12 初めて踏み込んだ日
引き戸を閉めて、桜子はそのままベッドに倒れ込んだ。
枕元の等身大クッションに、顔を埋める。
推しの顔が、ぐにゃりと潰れた。ごめん、と心の中で謝る。
「……何やってるんだろ、私」
本当は、数日のつもりだった。
ファミレスで「泊めて」と言ったのは、入稿を間に合わせるための、その場しのぎだった。
原稿が終わったら、どこか別の知り合いを当たるか、ネットカフェにでも潜り込むつもりでいた。
なのに、あの人は。
初めてこの部屋に来た夜、当たり前みたいな顔で、ベッドを譲ってくれた。
正直、かなり戸惑った。
男の人の部屋に転がり込んだのだ。そういうことがあるかもしれないと、どこかで身構えていた。
それなのに、あの人は毛布一枚を抱えて、さっさとダイニングの床で寝てしまった。
翌朝、勝手に財布からお金を抜いたのに、文句のひとつも言わなかった。
本棚を増やしても、ポスターを貼っても、カーテンを紫にしても。
等身大クッションを持ち込んでも、「下着がほしい」と通販サイトを見せても。
あの人は、何も言わなかった。
困った顔をして、それでも黙ってクレジットカードを差し出すだけだった。
この部屋は、桜子が知っている中で、一番居心地のいい場所になった。
誰にも隠さなくていい。誰にも咎められない。
推しに囲まれて、好きなものを好きなだけ書いて、帰ってくる人のために晩ご飯を作る。
――帰ってくる人のために。
いつからか、夕方になると、少しだけソワソワするようになっていた。
キーボードを叩きながら、玄関の鍵が回る音を待つようになった。
「ただいま」の声が聞こえると、なぜか、手が止まるようになった。
あの人は、何も言ってこない。何もしてこない。
この部屋の引き戸を、一度も自分から開けようとしなかった。
居候の聖域を、ちゃんと尊重してくれている。
だからこそ、少しだけ不安になった。
何もかも受け入れてくれるのは、何にも興味がないからじゃないのか。
十五年前、あの人が好きになったのは、図書室の虚像だった。
本当の私をこれだけさらけ出しても、何も言ってこない。それはもう、私のことなんてどうでもいいからなんじゃないのか。
だから、今夜。
引き戸の向こうで、あの人が「モテ期なんて来なかった」と呟いたとき。
気づいたら、自分から引き戸を開けていた。
ビールを一気に飲んだのは、勇気がほしかったからだ。
「好きです」と言ったのは、半分は冗談で。
残りの半分は――。
「……冗談に、されちゃったな」
桜子は、クッションを抱きしめたまま、小さく笑った。
笑ったつもりだった。
引き戸の向こうで、食器を洗う水の音がする。
それが止んで、しばらく静かになる。
「私って……今の今になって……」
十五年前に断ったのは、自分のほうだ。
虚像を好きになったあの人を、虚像のまま、きれいに終わらせたつもりだった。
それなのに、今さら。本当の自分を全部見せた後になって。
涙が溢れてくる。
声が漏れないように、桜子は強くクッションを抱きしめた。
* * *
朝。
目が覚めると、いつもと違う部屋のように思えた。
味噌汁の匂いが、しなかった。
体を起こして、台所を見る。
コンロの上には何もない。シンクには、昨夜俺が洗った食器が、水切りかごに伏せられたまま並んでいた。
七瀬先輩がこの部屋に来てから、朝ご飯が用意されていない朝は、初めてだった。
奥の部屋の引き戸は、ぴったりと閉じている。
キーボードの音も、寝息も聞こえない。
戸に手を伸ばしかけて、止めた。
昨夜、あんな話をした後で、どんな顔をして開ければいいのかわからなかった。
踏み込む勇気が、なかった。
「……行ってきます」
返事はなかった。
それは、少し前までの俺にとって、当たり前の毎日だった。
誰もいない部屋に「行ってきます」と言って、誰もいない部屋に帰って、ただ眠るだけの生活。
何も困ることはなかったはずだ。ずっと、そうやって生きてきたのだから。
「俺は……」
続く言葉は、出てこなかった。
いつもより早く家を出たせいで、駅のホームには、いつもより一本早い電車を待つ人たちが並んでいた。
その列の中に、見覚えのある制服が二つ並んでいた。
良子ちゃんと、高瀬くんだった。
二人は同じ単語帳を覗き込みながら、何か小声で話しては笑っている。
良子ちゃんは、もう周りを警戒してきょろきょろしたりはしていなかった。
こちらには、気づいていないようだった。
ああ、そうか。今日は、いつもより早い時間だったな。
俺はスマホの時計を確認して、少し離れた列に並んだ。
――これで、いいんだと思う。
あの子が一人で、いや、二人で、ちゃんと朝の電車に乗れている。
それが一番だ。
俺は本当に、ほんの少し浮かれていただけに過ぎない。
* * *
会社に着いても、仕事がまったく手につかなかった。
パソコンの画面を眺めているのに、文字が頭に入ってこない。
同じ書類を三回も印刷し直して、隣の女性社員に心配そうな顔をされた。
「――遠山」
昼前、社長室に呼び出された。
入るなり、先輩は眉をひそめて、俺の顔をまじまじと見た。
「お前、顔色が灰色に戻ってるぞ」
……戻っているのか。
「今日はもう帰れ。早退しろ。そんな顔で仕事をされても、ミスが増えるだけだ」
「……あの、先輩。その前に、少しだけ相談してもいいですか?」
先輩は少し驚いたように目を瞬かせてから、無言で向かいのソファを顎で示した。
俺は、これまでのことを話した。
十五年前、高校の図書室で告白して、振られた人がいること。
その人と偶然再会して、行く当てがないというので、今は一緒に暮らしていること。
家事を全部やってくれて、俺の顔色がよくなったのはその人のおかげだということ。
その人の本当の姿は、俺が憧れていた姿とはまるで違ったこと。
昨夜、その人に「好きです、養ってください」と言われて、冗談だと流してしまったこと。
話している途中から、先輩の様子がおかしくなっていった。
チッ、と舌打ちが聞こえる。
膝の上で組んだ先輩の手から、ボキ、ボキ、と嫌な音がする。
「一緒に暮らしている」のあたりで一回。「養ってください」のあたりでもう一回。「冗談だと流した」のところで、三回くらい鳴った。
途中から、先輩が怖すぎて、俺自身も何を話しているのかよくわからなくなっていた。
「――で?」
「い、以上です」
先輩は、ふーっと長い息を吐いた。
「お前、アホか?」
「……返す言葉もないです」
「その人のこと、どう思ってるんだ」
「憧れていた人が、その……なんていうか、思っていたのと全然違っていて。だから、今の自分の気持ちが、本当に好きなのかどうか、よくわからなくて」
「好きか嫌いかなんて話は、付き合ってる恋人同士がするもんだ」
先輩は、腕を組んでソファの背にもたれた。
「その彼女は、お前に養ってほしいって言ったんだろう?」
「でも、あれはその場の流れだと思いますし……」
「流れで、そんなことが言えるか」
先輩は、ぴしゃりと言った。
「いいか。結婚というのはな、好きか嫌いかよりも――この人に一緒にいてほしいか、ほしくないか。そっちのほうがずっと大事だと、私は思う。好きの延長と言えば、それでもいい。だが、少なくとも私は、そう思って猛男さんと決めた」
一緒に、いてほしいか。
毎朝の味噌汁の匂い。
ラップのかかった晩ご飯。
今朝の、何の匂いもしない台所。
「でも、それって……俺がいいように使われているだけでは?」
「なんだお前」
先輩は、にやりと口角を上げた。
「その人との結婚を考えてるような口ぶりだな」
かあっと、顔が熱くなっていくのがわかった。
そんなつもりで言ったわけじゃない。ない、はずだ。
なのに、否定する言葉が、ひとつも出てこなかった。
「ほう。灰色だった顔が、一瞬で真っ赤になったな」
先輩は満足そうに頷くと、立ち上がってデスクの引き出しを開けた。
中から取り出したのは、見覚えのある、白い厚手の封筒だった。
「結婚式の招待状。もう一通、用意する必要がありそうだな」
「ま、待ってください! まだ何も――」
「うるさい。これは決定事項だ」
先輩は封筒を俺の胸に押しつけると、そのまま俺の背中を社長室のドアのほうへ押し出した。
「お前は今から帰って、話をつけてこい。宛名は、ちゃんと書いてもらってから持ってこい。――いいな、社長命令だ」
「先輩って呼べって言ってたじゃないですか……」
「こういうときだけは社長だ。行け!」
バタン、とドアが閉まった。
廊下に放り出された俺の手の中には、宛名の空欄になった招待状が一通、残されていた。
* * *
まだ日の高い時間に、アパートの鍵を開けた。
部屋の中は、しんと静まり返っていた。
台所は、今朝見たときのまま。奥の部屋の引き戸も、閉じたままだ。
俺は鞄を床に置いて、引き戸の前に立った。
この戸を、俺はずっと開けられずにいた。
ここは聖域だから、口出ししないで。七瀬先輩は、そう言って線を引いていた。
俺は、その線の手前で、ずっと立ち止まっていた。
それが、優しさだと思っていた。
でも本当は、踏み込むのが怖かっただけだ。
十五年前に振られた人の、本当の場所に踏み込んで、また拒まれるのが怖かった。
コン、コン。
引き戸を、ノックする。
「七瀬先輩」
中で、何かがごそりと動く気配がした。
「……入っても、いいですか」
しばらく、返事はなかった。
でも、「だめ」とも言われなかった。
俺は、引き戸を開けた。
紫色のカーテンは閉め切られたままで、部屋は昼間なのに薄暗かった。
壁一面の、二人の男たち。本棚にぎっしり詰まった薄い本。机の上の、透明な板の人形たち。
そして、ベッドの上で、等身大のクッションを抱えて丸まっている、ジャージ姿の七瀬先輩。
机の上のノートパソコンは、閉じられたままだった。
「……会社はどうしたの?」
クッションに顔を埋めたまま、くぐもった声がした。
「早退させられました。社長命令で」
俺は部屋の真ん中まで進んで、床に正座した。
壁のポスターの男たちが、四方八方から俺を見下ろしている。
ものすごく落ち着かない。
でも、ここで言わなければいけないと思った。この部屋で。七瀬先輩の、本当の場所で。
「本、読みました」
七瀬先輩の肩が、ぴくりと動いた。
「正直なところ、ビックリしました。七瀬先輩が、あれをあの場所で読んでいたことに」
「……でしょうね」
BLの小説というものは、俺にはまだよくわからない。
良いとか悪いとかではなく、単に、その手の知識が浅いからだと思う。
でも、七瀬先輩にとっては違った。
優等生という窮屈な枠組みの中で、初めて見つけた、自分だけの憩いの場所だったのだ。
「俺は、勝手な想像を七瀬先輩に押し付けて、それで告白しました。……今は、少しというか、大きく変わりました」
クッションを抱く腕に、ぎゅっと力がこもるのが見えた。
今、俺の頭に浮かぶのは、図書室の窓際ではなかった。
毎朝の味噌汁の匂い。
ラップのかかった晩ご飯。
畳まれた洗濯物と、埃ひとつない部屋。
「今朝、味噌汁の匂いがしなかったんです。それだけで、部屋が、前の何もない部屋に戻ったみたいでした。誰もいない部屋に『行ってきます』って言って。前は、それが当たり前だったはずなのに。……一日も、耐えられませんでした」
言葉が、勝手に溢れてくる。
十五年前、図書室で告白したときは、何日も前から台本を考えた。何度も何度も練習した。
今は、何も準備していない。
それなのに、あの頃よりずっと、言いたいことがはっきりしていた。
「俺は、多分どこか諦めすぎていたと思います。だから勝手に期待して、勝手にへこんでました。今は少しだけ、七瀬先輩が言ってたこと、わかった気がします。モテることを考えるより、誰かを好きになるほうが、何倍もいいって」
そして、社長室で言われた言葉。
この人に、一緒にいてほしいか、ほしくないか。
「だからその……七瀬先輩と一緒にいたいです」
しばらくして、クッションの陰から、くぐもった声が聞こえてきた。
「……もしかしなくても、プロポーズ的なもの?」
「それはその……またの機会にでも。まずは、お付き合いからでどうでしょう?」
「何でよー」
不満げな声と一緒に、クッションがゆっくりと下がった。
分厚い眼鏡の奥の目が、真っ赤に腫れていた。
一晩中、泣いていたのだとわかった。鼻の頭まで赤い。
図書室の窓際では、一度も見たことのない顔だった。
「十五年前は、私が断った。だから、今度は……遠山くんが踏み込んでくれるの、ずっと待ってたんだから」
七瀬先輩は、眼鏡を外して、ジャージの袖でごしごしと目元を拭った。
「でも、本当によかったよー」
七瀬先輩は、ようやく笑った。
図書室の静かな微笑みでも、ファミレスの気の抜けた笑顔でもない。
泣き腫らした目のまま、くしゃくしゃに崩れた、初めて見る笑顔だった。
俺は、その顔を、十五年前の誰よりも綺麗だと思った。
俺は、鞄から白い封筒を取り出した。
宛名の空欄になった、結婚式の招待状。
「この流れで出すようなものじゃないんですけど……社長から。宛名を書いてもらってから持ってこいって。……一緒に、行ってくれますか」
七瀬先輩は、封筒をじっと見つめた。
それから、机のペン立てから一本のペンを抜き取って、宛名の欄に、丁寧な字で自分の名前を書き込んだ。
七瀬桜子。
図書室で見ていた、あの綺麗な字と、同じ字だった。
「結婚式かー。いいなー」
「俺、結婚式って一度も出たことがないんですよ。七瀬先輩は?」
「三十路を過ぎた独り身の女に、そういうことを聞くのはどうなの?」
「大変申し訳ございません」
俺たちは、顔を見合わせて笑い合った。
これが「好き」なのかどうかは、正直まだよくわからない。
十五年前の図書室で感じた、胸が焼けるような気持ちとは違う。
でも、この人とは、いつまででも一緒にいたいと思った。




