第八十五章『病と偽り、自由の準備』
静けさだけが満ちる部屋だった。
陽の光は届かず、窓は布で塞がれ、扉の前には「感染の恐れあり」と記された札が吊り下げられている。
王宮の一室でありながら、そこはもう、ひとつの墓所のようだった。
***
ファナ・ラムゼリア──否、“神の妃”と呼ばれた彼女は、その中心で静かに座っていた。
ただ、微笑んで。
声も出さず、目も合わせず、動かぬ人形のように。
だが、ほんの少しだけ違っていた。
いつもよりも、ほんの少し、唇の弧が浅かった。
「……具合は、いかがですか?」
いつものように、侍女が一人、静かに部屋へと入ってきた。
王宮の記録に、彼女の名はない。「補助侍女17番」とだけ記されている。
だが、ファナにとっては、唯一……目を見てくれる存在だった。
「……あなた、ほんとは元気なんですよね」
問いかけても、ファナはただ微笑む。
だが、微かに──頬が、揺れた。
「今夜……準備が整います」
侍女はそっと包みを開き、丁寧に畳まれた服を見せた。
落ち着いた色味のロングスカート、襟元にレースのついた白い上着、ボンネット。
どれも、侍女たちが着ている普段の衣服と変わらぬもの。
その傍らには、厚手の毛布と、何枚ものシーツが重ねられていた。
「……これを着て、外へ出るんです。侍女のふりをして、何食わぬ顔で。
今のあなたなら、きっと誰にも気づかれません」
侍女は、重ねられた寝具へ目を向けた。
「セレーナ様は、この中へ。あなたが抱いても、寝具を運ぶ侍女にしか見えません」
ファナの指は、服ではなく、毛布の端へ伸びた。
「……でも、どうしたらいいの?」
それは、数年ぶりに彼女の唇から紡がれた“問い”だった。
侍女は、目を伏せなかった。
「逃げていいんです。生きていいんです。
あなたは……檻の中の鳥じゃない。神じゃない。
ただ、生きたいと願った、一人の女の子だったじゃないですか」
ファナの肩が、小さく震えた。
侍女はそっと、彼女の銀髪をまとめ、ボンネットの下に隠す。
「あなたを見て、変わった人がいます。……私も、その一人です」
その時、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、一人の若い文官──記録官文官一番。
彼は記録係としての任を装い、日々、ファナの“死の兆候”を記録していた。
「今日も、記録しておきます。“顔色は悪く、目に力なし。生気の兆しなく、死期近し”──と」
「……ありがとう」
ファナが、はっきりと返した。
記録官文官一番は目を見開き、そして静かに笑った。
「……初めて聞いた。あなたの声」
「初めて……言えた気がします」
そう言って、ファナは小さく笑った。
かすかに震え、涙でにじんだ笑みだった。
記録官文官一番は肩をすくめて言った。
「おれたちは“記録”に逆らってる。死んだことにして、偽って、連れ出すなんて……処刑されるかもしれない」
「……それでも?」
「それでも。あなたが、生きててほしいから。……生きて、生き直してほしいから」
ファナは、少しだけ顔を伏せた。
そして、胸に手を当てた。
***
夜。
闇の中、布をまとう音がかすかに響いた。
寝台の上では、セレーナがまだ起きていた。
その傍らには、昼間に用意された毛布とシーツが重ねられている。
鏡の前に立ったファナは、侍女の服に身を包み、ボンネットの下から自分の瞳を見つめた。
そこには、かつてのような力強さはない。
それでも、その瞳はもう伏せられてはいなかった。
背後から、侍女がそっと髪を整えた。
「もう、囚われる必要なんてありませんよ」
ファナは鏡の中の自分を見つめ、静かにうなずいた。
その唇に、微かな笑み。
だが、それは“神”の微笑ではない。
──“ファナ”としての、最初の微笑だった。




