13 忘れていた恋を、もう一度
一ヵ月後。
都内のホテルのチャペルは、早くも人でいっぱいだった。
新郎側の席には、懐かしい親戚の顔ぶれ。新婦側の席には、先輩の会社の社員たちと、大学時代のサークルの面々。
柳部長は、最前列でハンカチを握りしめていた。まだ式も始まっていないのに。
「――達也ァ!」
チャペルの入り口で、地響きのような声がした。
振り返る間もなく、俺の体は宙に浮いていた。
白いタキシードをパンパンに張り詰めさせた巨体が、俺を軽々と抱え上げて、ぐるぐると振り回している。
「久しぶりだなあ! 元気だったか! 顔色、思ってたより全然いいじゃねえか!」
「た、猛兄ちゃん……! 下ろして……! 首が……!」
白川猛男。
俺と同じ顔をした、ゴリラ。
いや、新郎だ。今日の主役だ。
ようやく床に下ろされると、猛兄ちゃんは俺の両肩をがっしりと掴んで、まじまじと顔を覗き込んできた。
近くで見ると、本当に、俺の顔だった。首から下が、俺の三倍くらいあるだけで。
「会社のこと、聞いたぞ。大変だったな。……悪かったな、もっと早く気づいてやれなくて」
「いいよ。先輩が、拾ってくれたから」
「ああ。静さんには、頭が上がらねえ」
猛兄ちゃんは、子供の頃と同じ顔で、にかっと笑った。
悪ガキから俺を守ってくれた、あの夏の日と同じ笑顔だった。
「で?」
猛兄ちゃんの視線が、俺の隣に移る。
「そちらの美人さんは?」
俺の隣には、桜子さんが立っていた。
付き合い始めて一ヵ月。ようやく「七瀬先輩」から呼び方を変えられたばかりだ。
受付で、先輩が用意してくれたあの招待状を、少し誇らしげに差し出していた人でもある。
淡い桜色のドレス。
ぼさぼさだった髪は綺麗にまとめられ、分厚い眼鏡は、今日だけはコンタクトに替えている。
朝、聖域から出てきた桜子さんを見たとき、俺は思わず持っていた靴べらを落とした。
図書室の桜子さんとは違う。でも、紛れもなく、俺の知っている桜子さんだった。
「七瀬桜子です。本日は、おめでとうございます」
桜子さんが、完璧な所作でお辞儀をする。
さすが、元生徒会長だ。外面は、今でも健在らしい。
「おお、これはどうも! 達也の……?」
「……彼女です」
俺がそう答えると、猛兄ちゃんは目を丸くして、それから、俺の背中をバシンと叩いた。
肺の空気が、全部出ていった。
「やるじゃねえか、達也!」
咳き込む俺の横で、桜子さんは、なぜか小刻みに震えていた。
見ると、その視線は、俺と猛兄ちゃんの顔を、交互に、ものすごい速さで行き来している。
「……同じ顔の、従兄弟……体格差……兄貴肌と、守られてきた弟分……」
「桜子さん?」
「……尊い」
口元を押さえて、桜子さんは小さく呟いた。
何を考えているのかは、聞かないことにした。たぶん、今夜の聖域のキーボードは、いつもより速く鳴るだろう。
式は、滞りなく進んだ。
バージンロードを歩いてくる先輩は、本当に綺麗だった。
純白のドレスに、長いヴェール。いつもの鋭い目つきは、今日だけはすっかり柔らかくなっていた。
祭壇の前で待つ猛兄ちゃんは、先輩の姿を見た瞬間から、男泣きに泣いていた。
誓いの言葉。指輪の交換。
猛兄ちゃんがヴェールを上げると、先輩は、見たこともないくらい真っ赤な顔をしていた。
ああ、と思う。
あの顔は、俺の顔の向こうに、ずっとこの人を見ていた顔だ。
ハンバーガーショップでも、会社の前でも、社長室でも。
胸の奥が、もう、ちくりとはしなかった。
隣で、桜子さんがそっと俺の手を握ってきたからかもしれない。
チャペルの外の、大階段。
新郎新婦が、祝福の花びらの中を降りてくる。
「ブーケトス、始めまーす!」
司会の声に、独身の女性陣がわらわらと階段の下に集まった。
総務の女性社員たちが、目の色を変えて最前列を陣取っている。
桜子さんは、その輪から少し離れたところで、俺の隣に立っていた。
「行かないんですか?」
「ブーケより、今日の新郎の写真がほしい。達也くん、お兄さんの写真、色々とあったりしない?」
「……ぶれませんね。でも、ちゃんと奥さんの許可をもらってからにしてくださいよ。ぶっ飛ばされるの、俺なんですから」
階段の上で、先輩がこちらに背を向けた。
ブーケを持った両手を、大きく振りかぶる。
――あれ?
あの構え、ブーケトスというより、空手の正拳突きの――。
「それっ!」
先輩の手から放たれたブーケは、女性陣の頭上を遥かに越えて、一直線に飛んできた。
まっすぐ、俺の顔面に向かって。
「ぶっ!?」
顔面で受け止めた。
花びらが、ぱっと宙に舞う。
会場が、一瞬静まり返り、それから、どっと笑いに包まれた。
「遠山!」
階段の上から、先輩が叫んだ。
純白のドレスで、腕を組んで、いつもの、あの自信満々の鼻息で。
「次は、お前だ! 宛名の彼女を泣かせたら、殴るからな!」
隣で、猛兄ちゃんが腹を抱えて笑っている。
総務の女性陣が、拍手をしている。柳部長が、またハンカチで目元を押さえている。
鼻の頭をさすりながら、俺は手の中のブーケを見下ろした。
それから、隣を見る。
桜子さんは、桜色のドレスの裾を握りしめて、耳まで真っ赤になっていた。
俺と目が合うと、ぷいっと顔を逸らす。
「……何よ」
「いえ、何も」
俺は、ブーケを桜子さんの手に、そっと持たせた。
「これ、持っててください。俺が持ってても、似合わないので」
桜子さんは、ブーケと俺の顔を交互に見て、それから、小さく、本当に小さく、頷いた。
その瞬間、胸の奥で、何かがことりと音を立てた。
あの日、聖域で、これが「好き」なのかどうかはわからないと思った。
十五年前の図書室の気持ちとは違うから、と。
でも、違って当たり前だったのだ。
あの頃の俺が好きだったのは、窓際の虚像で。
今、目の前で真っ赤になってブーケを抱えているのは、本物の七瀬桜子なのだから。
――ああ、そうか。
これが、好きってことなんだ。
――三十を過ぎた俺に、モテ期という都市伝説は来なかった。
大学の先輩は、俺の顔の向こうに、従兄弟を見ていた。
電車で助けた女の子は、俺の向こうの車両に、好きな人を見ていた。
誰も、俺を見てなんかいなかった。
でも、それでよかったのだと、今は思う。
誰かに好かれるのを待つより、誰かを好きになるほうが、何倍もいい。
十五年前に振られた人が、それを教えてくれた。
花びらの舞う大階段の下で、ブーケを抱えた桜子さんが、くしゃくしゃの顔で笑っている。
モテ期は、来なかった。
――代わりに俺は、忘れていた恋を、もう一度した。




