第八十四章『涙と沈黙の部屋』
王宮の朝は、静かに始まる。
豪奢な装飾、金糸の衣、誰もが敬語で話す空間。
そこに“神の妃”──ファナ・ラムゼリアは、今日も佇んでいた。
鏡の前。
侍女が淡々と髪を梳いている。淡く香るオイル。身を包むのは、月光を織り込んだような神聖衣。
ファナは微笑んでいた。
まるで、それが自分の仕事であるかのように。
***
「お支度、終わりました」
「……ありがとう」
小さな声で、ファナは返す。
その声は透き通っていたが、奥行きがなかった。
けれど、その目だけが、わずかに揺れていた。
***
侍女が去った後、部屋に二人きりになる。
机の引き出しに、そっと手を伸ばす。
奥にしまい込んでいた、一枚の手紙。
ファナはそれを取り出す。封を開くことはしない。ただ、指先で触れるだけ。
背後の寝台では、セレーナが小さな寝息を立てていた。
王宮に連れてこられてから、最初の三ヶ月ほど、彼女はこの手紙を何度も読み返していた。
言葉にすがるように。
声を思い出すように。
けれど、それは──あまりにも痛かった。
やがて読むことをやめ、封をして、奥にしまった。
それからは、一度も開いていない。
それでも今、ふと手が伸びていた。
***
「……ねぇ、メル。いま、どこにいるの……?」
声にはならなかった。
ただ、唇だけがそう動いた。
***
──その頃。
別室では、ラルガス王が家臣たちと話していた。
「“神の子”の訓練は順調か?」
「は。今朝も術式詠唱は正確で、精神干渉への抵抗値も上昇しております」
「良い。余計な感情は排除して育てよ。“神”にノイズはいらん」
ラルガスはグラスの水を口に含み、軽く目を細める。
「……あれには、男児を産んでほしかったが……まあいい」
「……」
「感情は……道具に不要だ。だが、皮肉なものだな。その“ノイズ”が、“神の子”を生んだのだから」
彼の瞳は冷え切っていた。
***
再び、ファナの部屋。
窓辺の椅子に腰掛け、ファナは手紙に触れたまま動かない。
ぽたりと、一滴の涙が封筒の端を濡らした。
***
部屋へ戻ってきた侍女が、その様子に気づいて立ち止まった。
「……ファナ、さま……?」
ファナは気づかない。
ただ、涙を流している。
侍女は迷い、やがて彼女の隣に膝をついた。
「……泣いても、いいんです」
そっと、彼女の手に自分の手を重ねる。
***
ノックの音。
扉が開かれる。
記録官文官一番が、記録道具を手に入室した。
記録官文官一番──この王宮で、名の代わりに役職と番号を与えられた者の一人だった。
視線が一瞬止まる。
泣いているファナと、それに寄り添う侍女。
侍女は驚き、慌てて立ち上がろうとする。
「申し訳──」
だが、記録官文官一番はそっと手を上げて制した。
そして、筆を持ったまま言う。
「……記録は、必要ありません」
「……え……?」
「“神の涙”と記せば、また“神”に戻されてしまう。彼女が人として泣いたことを、ラルガス王に知られてはならない」
彼は筆を置く。
「……今度こそ、彼女は本当に壊れてしまうかもしれない」
侍女は息を呑んだ。
記録官文官一番は一礼し、部屋を後にした。
侍女はその背中を見送る。
──この人なら、信じられる。
***
夕暮れ。
窓の外の空は、金と群青の混じった淡い色。
部屋の片隅で、ファナはまだ手紙を抱えていた。
涙を落としながら、その声をかすかに震わせる。
「お願い……どうしたらいいの……。
誰か……教えて……」
背後の棚の上から、ファニャンがじっと見つめていた。
黒く、小さな体。けれど、その瞳には深く強い光が宿っていた。
ファナの唇には、朝と同じ微笑みが残っていた。
その頬だけが、涙に濡れていた。
***
それは、三年ぶりの涙だった。




