エピローグ 二十年後
「――親父!」
日曜の昼下がり。
リビングでのんびりと新聞を広げていた俺のもとに、大学二年になる息子の陽太が、血相を変えて駆け込んできた。
「なんだ、騒々しい」
「なんだじゃねえよ! これ見ろよ、これ!」
陽太が突きつけてきたのは、一冊の薄い本だった。
表紙には、やたらと顔の整った男が二人。
片方は、渋めのスーツを着た中年の男。もう片方は、どこかで見たような顔をした、大学生くらいの青年。
……どこかで見たような、ではない。
中年のほうは、俺だった。青年のほうは、陽太だった。
「結衣と母さんが、また作ってたんだよ! 俺と親父の本! しかも今回、表紙カラーだぞ!? 即売会で完売したって、さっき二人でハイタッチしてた!」
「……そうか。完売したか」
「感心してる場合か!」
陽太の双子の妹、結衣は、物心ついた頃から母親の聖域に入り浸っていた。
小学生で薄い本の存在を知り、中学生でペンタブレットを握り、高校生になる頃には、母親と二人でサークルを立ち上げていた。
ペンネームは「七瀬・母娘」。そのままだ。
二十年前、あの結婚式から半年後に、桜子さんのお腹に二人が宿った。
生まれてきた男の子と女の子を抱いて、桜子さんは泣きながら笑っていた。
あのときは、まさかこんな日が来るとは思ってもみなかった。
いや、少しは思っていた。
生まれたばかりの陽太を抱いた俺を見て、桜子さんが「……父と、息子……」と呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
「つーかさ、親父」
陽太は、廊下の奥を指差した。
家を建てるとき、桜子さんがこれだけは譲らなかった、一番日当たりのいい奥の部屋。
扉には、二十年前と同じ深い紫色のカーテンがかかっている。今は、結衣の手書きの『関係者以外立入禁止』の札も追加されていた。
「あの部屋、なんで残したんだよ。家建てるとき、俺の部屋より広いんだぞ、あそこ」
俺は、新聞をゆっくりと畳んだ。
二十年前の、あの夜。
等身大のクッションを抱えて、泣き腫らした目で、桜子さんは言った。
――聖域は、縮小しない。
あの約束は、今も守られている。
縮小どころか、引っ越すたびに、少しずつ広くなっている。
「いいか、陽太」
俺は、息子の肩にぽんと手を置いた。
「手が出せないから、聖域なわけでな」
「……は?」
「そのうち、お前にもわかる」
陽太は、呆れ果てたような顔で俺を見ていた。
その顔は、二十年前の俺によく似ていた。つまりは、猛兄ちゃんにもよく似ていた。
奥の部屋から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
桜子さんと、結衣の声だ。たぶん、次の本の構想でも練っているのだろう。
「母さーん! 結衣ー! 次は猛おじさんと親父で描くって本当かー!?」
「陽太、それ聞いたら駄目なやつだ」
「描くよー! 静おばさんの許可、もう取ったもーん!」
聖域の中から、結衣の元気な声が返ってきた。
……許可、出したのか。先輩。
俺は、深いため息をついた。
それから、台所へ向かう。そろそろ、昼ご飯の時間だ。
冷蔵庫を開ける。
もやしが一袋。
二十年経った今でも、この家の味噌汁は、もやしのが一番美味い。
(完)




