよね」
出会い。
いつか聖域で、七瀬先輩が言っていた言葉を思い出す。
出会いは大切にしたい、と。
「学生だから、お小遣いも少ないし、親にばれたら終わりだし。本当に好きなものは、こうやってブックカバーで隠して、図書室の隅っこでこっそり読むことしかできなかった。窓際の席を選んでたのも、後ろから覗かれないようにするため」
図書室の窓際。
夕日に透ける長い黒髪。ページをめくる綺麗な指先。
俺が何ヵ月も見つめ続けていた、あの光景の正体が、それだった。
「遠山くんが告白してくれたとき、正直、嬉しかったのは本当。だけど……」
七瀬先輩は、少しだけ目を伏せた。
「遠山くんが好きなのは、私が作った虚像のほうだって、わかってた。生徒会長の七瀬桜子。物静かな文学少女の七瀬桜子。……本当の私は、ブックカバーの中身のほうなのに」
「だから、断ったんですか」
「うん。偽物の私で付き合っても、いつかバレて、がっかりされるだけだもん。だったら、最初から断ったほうがいいでしょ」
十五年前の『ごめんね』の意味が、ようやくわかった。
あの人は、俺を振ったんじゃない。
俺が恋をしていた虚像を、俺のために、壊さずにおいてくれたのだ。
「それで、十五年経って、本物の私はこうなりました」
七瀬先輩は、両手を広げてみせた。
ジャージに、ぼさぼさの髪に、額に押し上げた分厚い眼鏡。
背後の引き戸の隙間からは、壁一面の二人の男たちが覗いている。
「家賃半年滞納して、追い出されて、後輩の家に転がり込んで、部屋を推しで埋め尽くして。……ね? がっかりしたでしょ」
「そんなこと……」
「じゃあ、聞くけど。さっきの私の告白、どうして冗談にしたの?」
七瀬先輩は、俺の言葉を遮った。
その声は静かで、責めるような響きは少しもなかった。
誰かに好かれることを待っていたはずの俺が、目の前で「好き」と言われて、真っ先に冗談だと決めつけた。
その矛盾を、七瀬先輩は見逃してはくれなかった。
「今のあなたは、私に抱いてた幻想が無くなったから、今は好きでもなんでも無いのでしょ?」
また、言葉が出てこなかった。
ファミレスで、図書室の七瀬先輩がひび割れていく音を聞いた。
聖域を見て、その幻想がガラガラと崩れ落ちていくのを感じた。
確かに、俺が十五年間大事に抱えてきた「七瀬先輩」は、もうどこにもいない。
なら、俺は今、目の前のこの人のことを――。
「……答えなくていいよ」
俺が黙っていると、七瀬先輩は、ふっと笑った。
図書室の窓際の、あの静かな微笑みとは違う。
けれど、ファミレスで見た気の抜けた笑顔とも、少し違う気がした。
「意地悪な質問だったね。ごめん」
七瀬先輩は立ち上がり、文庫本をテーブルの上に残したまま、引き戸のほうへ歩いていく。
「あ、その本、置いていくね。十五年越しの答え合わせ。見ても見なくても、遠山くんの自由」
「……七瀬先輩」
呼び止めた声に、七瀬先輩は振り返らなかった。
そのまま、聖域へ戻っていく。
引き戸が、静かに閉まる。
キーボードの音は、聞こえてこなかった。
* * *
俺は、しばらくテーブルの上の文庫本を見つめていた。
深緑色の布のブックカバー。
角が擦り切れて、白っぽくなっている。十五年分、何度も何度も読み返された跡だ。
この前は、手を伸ばせなかった。
開けてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がしたからだ。
でも、もう変わってしまった。
――いや、違う。
とっくの昔に変わっていたのに、俺が見ようとしなかっただけだ。
ブックカバーに指をかけて、そっとめくる。
表紙には、学ランを着た二人の男子生徒が描かれていた。
夕暮れの図書室で、一冊の本を挟んで、指先が触れ合いそうな距離で見つめ合っている。
――図書室で、だった。
思わず、声を出して笑ってしまった。
十五年間、ずっと、難しい純文学だと思っていた。
あの静かな横顔は、こんなものを読みながら、心の中で悶えていたのか。
笑いながら、ぱらぱらとページをめくる。
余白のあちこちに、小さな鉛筆の書き込みがあった。
『尊い』『ここ好き』『泣いた』。
十五年前の、まだ少し丸い文字。それが、少しずつ大人びた字に変わりながら、何度も何度も重ねられている。
十五年間、ずっと、同じものを好きでいた人の字だった。
俺は、本を閉じた。
テーブルの上には、空になった皿と、飲みかけのビールが二つ。
七瀬先輩の缶は、いつの間にか空になっていた。あの人が、あんなに勢いよく酒を飲むのを見たのは初めてだった。
毎朝、味噌汁の匂いで目が覚める。
俺が帰る頃には、ラップのかかった晩ご飯が置いてある。
洗濯物は畳まれていて、部屋には埃ひとつない。
灰色だった俺の顔に、少しずつ血の気が戻ってきた。
初めてこの部屋に来た夜、ベッドを譲ったら、驚いた顔で「ありがと」と言った。
次の日の朝、毛布一枚で寝た俺に、「体は大丈夫なの?」と聞いてきた。
弁当を断ったら、それ以上は何も言わずに、朝と夜の野菜を増やしてくれた。
俺の生活には口出ししないと言いながら、俺の生活を、誰よりも支えてくれていた。
図書室の七瀬先輩は、もういない。
でも、俺のすぐそばにいたのは、虚像なんかじゃない、ありのままの七瀬桜子。
ジャージ姿で、ぼさぼさの髪で、推しのために家賃を滞納して。
それでも、もやしのレパートリーが百あって、誰に頼まれなくても俺の顔色を心配して。
十五年間、ずっと同じ本を好きでい続けた人。
――今は好きでもなんでも無いのでしょ?
あの問いに、さっきは答えられなかった。
でも、今なら、わかる気がする。




