第八十六章『偽りの葬、真実の自由』
城の奥、誰も近づかぬ東棟の一角に、その部屋はあった。
分厚い扉の向こうでは、重いカーテンが窓を塞ぎ、換気さえ制限されている。
「神の使い」とその幼い娘は病に倒れ、共に人知れず死を待つ存在として扱われていた。
「……おかーしゃん……?」
かすれた声が、枕元から聞こえた。
ファナは目を伏せ、寝台に横たわる少女の額をそっと撫でた。
蒼白く見える額は、汗でじっとりと濡れている。
熱はない。
汗は、閉め切った部屋と
――人目から隠すために重ねた厚い毛布のせいだった。
「……もう少し、がんばろうね。あと少しだけ、がまんしたら……」
その声は、恐怖を押し殺すように震えていた。
私は、本当に逃げていいの?
自分に何度も問いかけた。
“神の使い”として持ち上げられ、気づけば妃とされ、ただ「産む者」として王の庇護下に置かれた。
ただ微笑み、「神の象徴」として日々を演じるだけ。
それが正しいのだと思い込もうとしていた。
けれど今、傍らの小さな命が、彼女の心をふたたび揺らしていた。
***
「隔離された状態でございますので、医師の往診は不要かと存じます。進行性の衰弱であれば、自然死として処理できます」
青年文官――記録官文官一番と呼ばれる男は、机の上に羊皮紙を広げた。
「経過記録、四日目。母子ともに視力の低下と痙攣を確認。呼びかけへの反応は鈍く、飲食も困難となりつつある、と――」
羽根ペンが、紙の上を滑っていく。
記された経過は、すべて偽りだった。
それでも、確認に訪れる者はいない。
準備されたのは、二つの棺だった。
木目の美しい黒檀に金の縁取りが施された大きな棺と、その傍らに置かれた小さな棺。
どちらも王命により、「感染症の危険があるため開封厳禁」とされた。母子の遺体は密閉されたまま、火葬場へ搬送されることになっている。
侍女の一人が、ファナの耳元で静かに囁いた。
「今夜です。……覚悟を決めてください」
***
夜。
王宮の裏門近くに、一台の荷馬車が止まっていた。
「……本当に、いくの……?」
侍女服に身を包んだファナは、馬車の影に身を寄せていた。
ボンネットの下には銀髪を隠し、うつむき加減に立つ姿は、寝具の処分に付き添う一人の侍女にしか見えない。
セレーナは、汚染された寝具を運び出すための木箱に身を潜めていた。
身体を包む白布は緩く巻かれ、箱の側面には目立たぬよう小さな通気穴が開けられている。
ファナは箱の傍らから離れようとしなかった。
「母子の使用した寝具には処分命令が下されたと記録されています。
衛兵たちは感染を恐れて、中身を確かめようとはしないでしょう」
記録官文官一番の声は低く、冷静だった。
だが、最後の言葉だけが僅かに震えた。
「……行ってください。あなたにしか選べないのです」
青年は、まっすぐファナを見つめた。
「自由に、生きることを」
ファナは唇を噛みしめ、頷いた。
***
裏門の向こうでは、二つの棺を積んだ馬車が先に動き始めていた。
棺の中に入っているのは、遺体ではない。重さを偽るために詰められた石だった。
「開けないで。感染症です。王命ですよ」
付き添いの侍女が告げると、衛兵は顔をしかめて道を空けた。
誰も、棺の中身を確かめようとはしなかった。
少し遅れて、汚染された寝具を積んだ荷馬車も門を通過する。
御者台の横で、侍女に扮したファナは息を潜めていた。
門を抜けても、振り返らなかった。
振り返れば、足が止まってしまう気がした。
***
森の中に隠された、一軒の小屋。
馬車が止まると、ファナは転がるように荷台へ上がった。
木箱の蓋が外される。
「……セレーナ……!」
ファナは娘を抱き上げた。
汗で冷えた身体の奥には、確かな温もりがあった。
「……ごめんね。ほんとうに、ごめんね……」
小さな身体を胸に抱きしめる。
「ずっと、守れなくて……。でも、もう大丈夫だから……」
涙が止まらなかった。
腕の中の温もりを確かめるたび、生きている実感が胸に満ちていく。
ファナは涙を拭うこともできないまま、僅かに笑った。
***
扉が静かに開いたのは、逃走から数時間後のことだった。
「遅れて申し訳ありません……」
現れたのは――記録官文官一番だった。
その姿は疲労にまみれ、靴も泥に汚れている。
「あなたは……無事で……」
「ええ。追っ手が出ていないことも確認しました。少なくとも、今夜は大丈夫です」
青年はそう答えたあと、視線を落とした。
「……ただ、申し訳ありません」
「どうしたの……?」
「もう一人の子は、連れ出せませんでした」
ファナの動きが止まった。
「……もう一人……?」
青年は顔を上げられないまま、唇を噛んだ。
「……そうか。あなたには、伝えられていなかったのですね」
小屋の中に、薪のはぜる音だけが響いた。
ファナはゆっくりと立ち上がった。
驚きに揺れた瞳が、やがてまっすぐ青年を捉える。
「……うん。……そう、なんだね」
胸元で、強く拳を握る。
「……じゃあ、迎えにいかなくちゃ」
***
数日後、王宮には正式な報告が届けられた。
神の使い、ファナ・ラムゼリア。
その娘、セレーナ。
両名ともに重篤な感染症により、静かに息を引き取った。
二人の死は国の象徴を揺るがしたが、やがて政治的な区切りとして利用されていく。
追悼式が行われ、二つの棺が炎に包まれた。
参列者の誰も、その中身を確かめようとはしなかった。
その頃、青年文官と若い侍女も王宮から姿を消していた。
王に背いた二人の名が、記録に残されることはない。
***
夜。
焚き火が静かに燃える小屋で、ファナはセレーナを膝に抱き、揺れる炎を見つめていた。
「……自由って、こんなにあたたかいんだね」
火の粉が、星のように舞い上がった。
ファナは眠るセレーナの髪を撫で、炎の向こうを見つめる。
「……待っててね。もうひとりのあなたも」
その夜、「銀猫」は死に、一人の母が生き始めた。




