04 監視されている気がする
先輩の会社で働き始めて、二ヵ月が過ぎた。
仕事もある程度任されるようになった。配属された総務部の人たちは皆親切で、右も左もわからない俺に丁寧に仕事を教えてくれた。
前の会社では考えられなかったことだが、定時で帰れる日もある。ちゃんと昼休みもある。有給という制度が、実在している。
職場の環境は、文句のつけようがなかった。
最初の頃は、先輩もよく様子を見に来てくれていた。
だが、しかし……ここ最近、先輩の態度が――というか、機嫌がすこぶる悪い。
原因がまったくわからないので、なるべく先輩と顔を合わせないように心がけていたのだが……。
『最近の、最近のお前はダメだ!』
『こんなところで一人でランチとは、いいご身分だな』
『社長と呼ぶな。先輩と呼べ!』
『お前はまだ新人だ。私が誘う以外で、飲みに出歩くのは禁止だ』
と、まぁ、廊下ですれ違うたびに、なんとも理不尽な言葉を投げかけられる。
なぜか、退社後の外出にまで制限がかけられていた。
そんなことを言われたところで、一人で勝手にどこかへ行けばいいだけの話だ。
――と思っていたのだが。
駅までの近道に使っていた飲み屋街を歩いているだけで、先輩から電話がかかってくるのだ。
原因は、入社初日に支給された会社用スマホのGPS。
『今どこにいる』ではなく、
『そんなところをうろついてないで、さっさと家に帰れ』
と言われるのだから、原因はこれで間違いない。
一度、会社用スマホをデスクの引き出しに入れたまま帰ろうとしたことがある。
だが、エレベーターの前で柳部長に呼び止められた。
「遠山さん、スマホをお忘れですよ」
にこにこと笑いながら、スマホを手渡された。
……なぜか、部長にまで監視されている。
置いて帰ることもできず、飲み屋街を通るたびに電話がかかってくるのも面倒だ。
そんなわけで、俺は飲み屋街から離れた、少し遠回りの商店街を通って帰るようになった。
最初は面倒だと思っていた。
でも、結果から言えば、悪いことばかりでもなかった。
「いらっしゃいませー!」
ガラスの引き戸を開けると、明るい声が小さな店内に響いた。
商店街の外れにある、チェーン店ではない小さなお弁当屋さん。
一度ふらりと立ち寄ってからというもの、今では毎日のように通っている。
「遅くまでお疲れさま」
「遠山さんも、お疲れさまです! 今日は何にしますか?」
カウンターの向こうで、エプロン姿の女の子がぴょこんと頭を下げた。
今日も元気そうで何よりだ。
毎日通っているうちに、メニューもすっかり覚えてしまった。
唐揚げ弁当、のり弁、生姜焼き。どれも手作りで、量のわりに値段が安い。
「今日は日替わりにしようかな。それと、はい、これ」
商店街のケーキ屋で買ってきた小さな箱を、カウンターの上に置いた。
自分に渡されるものだとは思っていなかったのだろう。女の子は目を丸くして、ケーキの箱と俺の顔を、交互に何度も見比べた。
それから、口をもごもごさせている。
やっぱり、女の子は甘いものに目がないらしい。
「この前のお礼だよ。気にしなくていいからね」
毎日のように揚げ物の弁当ばかり買っていたら、
「栄養が偏っちゃいますよ。遠山さん、顔色すっごく悪いですし……ちゃんと寝てますか?」
と、本気で心配そうな顔をして、こっそりサラダをおまけしてくれたことがあった。そのお返しだ。
……そんなに顔色が悪いだろうか。無職の頃の名残かもしれない。
「お客さん。うちの看板娘を口説かんでくださいよ」
厨房の奥から、ねじり鉢巻をした店主がぬっと顔を出した。
「わ、わ、私、これ、冷蔵庫に入れてきますっ!」
店主の余計な一言のせいで、女の子はケーキの箱を抱えて奥へ逃げていってしまった。
……口説くなんて、とんでもない。言い間違いであることを切に願う。
「俺が勝手にしたことですから、あまり叱らないであげてください」
「それは別にいいんだが……」
店主は腕を組んで、何やら考え込んでいる。
「実はな、そろそろあの子にも厨房を任せてみたいと思ってるんだ。出来は不格好になるかもしれねえが……あの子が作ったもんを、食べてやってくれるか?」
そういえば、まだレジばっかりで厨房の仕事はさせてもらえていない、と彼女が言っていた。
顔見知りの俺なら、多少失敗しても融通がきくと思ったのだろう。
もちろん、彼女一人に全部任せるつもりはないだろうから、問題はないはずだ。
こういう機会もなかなかないだろうし、彼女が作るお弁当の第一号になってあげるか。
「俺は構いませんよ。家に帰ってのんびりするだけですから、少しくらい時間がかかっても平気です」
「そうか。ありがとうよ」
店主は、ほっとしたように目尻を下げた。
店主さんからすれば、ただのアルバイトというより、まるで自分の娘みたいな存在なんだろうな。
店の隅に置かれた丸椅子に腰掛けて、スマホを眺めながら出来上がるのを待つ。
すると、奥の厨房から声が聞こえてきた。
「あっ、あっ、油が!」
「バカ、火ぃ弱めろ!」
「キャベツが……キャベツが逃げます……!」
思わず口元が緩んだ。
店主のフォローに期待するしかないが……なんだか、前の会社で新人教育をしていた頃を思い出すな。
彼女の名前は、西村良子。
先輩の会社に初めて向かったあの日、電車の中で助けた、あの女子生徒だ。
二週間ほど前、ふらりと立ち寄ったこの店で、偶然の再会を果たした。
向こうは俺のことをしっかり覚えていたらしい。
「あのときの……!」と声を上げられて、俺はしばらく誰だかわからなかった。あの日は泣き顔しか見ていなかったから、エプロン姿の笑顔と結びつかなかったのだ。
それから、なんとなくあの子の様子が気になって、通うようになった。
あんなことがあったのに、元気で、明るくて。
その笑顔を見るたびに、少しだけ安心していた。
「……大丈夫、ちゃんと美味いよ」
アパートに帰って、出来上がった弁当の蓋を開けた。
少し揚げ色の濃いエビフライ。
太さがバラバラな、キャベツの千切り。
大盛りを頼んだ覚えのない、こんもりと盛られたご飯。
そして、本当は何かが入るはずだったのだろう、ぽっかりと空いた隙間。
初めてにしては、十分すぎる出来だった。
帰り際、店主が「勘弁してくれ」と苦笑いしながら渡してきたけれど、もちろん残さず全部食べる。
良子ちゃんが頑張っているところを見て、親心でも芽生えたのかもしれないな。
「ごちそうさまでした」
空になった弁当箱を洗おうとして、ふと気づく。
ご飯の下に、小さく折りたたまれた紙が一枚、敷かれていた。
* * *
「お、お、おはようございますっ!」
「おはよう、良子ちゃん」
朝八時の駅の改札口。
制服姿の良子ちゃんが、息を切らしながら駆け寄ってきた。慌てて走ってきたのだろう。前髪が少し乱れている。
昨日の弁当に入っていた手紙には、丁寧な字でこう書かれていた。
『あの日から、朝の電車に乗るのが怖くて、いつも遅い電車で学校に行っています。そのせいで、一時間目の授業に間に合いません。
すごく図々しいお願いだとわかっています。でも、少しの間だけ、一緒に電車に乗ってもらえませんか』
つまり、ボディガードを頼まれたわけだ。
友達に頼めばいいのでは、とも思った。でも、ああいうことがあったなんて、友達には言いたくないよな。
それに、俺の出社時間とちょうど同じくらいだ。断る理由はなかった。
良子ちゃんが緊張しているのも無理はない。
「大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です」
「気分が悪くなったら、すぐに言ってね。俺も一緒に降りるから」
「……ありがとうございます」
ホームに電車が入ってくる。
扉が開いた瞬間、良子ちゃんの体がびくりと強張るのがわかった。
やっぱり、あのときの恐怖が残っているのだろう。
車内に乗り込んでからも、表情は硬く、視線は右へ左へと忙しなく動いている。周りを警戒しているのが、手に取るようにわかった。
電車がガタンと大きく揺れた拍子に、良子ちゃんがよろけて俺の胸元に倒れ込んできた。
それからは、ずっと俺のスーツの裾を小さく掴んでいた。
それで少しでも気が紛れるなら、いいんだけど……。
それにしても、高校一年生か。
俺の歳って、ちょうどこの子の二倍なんだよな。
頼まれたこととはいえ、こんなことをしていて通報されないだろうか?
「ありがとうございました!」
「うん。それじゃあ、また明日ね。行ってらっしゃい」
「はい! 行ってきます!」
学校の最寄り駅で電車を降りた良子ちゃんは、改札を抜けてからも、何度も振り返っては手を振っていた。
俺もつられて手を振り返す。
遅刻しないといいんだけどな……。
というか、周りの通勤客の視線が、少し居心地悪い。
特に、さっき同じ車両から降りてきた、良子ちゃんと同じ制服の男子。
改札の向こうから、ものすごい目つきでこちらを睨んでいた気がする。
マジで、通報だけは勘弁してください。
* * *
「良子、見たわよ。あの人、なんなの?」
昼休みの教室。
お弁当を広げた良子の前に、親友の立花明日香がずいっと身を乗り出してきた。
「この前、電車で助けてくれた人……えへへ」
「ああ、例の……。でも、言うほど格好良くなくない? それに、おじさんだし」
「おじさんじゃない! お兄さんなの!」
机をバンと叩いて立ち上がった良子に、教室中の視線が集まる。
明日香は両手を上げて降参のポーズを取った。
「わっ、わかったって。私が間違ってました。あんたにはもったいないくらいの彼氏だね」
「かっ、かれ、かれ、かれし……っ」
良子の顔が、ぼんっと音を立てて真っ赤になった。
その目が一瞬、教室の後ろのほう――窓際の席で友達と笑い合っている男子のほうへ泳いだことに、明日香は気づかなかった。
良子はそのまま机に突っ伏して、動かなくなる。
「……これは、重症だね」
明日香は、深い深いため息をついた。




