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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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220/225

第八十六章『偽りの葬、真実の自由』

挿絵(By みてみん)

城の奥、誰も近づかぬ東棟の一角に、その部屋はあった。

分厚い扉の向こうでは、重いカーテンが窓を塞ぎ、換気さえ制限されている。

「神の使い」とその幼い娘は病に倒れ、共に人知れず死を待つ存在として扱われていた。

 

「……おかーしゃん……?」

かすれた声が、枕元から聞こえた。

ファナは目を伏せ、寝台に横たわる少女の額をそっと撫でた。

蒼白く見える額は、汗でじっとりと濡れている。

熱はない。

汗は、閉め切った部屋と

――人目から隠すために重ねた厚い毛布のせいだった。

 

「……もう少し、がんばろうね。あと少しだけ、がまんしたら……」

その声は、恐怖を押し殺すように震えていた。

 

私は、本当に逃げていいの?

自分に何度も問いかけた。

“神の使い”として持ち上げられ、気づけば妃とされ、ただ「産む者」として王の庇護下に置かれた。

ただ微笑み、「神の象徴」として日々を演じるだけ。

それが正しいのだと思い込もうとしていた。

けれど今、傍らの小さな命が、彼女の心をふたたび揺らしていた。

 

***

 

「隔離された状態でございますので、医師の往診は不要かと存じます。進行性の衰弱であれば、自然死として処理できます」

 

青年文官――記録官文官一番と呼ばれる男は、机の上に羊皮紙を広げた。

「経過記録、四日目。母子ともに視力の低下と痙攣を確認。呼びかけへの反応は鈍く、飲食も困難となりつつある、と――」

羽根ペンが、紙の上を滑っていく。

記された経過は、すべて偽りだった。

それでも、確認に訪れる者はいない。

 

準備されたのは、二つの棺だった。

木目の美しい黒檀に金の縁取りが施された大きな棺と、その傍らに置かれた小さな棺。

どちらも王命により、「感染症の危険があるため開封厳禁」とされた。母子の遺体は密閉されたまま、火葬場へ搬送されることになっている。

 

侍女の一人が、ファナの耳元で静かに囁いた。

「今夜です。……覚悟を決めてください」

 

***

 

夜。

 

王宮の裏門近くに、一台の荷馬車が止まっていた。

「……本当に、いくの……?」

侍女服に身を包んだファナは、馬車の影に身を寄せていた。

ボンネットの下には銀髪を隠し、うつむき加減に立つ姿は、寝具の処分に付き添う一人の侍女にしか見えない。

 

セレーナは、汚染された寝具を運び出すための木箱に身を潜めていた。

身体を包む白布は緩く巻かれ、箱の側面には目立たぬよう小さな通気穴が開けられている。

ファナは箱の傍らから離れようとしなかった。

 

「母子の使用した寝具には処分命令が下されたと記録されています。

 衛兵たちは感染を恐れて、中身を確かめようとはしないでしょう」

記録官文官一番の声は低く、冷静だった。

 

だが、最後の言葉だけが僅かに震えた。

「……行ってください。あなたにしか選べないのです」

青年は、まっすぐファナを見つめた。

「自由に、生きることを」

ファナは唇を噛みしめ、頷いた。

 

***

 

裏門の向こうでは、二つの棺を積んだ馬車が先に動き始めていた。

棺の中に入っているのは、遺体ではない。重さを偽るために詰められた石だった。

 

「開けないで。感染症です。王命ですよ」

付き添いの侍女が告げると、衛兵は顔をしかめて道を空けた。

 

誰も、棺の中身を確かめようとはしなかった。

少し遅れて、汚染された寝具を積んだ荷馬車も門を通過する。

御者台の横で、侍女に扮したファナは息を潜めていた。

門を抜けても、振り返らなかった。

振り返れば、足が止まってしまう気がした。

 

***

 

森の中に隠された、一軒の小屋。

馬車が止まると、ファナは転がるように荷台へ上がった。

木箱の蓋が外される。

 

「……セレーナ……!」

ファナは娘を抱き上げた。

汗で冷えた身体の奥には、確かな温もりがあった。

「……ごめんね。ほんとうに、ごめんね……」

小さな身体を胸に抱きしめる。

「ずっと、守れなくて……。でも、もう大丈夫だから……」

涙が止まらなかった。

腕の中の温もりを確かめるたび、生きている実感が胸に満ちていく。

ファナは涙を拭うこともできないまま、僅かに笑った。

 

***

 

扉が静かに開いたのは、逃走から数時間後のことだった。

「遅れて申し訳ありません……」

現れたのは――記録官文官一番だった。

その姿は疲労にまみれ、靴も泥に汚れている。

 

「あなたは……無事で……」

「ええ。追っ手が出ていないことも確認しました。少なくとも、今夜は大丈夫です」

青年はそう答えたあと、視線を落とした。

「……ただ、申し訳ありません」

「どうしたの……?」

「もう一人の子は、連れ出せませんでした」

 

ファナの動きが止まった。

「……もう一人……?」

 

青年は顔を上げられないまま、唇を噛んだ。

「……そうか。あなたには、伝えられていなかったのですね」

小屋の中に、薪のはぜる音だけが響いた。

ファナはゆっくりと立ち上がった。

 

驚きに揺れた瞳が、やがてまっすぐ青年を捉える。

「……うん。……そう、なんだね」

胸元で、強く拳を握る。

「……じゃあ、迎えにいかなくちゃ」

 

***

 

数日後、王宮には正式な報告が届けられた。

神の使い、ファナ・ラムゼリア。

その娘、セレーナ。

両名ともに重篤な感染症により、静かに息を引き取った。

二人の死は国の象徴を揺るがしたが、やがて政治的な区切りとして利用されていく。

 

追悼式が行われ、二つの棺が炎に包まれた。

参列者の誰も、その中身を確かめようとはしなかった。

その頃、青年文官と若い侍女も王宮から姿を消していた。

王に背いた二人の名が、記録に残されることはない。

 

***

 

夜。

 

焚き火が静かに燃える小屋で、ファナはセレーナを膝に抱き、揺れる炎を見つめていた。

「……自由って、こんなにあたたかいんだね」

火の粉が、星のように舞い上がった。

ファナは眠るセレーナの髪を撫で、炎の向こうを見つめる。

「……待っててね。もうひとりのあなたも」

 

その夜、「銀猫」は死に、一人の母が生き始めた。

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