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30を過ぎた俺に、モテ期という都市伝説は来なかった  作者: 松原 透


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02 初出社でいいのか?

 身だしなみを整えて、久しぶりにスーツに袖を通す。

 鞄の中には、先輩が置いていった名刺と、会社周辺の地図をプリントアウトした紙。

 スマホさえあればこんなものは必要ないのだが……そのスマホは人質に取られている。

 駅からそれほど離れていないから迷うことはないと思う。それでも、何かあったときに面倒なことになりそうなので、念のため用意しておいた。


「行ってきます」


 誰もいない部屋に向かって言うのも、もう慣れた。


 最寄り駅までは徒歩で十五分。

 先輩の会社は、前の会社とは反対方向の路線だ。出社時間も一時間早い。

 いつもより早い時間帯ということもあって、ホームには制服姿の学生がずらりと並んでいた。


 ここまでの満員電車に乗るのは久しぶりだった。

 押しつぶされそうになりながら吊り革にしがみつき、二駅ほど過ぎたところで――視線の先に、妙な違和感を覚えた。


 ドアの近く。

 紺色のブレザーを着た小柄な女子生徒が、窓のほうを向いて立っている。その真後ろに、くたびれたスーツの中年男がぴったりと張り付いていた。

 女子生徒の肩が、小刻みに震えている。

 男の手が、どこにあるのか。それを理解するまでに、それほど時間はかからなかった。


 次の駅で電車が停まり、人の波が入れ替わる。

 俺はその流れに逆らうようにして、少しずつドアのほうへ進んでいった。

 電車が再び動き出したとき、俺は男のすぐ後ろにたどり着いていた。


「――次の駅で降りろ。いいな」


 耳元でそう告げると同時に、男を後ろから羽交い締めにした。

 男が暴れだす。「離せ!」「何をする、無礼だろう!」と喚き散らし、その異様な光景に、周囲の乗客がさっと俺たちから距離を取った。

 俺のほうが変質者だと思われてもおかしくない状況だ。


 だが、多くの視線が集まったことで、何が起きていたのかを理解した人たちがいた。

「おい、こいつ、さっきからこの子に……」

「手伝います!」

 大学生風の若い男が三人、人をかき分けてやってきて、男の腕を押さえてくれた。


 振り返ると、女子生徒はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って泣いていた。

 誰かが非常通報ボタンを押してくれたのか、隣の車両から駅員さんがやってきて、女子生徒の肩にそっと手を添える。無線で次の駅に連絡を取っているのが聞こえた。


 男はなおも逃げようともがいていたが、そんなことをさせるつもりはないし、もはやできる状況でもない。

 手伝ってくれている大学生たちは、何度蹴られようとも反撃せず、ただ男のベルトを掴んで離さなかった。立派なものだ。


 電車が次の駅に滑り込む。

 扉が開くと、ホームにはすでに数人の駅員さんが待ち構えていた。


「……怖いかもしれないけど、君も来てくれるかな?」


 女子生徒にそう声をかけると、彼女は涙で濡れた顔のまま、小さく頷いた。

 俺の後ろを、うつむいたままついてくる。

 正直なところ、あんなことがあった後だ。本当は一刻も早くこの場から離れたいだろう。それでも、ちゃんとついてきてくれた。強い子だ。


 付き添ってくれた女性の駅員さんが、落ち着かせるように何か声をかけている。

 だが、捕まえている男がずっと喚いているせいで、その内容はまったく聞こえてこなかった。


「おっさん、暴れるなって」


 大学生の一人が、男にそう言った。

 ……その言葉を聞いて、ふと思う。彼らからすれば、俺も同じ「おっさん」に分類されるのだろうか?

 いや、でも今のは俺に向けられた言葉じゃないし。

 とはいえ、いつの間にか大学生とは一回りも歳が離れているんだよな。


 そんなことを考えながら、駅員さんに言われるがまま駅事務室へとついていく。

 警察官が来てからは、事情聴取が始まった。同じことを何度も何度も聞かれ……気がつけば、三時間が経っていた。




「被害届とか、初めて書いたわ」


「でも、あのおっさんにも感謝だよな」


「示談金っていくらもらえんのかな」


 ようやく解放され、警察署の前で大きく背伸びをしていると、そんな声が聞こえてきた。

 さっきの大学生たちだ。

 今どきの子たちは、色々と考えているんだな。被害届とか示談金とか……俺はそんなこと、一言も聞かれなかったんだけど?


 というか……やっぱり俺は「おっさん」なのか?

 そうか。そうなのか。




 駅の公衆電話から、名刺に書かれていた会社の番号にかける。

 公衆電話を使うのなんて、いったい何年ぶりだろう。


『一体どういうつもりなのよ!』


 開口一番、これだった。

 受話器から耳を離し、指の腹で耳を撫でる。キーンと耳鳴りがしていた。

 怒ったときの声量も、昔と少しも変わらない。


 というか、今日は本当に散々な日だ。

 痴漢から女子生徒を守ったつもりが、取り調べに三時間。善良な一般市民に対して、この扱いはどうなんだ?

 しかも初出社で大遅刻。この事実を、どう説明すれば理解してもらえるのだろう。


「ちゃんと説明しますから、少し落ち着いてください」


『……まあいいわ。お昼は食べたの?』


 何がどう「まあいい」になるんだ?

 ついさっき解放されたばかりで、ご飯どころではないのだけど。


「まだです。というか、まずこっちの話を聞いてください」


『言い訳はご飯を食べながら、じっくり聞いてあげる。私もこれから駅に向かうから。覚悟しておきなさい』


 ガチャン、と一方的に電話が切られた。

 受話器を戻すと、ため息しか出てこなかった。


 重い足取りで電車に乗り、会社の最寄り駅で降りる。

 改札を抜けようとしたところで、背筋にぞくりと寒気が走った。

 殺気だ。あれは、かなりヤバいやつだ。


 俺は、たった今着いたばかりであることを悟られないよう、さりげなく壁際に移動した。

 鞄で顔を隠しつつ、柱の陰から陰へと移動して出口を目指す。

 狙いはただひとつ。先輩に気づかれないまま外に出て、「ずっとここで待ってましたよ」という顔をすることだ。


「おい!」


 出口まであと数メートルというところで、少し離れた位置から声が飛んできた。

 先輩は一歩も動いていない。腕を組んだまま、こちらをまっすぐに見ている。最初から全部見えていたらしい。


 今日で何度目かわからないため息を漏らし、顔を隠していた鞄を下ろした。


「……おはようございます、先輩」


「すぐそこに、旨いパスタの店があるんだ。行こうか」


 言葉だけなら、普通のお誘いだ。

 なのに、なぜ指をボキボキと鳴らしながら近づいてくるのですか?

 目は見開かれ、口角が上がりすぎて白い歯が見えている。笑顔のはずなのに、ちっとも笑っていない。


 俺はとっさに鞄を盾にして、腹をガードした。

 ヒュッ、と耳元で風を切る音がした。


「い、い、い、行きましょう」


「ああ」




 店に入ったのは、まだ十二時前だった。

 ランチタイムの混雑前ということもあって、すぐに奥の席に案内される。


 そして、先輩による取り調べ――もとい、尋問が始まった。

 頬杖をついて俺を睨みながら、テーブルを人差し指でトントンと叩いている。

 この空気は、いつものように容姿を褒めて有耶無耶にできる感じではないな。


 とりあえず、頭を下げて謝るべきだろう。


「先輩、今日は遅れてすみませんでした」


「それはいい。連絡が取れないようにしてしまった、私にも責任がある」


 先輩は胸ポケットから俺のスマホを取り出して、テーブルの上に置いた。


「私の方こそ、すまなかった。……それで、何があったんだ?」


 俺は今日の出来事を、事細かに説明した。

 中途半端な説明だと、言い訳だと疑われる可能性があったからだ。


 昨日のハンバーガーショップとは違って、先輩は真剣に話を聞いてくれた。

 ただ、話が進むにつれて、なぜか苛立っているようにも見えた。テーブルを叩く指の速度が、どんどん速くなっていく。


 なんでだろうと考えて、はっとした。

 先輩も女性だ。それも、とびきりの美人だ。

 大学生の頃から――いや、もしかするともっと前から、こういうことに巻き込まれていたのかもしれない。


「すみません、先輩。無神経にべらべら話してしまって」


「はァ? いやいや、何を言ってるんだ?」


「すみません。先輩はすごく美人だから、同じような目に遭ったことがあるかもしれないのに……本当に、無神経でした」


 俺は深々と頭を下げた。


 だが、先輩からは何の返事もなかった。

 怒っているのだろうか。恐る恐る、そのまま待つ。


 ……まだ、何も言ってこない。


「あの……先輩、何やってるんですか?」


「み、み、見てて、わかるだろう。あ、暑いんだ」


 頭を下げている間に、俺の前に置かれていたお冷やが消えていた。

 顔を上げると、先輩は自分のお冷やと俺のお冷や、二つのグラスを両頬に押し当てていた。

 顔が、トマトみたいに真っ赤になっている。


 実に滑稽極まりない。

 むしろ、こんなものを見せられて笑わなかった俺に感謝してもらいたいくらいだ。

 まあ、暑いというのなら別にいいけど。エアコン、効いていないのかな。

 とりあえず、あんな話を聞かせて怒っていないだけマシか。


「じ、事情はわかった。今日のことは不問にする」


 ほどなくして料理が運ばれてきた。

 俺はカルボナーラ、先輩はペペロンチーノ。

 途中で先輩が当然のように俺の皿にフォークを伸ばしてきたので、俺も先輩の皿から一口もらう。学生時代と同じだ。

 それからは、特に何事もなく食事が済んだ。


「ふー、食べた食べた。私の会社はすぐそこなんだが……何か欲しいものがあるなら、コンビニにでも寄っていくか?」


 先輩は満足そうに伸びをしている。

 言うなら、今しかない。


「先輩。俺、今日は――断りに来たんです」


「…………ちょっと待て」


 伸びをしたまま、先輩の動きがぴたりと止まった。


「いやいや。どうした? どういうことだ?」

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