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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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219/225

第八十五章『病と偽り、自由の準備』

挿絵(By みてみん)

静けさだけが満ちる部屋だった。

陽の光は届かず、窓は布で塞がれ、扉の前には「感染の恐れあり」と記された札が吊り下げられている。

王宮の一室でありながら、そこはもう、ひとつの墓所のようだった。

 

***

 

ファナ・ラムゼリア──否、“神の妃”と呼ばれた彼女は、その中心で静かに座っていた。

ただ、微笑んで。

声も出さず、目も合わせず、動かぬ人形のように。

だが、ほんの少しだけ違っていた。

いつもよりも、ほんの少し、唇の弧が浅かった。

 

「……具合は、いかがですか?」

いつものように、侍女が一人、静かに部屋へと入ってきた。

王宮の記録に、彼女の名はない。「補助侍女17番」とだけ記されている。

だが、ファナにとっては、唯一……目を見てくれる存在だった。

「……あなた、ほんとは元気なんですよね」

問いかけても、ファナはただ微笑む。

 

だが、微かに──頬が、揺れた。

「今夜……準備が整います」

侍女はそっと包みを開き、丁寧に畳まれた服を見せた。

落ち着いた色味のロングスカート、襟元にレースのついた白い上着、ボンネット。

どれも、侍女たちが着ている普段の衣服と変わらぬもの。

 

その傍らには、厚手の毛布と、何枚ものシーツが重ねられていた。

「……これを着て、外へ出るんです。侍女のふりをして、何食わぬ顔で。

 今のあなたなら、きっと誰にも気づかれません」

侍女は、重ねられた寝具へ目を向けた。

「セレーナ様は、この中へ。あなたが抱いても、寝具を運ぶ侍女にしか見えません」

ファナの指は、服ではなく、毛布の端へ伸びた。

 

「……でも、どうしたらいいの?」

それは、数年ぶりに彼女の唇から紡がれた“問い”だった。

侍女は、目を伏せなかった。

「逃げていいんです。生きていいんです。

 あなたは……檻の中の鳥じゃない。神じゃない。

 ただ、生きたいと願った、一人の女の子だったじゃないですか」

 

ファナの肩が、小さく震えた。

侍女はそっと、彼女の銀髪をまとめ、ボンネットの下に隠す。

「あなたを見て、変わった人がいます。……私も、その一人です」

 

その時、扉が控えめに叩かれた。

入ってきたのは、一人の若い文官──記録官文官一番。

彼は記録係としての任を装い、日々、ファナの“死の兆候”を記録していた。

「今日も、記録しておきます。“顔色は悪く、目に力なし。生気の兆しなく、死期近し”──と」

「……ありがとう」

ファナが、はっきりと返した。

 

記録官文官一番は目を見開き、そして静かに笑った。

「……初めて聞いた。あなたの声」

「初めて……言えた気がします」

そう言って、ファナは小さく笑った。

かすかに震え、涙でにじんだ笑みだった。

 

記録官文官一番は肩をすくめて言った。

「おれたちは“記録”に逆らってる。死んだことにして、偽って、連れ出すなんて……処刑されるかもしれない」

 

「……それでも?」

「それでも。あなたが、生きててほしいから。……生きて、生き直してほしいから」

ファナは、少しだけ顔を伏せた。

そして、胸に手を当てた。

 

***

 

夜。

闇の中、布をまとう音がかすかに響いた。

寝台の上では、セレーナがまだ起きていた。

その傍らには、昼間に用意された毛布とシーツが重ねられている。

 

鏡の前に立ったファナは、侍女の服に身を包み、ボンネットの下から自分の瞳を見つめた。

そこには、かつてのような力強さはない。

それでも、その瞳はもう伏せられてはいなかった。

背後から、侍女がそっと髪を整えた。

「もう、囚われる必要なんてありませんよ」

ファナは鏡の中の自分を見つめ、静かにうなずいた。

その唇に、微かな笑み。

 

だが、それは“神”の微笑ではない。

──“ファナ”としての、最初の微笑だった。

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